はじめに
夜の博物館に人々が集う光景は、もはや特別なものではなくなりつつあります。照明に照らされた展示空間、音楽や映像が交錯する演出、非日常の静けさと高揚が同居する空間体験。こうした「ナイトミュージアム」と呼ばれる取り組みは、来館者にとっては一風変わった楽しみであり、博物館にとっては新たな観客との接点を生み出す重要な機会となっています。
ヨーロッパでは1990年代末から「Lange Nacht der Museen(博物館の長い夜)」のような一斉夜間開館イベントが広がり、国際博物館の日(5月)に合わせた夜間無料公開イベントとして定着しました。UNESCOやICOMの支援を受けて開始されたこれらの取り組みは、文化施設の公共性を強調しつつ、地域の活性化や観光政策とも結びつきながら発展してきました。近年では、英国の「Museum Lates」やフランスの「Nuit des Musées」、中国・上海の夜間開館戦略など、多様な地域において独自の進化を遂げています。
一方で、日本の博物館における夜間開館は、まだ制度的にも文化的にも一般化しているとは言い難い状況です。大規模な特別展に合わせた延長開館や、博物館実習・観覧ツアーの一環としての夜間活用は散見されるものの、継続的な「ナイトミュージアム戦略」として位置づけられている例は限られています。だからこそ今、夜間開館を単なる特別イベントとしてではなく、博物館の中長期的な経営戦略の一環として捉え直す必要があるのではないでしょうか。
夜間という時間帯には、来館者層の多様化という利点があります。共働き世帯や学生、休日の混雑を避けたい高齢者層など、従来の昼間の開館時間ではアクセスが難しかった人々に対して、新しい訪問機会を提供できます。また、夜の時間は、照明・音響・空間設計などによって来館体験に特別な意味づけがなされる「演出された文化体験」の場としても機能します。これらは博物館が持つ教育的・文化的価値を拡張する可能性を秘めており、「静かな学び」から「動的な参加」へと変容する契機ともなり得ます。
しかし同時に、時間外開館には運営面での困難も多く存在します。夜間の警備体制、人件費の増加、職員の働き方改革との整合性、安全管理の確保といった課題は、各館の事情に応じて異なる対応が求められます。加えて、単発イベントとして終わるのではなく、来館者の信頼や満足度、さらには継続的な関係性につながるかどうかを評価する指標の設計も不可欠です。夜間開館が「にぎわい」ではなく、「関係性の構築」として機能するには、戦略的な視点と長期的な視座が必要とされるのです。
本稿では、博物館における時間外利用、特にナイトミュージアム戦略に焦点をあて、先行研究と実践事例をもとにその可能性と課題を探ります。来館者との関係性を時間の再編成から捉え直すことで、博物館がどのように多様な社会とつながり続けられるのかを考察することが、本稿の目的です。
理論的背景 ― 時間外開館の意味と課題
博物館の開館時間は、長らく「昼間に訪れる文化施設」として設計されてきました。しかし社会のライフスタイルが多様化するなかで、その「時間の枠組み」自体が再考されつつあります。来館者の生活時間に合わせた柔軟な運営は、単なるサービスの拡充ではなく、博物館の存在意義そのものに関わる重要な戦略的課題といえるでしょう。
ナイトミュージアムのルーツは、1997年にドイツ・ベルリンで始まった「Lange Nacht der Museen(博物館の長い夜)」にあります。この取り組みは、都市内の複数の博物館が一斉に夜間開館し、音楽、演劇、トークイベントなどを交えて来館者に非日常的な文化体験を提供するものでした。以降、2001年にはフランスで「Le Printemps des Musées(博物館の春)」、2005年には国際博物館の日に合わせた欧州全域の「Night of Museums」として展開され、ICOMや各国文化庁の後押しのもと、夜間開館は制度的にも整備されていきました(Herman et al., 2023)。
ナイトミュージアムの導入が注目される背景には、主に三つの要素があります。第一に、来館者層の多様化です。共働き世帯の増加や土日に時間が取りづらい人々にとって、夜間という時間帯は新しい選択肢となります。特に若年層に対しては、SNSでシェアされやすい演出や空間体験を提供することで、「文化施設への親しみやすさ」を高める効果が期待されます(Barron & Leask, 2017)。
第二に、夜間という時間帯がもたらす感性的な効果です。夜の博物館が照明や静寂によって展示物との関係性を深め、鑑賞体験そのものを変容させることが指摘されています(Germain, 2016)。これは「展示の演出」という視点を超えて、来館者の知覚や記憶に与える影響という観点からも重要です。
第三に、施設運営の柔軟性と収益性の確保です。空いている夜間の施設を活用することは、施設資源の有効活用であると同時に、新たな料金設定(有料イベント、限定公開)を通じた収益機会の創出にもつながります。ただし、これは一面的な「稼ぐ戦略」ではなく、公共性や教育的ミッションといかに両立させるかというガバナンスの視点も必要です(Huang & Wei, 2024)。
