子どもにやさしい博物館とは? ― 遊び・学び・親子の体験がつながる空間設計の工夫

目次

はじめに:子どもと博物館 ―「やさしさ」とは何か?

近年、多くの博物館で子ども向け展示やキッズスペースの充実が図られています。家族連れの来館者を意識した体験型の展示が増え、親子で楽しめるイベントやワークショップの導入も一般化しつつあります。こうした取り組みは、単なる集客策ではなく、博物館が果たす社会的役割の拡張として注目されています。すなわち、子どもが文化施設と出会う「最初の場所」としての博物館の意義が見直されているのです(Piscitelli & Penfold, 2015)。

では、「子どもにやさしい博物館」とは、具体的にどのようなものを指すのでしょうか。展示が低い位置に設置されている、安全な素材が使われている、解説にふりがなが振られている……こうした物理的な配慮は確かに重要です。しかし、真に「やさしい」と言える空間とは、子どもが安心して自らのペースで関わり、好奇心を持って探究できるような、参加型かつ探究的な環境ではないでしょうか。

博物館における「やさしさ」は、単に与えられる利便性だけでなく、子どもが主体的に行動し、関係を築き、発見や驚きを通じて学びを深めることができる「余白のある空間」として構成される必要があります。このとき、子どもは「学ばせられる存在」ではなく、自らの経験を通じて世界と関わる能動的な「体験者」として捉えられます(Anderson et al., 2002)。

さらに、こうした空間では子ども自身の声が反映されることも求められます。子どもにとって魅力的な展示とは何か、どうすれば親しみを感じるかといった問いに対して、大人が一方的に答えを用意するのではなく、子どもたちの感性や視点を活かす設計が重要です(Dockett, Main, & Kelly, 2011)。そのためには、子どもを「対象」として扱うのではなく、「協働するパートナー」として迎え入れる姿勢が求められます。

本記事では、こうした観点から子どもにとっての「やさしさ」とは何かを再考します。とくに、子どもを中心とした空間設計の理論的背景と、実際の博物館での事例を参照しながら、子どもが遊び、学び、親子の関係性が豊かに育まれる博物館のあり方を探ります。キーワードは「創造的遊び」「スキャフォールディング」「親子の共同体験」「参加型デザイン」そして「曖昧さのある体験空間」です。これらを手がかりに、子どもが「また来たい」と思える博物館の条件を紐解いていきます。

子ども中心主義から考える博物館のあり方

「子どもにやさしい博物館」を考える上で、近年注目されているのが「子ども中心主義(child-centered approach)」という考え方です。これは、子どもを単なる知識の受け手としてではなく、自らの関心や感覚をもとに学び、体験し、意味をつくりだす主体として捉える視点です。展示や空間が「教える」場ではなく、子どもが自分のペースで探究し、発見できるように設計されていることが、子ども中心の博物館において重要とされます(Anderson et al., 2002)。

この考え方は、従来の「教育的空間」としての博物館観とは一線を画します。博物館は長らく、大人が子どもに知識を与える場として位置づけられてきました。しかし、子どもをそのような受動的な存在として扱うのではなく、自ら動き、関わり、感じる存在として尊重することが求められています。つまり、子どもは「学習者」である前に「体験者」であり、さらに「参加者」でもあるのです(Birch, 2018)。

こうした子ども中心の視点は、空間設計の実践にも大きな影響を与えています。たとえば、展示の高さや動線の工夫はもちろんのこと、子どもが自由に選んで関われるような仕掛け、静かに観察する空間と活発に動けるスペースの共存、そして大人と一緒に考えたり語ったりできるような場の構成など、設計思想そのものが変化しつつあります。そこでは、子どもの「自由な遊び」や「即興的な行動」が受け入れられるような柔軟性が重要視されます(Piscitelli & Penfold, 2015)。