他方で、ナイトミュージアムには多くの課題も存在します。運営人員の確保、勤務体制の柔軟性、安全管理の強化、地域住民への配慮、照明・音響機器の追加コストなど、現場の負担は決して小さくありません。また、短期的な動員数に終始するのではなく、中長期的な関係性構築やリピート率向上への評価軸がなければ、施策としての持続性が確保されない恐れもあります(Easson & Leask, 2019)。
加えて、夜間イベントの制度的位置づけも国によって異なります。欧州では行政の文化政策と連動して制度化されている一方、日本では各館の裁量に委ねられていることが多く、組織内に夜間開館を支える中長期的な人事・財政・評価の体制が整っていない現状があります。結果として「話題づくり」「集客イベント」として一過性に終わってしまうことも少なくありません。
このように、ナイトミュージアムは「時間外利用」というシンプルな枠組みを超えて、博物館がどのような価値を誰に対して、どのような形で届けるのかという問いに直結しています。制度、運営、体験、評価――多層的な視点からこの取り組みを捉えることが、今後の実践と研究の両面で求められているのです。
実践事例に学ぶ ― 世界各地のナイトミュージアム戦略
ナイトミュージアムの導入と展開は、地域や制度によって大きく異なります。ここでは、欧州、アジアを中心とする複数の実践事例を取り上げながら、その運営手法、来館者層、経営戦略の特徴を比較検討します。
スコットランド国立博物館(NMS):Latesイベントの定着
スコットランド国立博物館では、2011年から「Museum Lates」と呼ばれる夜間イベントが開始され、定期的に開催されています。これは音楽やアート、飲食などを組み合わせた体験型のプログラムであり、特に若年層(Generation Y)を対象とした参加型のナイトイベントとして設計されています(Barron & Leask, 2017)。こうした取り組みは単なる集客施策にとどまらず、博物館との継続的な関係構築に寄与しているとされています(Easson & Leask, 2019)。
同研究では、夜間イベントに初めて参加した来館者のうち、多くが再来訪意欲を示しており、夜間の特別な体験が「博物館に行く動機」を強化する可能性があると報告されています(Easson & Leask, 2019)。これらの事例は、ナイトミュージアムを一過性のプロモーションではなく、中長期的な関係性マネジメントとして位置づける視点の重要性を示唆しています。
中国・上海の都市型ミュージアム群:制度化された夜間開館
中国・上海では2019年以降、政府主導によって博物館や美術館の夜間開館が制度的に推進されています。上海市内の複数の博物館を対象にしたSWOT-TOWS分析において、人的資源・財務体制・観客志向といった内部要因と、政策支援・メディア戦略・地域連携といった外部要因のバランスが成功の鍵を握るとされています(Huang & Wei, 2024)。
この事例において特徴的なのは、夜間開館が「文化消費促進」ではなく、「市民の文化的満足度向上」を政策目標として掲げている点です。夜間イベントは特別な入場料収入を期待するものではなく、むしろ無料公開や地域との共催イベントを通じて、公共文化施設としての信頼性を高めることに重きが置かれています(Huang & Wei, 2024)。
クロアチア・ルーマニア:地域文化と観光振興の融合
クロアチアやルーマニアでは、「ナイト・オブ・ミュージアムズ(Night of Museums)」と呼ばれる全国規模の夜間公開イベントが展開されており、地域住民や観光客の参加が年々増加しています(Mavrin & Glavaš, 2014)。これらの取り組みは、地域の博物館への関心を高める文化行事として位置づけられています。
ルーマニア・オラデア市における調査では、夜間イベントが観光的側面だけでなく、地元住民の帰属意識や文化的誇りを育む役割を果たしていることが明らかにされています(Herman et al., 2023)。このように、ナイトミュージアムは観光資源としての側面と、地域コミュニティとの関係構築という両面を兼ね備える存在となっています。
一方で、こうしたイベントは「一夜限りの集客イベント」に陥る危険もはらんでおり、来館者数は増加しても、博物館の理解や参加意識が必ずしも深まるとは限らないことが指摘されています(Mavrin & Glavaš, 2014)。これは、日本におけるナイトイベント実施の際にも十分に留意すべき視点です。
考察 ― 夜間開館がもたらす価値と限界
ナイトミュージアムという取り組みは、単なる開館時間の延長や一時的なイベントではなく、博物館のあり方そのものに関わる深い問いを投げかけています。それは、「博物館は誰のものか」「どのような時間の中で運営されるべきか」「どのような体験を提供するのか」といった根本的なテーマに直結するものです。
まず注目すべきは、夜という時間帯がもつ独特の体験価値です。夜間の博物館は来館者の知覚に影響を与え、静寂と照明による「感覚の再構成」が鑑賞体験を深化させる可能性があるとされています(Germain, 2016)。日中とは異なる演出により、作品との関係性が個人的かつ内省的なものとなり、来館者の記憶に残る体験を生み出す重要な要素になり得ます(Germain, 2016)。