しかし、ここで注意すべきなのは、「子ども向け」と「子ども中心」は必ずしも一致しないという点です。たとえば、装飾がカラフルでキャラクターが登場する展示であっても、それが一方的に提供された情報に子どもを従わせるものであれば、それは「子ども向け」ではあっても「子ども中心」ではありません。真に子ども中心の設計とは、子どもが自分のやり方で関われる余地=参加の余白があるということなのです。

また、子ども中心のアプローチは、しばしば「遊び」と「学び」、「感性」と「知識」、「子ども」と「大人」といった二項対立を乗り越える可能性をもっています。たとえば、遊びながら光や音に触れる体験の中に、科学的な観察力が育まれたり、感性と論理が同時に働いたりするような展示空間は、まさにその象徴といえるでしょう。そして、そのような空間では、子どもと大人が同じ場に身を置きながら、互いに違う体験をし、対話を交わすことができます(Birch, 2018)。

このように、「子ども中心主義」は単に設計手法の話にとどまらず、博物館のあり方そのものを問い直す視点といえます。それは、来館者を「年齢」や「役割」で分けるのではなく、すべての人が共に空間を共有し、異なる体験を認め合う場として博物館を捉え直すことにつながります。次節では、このような空間の中で「遊び」と「学び」がどのように交差し、子どもの成長を支えているのかを、実例を交えながら掘り下げていきます。

曖昧さと余白を残す ― 感性と身体で楽しむ体験

「わかりやすさ」や「学習効果」が重視される現代の展示空間において、あえて意味や意図を限定しない設計にはどのような意義があるのでしょうか。とくに子どもを対象とした展示では、すぐに「学び」に直結させようとするあまり、情報を与えすぎてしまうことがあります。しかし、すべてが整理され、計算され尽くした空間は、ときに子どもたちの自由な探究心や感性を制限してしまうことがあります。

曖昧であること、余白があること。これは「わからなさ」ではなく、「わかろうとする余地があること」と言い換えることができます。何のための展示なのか、どう感じればいいのかが決められていないからこそ、来館者は自分なりの発見や意味づけに向かうのです。そのような体験は、特に子どもにとって強く記憶に残り、後からじわじわと理解が広がることも少なくありません(Birch, 2018)。

たとえば、音の鳴る装置が設置された部屋に入った子どもが、音の正体を突き止めようと試行錯誤する場面があります。触ってもいいのか、音はどこから出ているのか、どうやったら変化するのか。明確な説明がないからこそ、子どもは耳を澄ませ、身体を動かし、他の来館者と一緒に体験しながら「これはどうなっているんだろう」と考え続けます。こうした探索の過程こそが、まさに学びそのものなのです。

曖昧な展示には、「間違いを避ける」設計ではなく、「問い続ける」設計が必要になります。展示の目的を明示せず、説明文も必要最低限にとどめ、素材や構造に抽象性や多義性を持たせることで、子どもたちは自分なりの言葉で語り、自分の身体で試していきます。「わかる」よりも先に、「感じる」「遊ぶ」「つくる」といった行為が誘発される空間。それは、情報ではなく経験を中心に据えた博物館のあり方とも言えるでしょう。

重要なのは、こうした曖昧さが「放任」とは異なるという点です。見守る大人の存在、他者との対話、スタッフのさりげない働きかけなどが支えとなることで、子どもは安心して自分なりの関わりを試すことができます。意味が一つに定まらない展示物を前に、「あなたはどう思う?」という問いかけが交わされる空間は、まさに子どもと大人の対話の場であり、共に考える学びのプロセスが展開される場でもあります(Anderson et al., 2002)。

このような展示空間は、子どもに正解を与えることではなく、問いを手渡すことを重視します。そしてその問いは、すぐに答えが出るものではなく、博物館を出たあとも続いていくような「持ち帰る問い」になるのです。「なんだったんだろう」「あれは面白かった」という感覚は、やがて別の場所や出来事と結びつき、新たな意味を持ちはじめます。曖昧さと余白は、そうした時間差のある学びを生むための土壌でもあります。

博物館は、すべてを明快に伝える場である必要はありません。むしろ、訪れる人びとが自分のペースで、自由に感じ、考え、語ることのできる空間であることが、特に子どもにとって大切な意味を持つのです。

次節では、こうした空間での体験が、どのように「また来たい」と思わせる記憶となり、博物館との関係性を築く契機となるのかを考えていきます。

おわりに:子どもが帰りたくなくなる博物館へ

「また来たい」「帰りたくない」――子どもが博物館をあとにするとき、そんな言葉をこぼす瞬間があります。それは、展示内容をすべて理解したからでも、知識をたくさん得たからでもありません。もっと遊びたい、もっとやってみたい、まだここにいたい。そう感じるとき、子どもはその空間と深くつながり、自分の世界を広げる体験をしているのです。

博物館での学びは、必ずしも「知識としての成果」に現れるとは限りません。ときに記憶に残るのは、展示の名前ではなく、展示の中で感じた驚きや発見、誰かと交わした言葉、身体が動いた感覚といった、もっと根源的で感情的な記憶です。特に子どもにとっては、「何を学んだか」よりも、「誰と」「どう感じたか」のほうがずっと強く残ります。つまり、「また来たい」という気持ちは、博物館そのものとのつながりというより、自分自身の経験と結びついた記憶への帰属なのです。

そのような体験を生み出す場には、「説明される展示」よりも、「一緒に考えられる余白」、「決められた導線」よりも「自由に動ける空間」、「与えられる学び」よりも「気づきが芽生える瞬間」が必要です。そして何よりも、子どもの声や身体の動きに耳を澄ませ、そのまなざしを受けとめる大人や空間の存在が欠かせません。大切なのは、「子ども向け」ではなく、「子どものまなざしと対話できる場」をつくることです。

子どもにやさしい博物館とは、子どもを特別扱いする場所ではありません。むしろ、子どもをひとりの来館者として尊重し、いま・ここにいる子どもに正面から向き合おうとする姿勢を持ち続ける空間です。そこでは、「年齢に合わせた情報提供」だけでなく、子どもが自らの感性と知的好奇心を解き放ち、自分の方法で関われる自由が保障されます。

そして、そのような体験は、単に「また来たい」という一度きりの感想にとどまりません。「自分は歓迎されている」「ここでは自由にふるまっていい」と感じた記憶は、将来の文化施設への関心や、社会とのつながりの形成にも影響を与えます。ひとつの展示、一度の対話が、子どもの世界をひらく入口になることもあるのです。

「子どもにやさしい博物館」を考えることは、来館者の一部に焦点をあてることではなく、博物館という場所そのもののあり方を問い直すことにつながります。すべての来館者が、自分のペースで、自由に、心を動かしながら過ごせる場。そんな博物館こそが、子どもにとっても、大人にとっても「また来たくなる」場所であり続けるのではないでしょうか。

参考文献

Anderson, D., Lucas, K. B., & Ginns, I. S. (2002). Theoretical perspectives on learning in an informal setting. Journal of Research in Science Teaching, 40(2), 177–199.

Birch, J. (2018). Museum spaces and experiences for children: Ambiguity and uncertainty in defining the space, the child and the experience. Museum Management and Curatorship, 33(5), 413–428.

Bryant, J. (2011). Curating childhoods: Objects, affect and the adult-child relationship in museum exhibition. Journal of Material Culture, 16(3), 249–265.

Dockett, S., Main, S., & Kelly, L. (2011). Consulting young children: Experiences from a museum. Visitor Studies, 14(1), 13–33.

Piscitelli, B., & Penfold, L. (2015). Consulting young children: A museum perspective. In T. Maynard & S. Watson (Eds.), Exploring education and childhood: From current certainties to new visions (pp. 146–156). Routledge.

Wolf, B. (2012). Interactivity: At the intersection of museums and children. Curator: The Museum Journal, 55(4), 407–418.

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この記事を書いた人

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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