さらに、夜間開館は博物館の「時間的資源」の戦略的活用でもあります。多くの文化施設では、夜間の時間帯は建物が使われていない、いわば“眠っている”時間です。この空白の時間を来館者との関係構築や収益確保の場として再活用することは、博物館経営の効率化という観点からも重要なアプローチです(Huang & Wei, 2024)。
ただし、時間外開館を収益性の観点からのみ捉えることには慎重さも必要です。夜間イベントによって新規来館者を獲得できても、継続的なリピートや教育的効果には直結しない可能性があると指摘されています(Easson & Leask, 2019)。つまり、イベントとしての成功がそのまま「博物館との関係の深化」に繋がるとは限らないという現実があります。
また、ナイトミュージアムが若年層の関心を惹く一方で、それが恒常的な関与や参加へと展開するには、展示内容や学びのデザインにも工夫が求められます(Barron & Leask, 2017)。夜間イベントが「楽しい」だけにとどまってしまえば、それは文化施設としての意義を矮小化することにもなりかねません。
さらには、地域や制度によっては、夜間開館に必要な人的・財政的リソースが十分に確保できないケースも多く存在します。中国の事例においては、政策的支援があって初めて夜間運営が成立していることが示されています(Huang & Wei, 2024)。制度面の支えがなければ、ナイトミュージアムは持続的に実施できない可能性があります。
ナイトミュージアムは、単なる話題性や一過性のイベントとして終わるのではなく、「来館者との新しい関係性の構築」「博物館の時間的資源の再編成」「文化施設としての社会的意義の再確認」といった、多層的な意義を含む取り組みです。それだけに、制度的・組織的支援を含めた持続可能な導入が求められます。
まとめ
ナイトミュージアムという取り組みは、単なる夜間の開館や一過性のイベントにとどまらず、博物館の運営戦略全体を再構築する可能性を持っています。夜という時間帯に文化空間を開くことは、来館者に新たな体験を提供するだけでなく、博物館自身がどのように社会とつながり直すかという問いを投げかけます。
このような時間外利用は、日中に訪れにくい層との接点を生み出し、多様な来館者への包摂的な姿勢を示す取り組みにもなります。加えて、施設の時間的リソースを有効に活用しながら、収益性や地域との連携といった経営上の課題にも応える戦略として注目されています。
一方で、制度面や人的リソースの制約、実施の持続可能性など、慎重な運営設計が求められる側面もあります。夜間開館を一過性の話題づくりに終わらせず、来館者との信頼関係を深める契機として位置づけていくには、評価と改善を繰り返す長期的な視点が欠かせません。
ナイトミュージアムは、「時間」という切り口から博物館のあり方を見直すきっかけとなります。社会の変化に応答しながら、博物館がより開かれた存在であり続けるための選択肢の一つとして、今後もその可能性を広げていくことが期待されます。
参考文献
Barron, P., & Leask, A. (2017). Event education and experience in an era of change: Museum Lates and Generation Y. Journal of Hospitality & Tourism Education, 29(3), 111–120.
Easson, G., & Leask, A. (2019). Visitor engagement through nighttime events: Visitor motivations and outcomes at museum Lates. International Journal of Event and Festival Management, 10(3), 245–263.
Germain, A. (2016). Night at the museum: Architecture, atmosphere and the visitor experience. Museum and Society, 14(2), 264–279.
Herman, E., Dumitrescu, G. N., & Gazzola, P. (2023). Night of Museums: Event tourism and sustainability in the city of Oradea. Sustainability, 15(4), 1738.
Huang, J., & Wei, J. (2024). Management strategies for museum night opening in China: A SWOT-TOWS analysis of Shanghai museums. Geojournal of Tourism and Geosites, 49(4), 1361–1370.
Mavrin, I., & Glavaš, M. (2014). Cultural tourism and the Night of Museums: Case study of the Museum of Slavonia in Osijek. Geoadria, 19(2), 175–192.