はじめに ― 博物館は「アイデンティティ」をどう形成するか?
博物館は、社会において単なる資料や文化財の収蔵・展示を行う場所ではなく、時代や地域の「意味」を構築し、社会的な価値観や記憶を未来へ伝える重要な機関です。現代においては、「博物館 アイデンティティ」というテーマが、かつてないほど注目されています。なぜなら、グローバル化による多文化社会の進展や、ナショナリズムの再燃、さらにはデジタル化といった急速な社会変動のなかで、「アイデンティティ」が誰にとっても切実な課題となりつつあるためです。こうした変化を背景に、博物館が「誰の物語を」「どのような形で」「どのような価値観のもとで」社会に示すのかという根源的な問いが改めて問われています。
博物館のアイデンティティとは、単にその施設やコレクションが持つ伝統的なイメージだけではありません。国民的アイデンティティやナショナル・ナラティブの表象装置として、国家や地域の歴史的物語を再構成し、記憶の共有や帰属意識の形成に寄与してきた側面があります(McLean, 1998)。一方で、現代の博物館は、社会的包摂や多様性、社会的弱者の声の可視化といった新たな社会的課題に応える役割も担っています。たとえば、コミュニティ・ミュージアムや参加型展示、地域連携プロジェクトを通じて、多様な来館者が自らのアイデンティティを再発見し、社会的なつながりを深める機会を提供するようになっています(Newman & McLean, 2006)。
また、テクノロジーの進展によって、博物館の「デジタルアイデンティティ」も極めて重要な論点となっています。デジタル技術を活用したオンライン展示やバーチャルツアー、SNSでの情報発信は、物理的な博物館の枠を超え、グローバルな視点から新たなブランドや自己像を形成する契機となっています。こうしたデジタル空間でのアイデンティティ構築は、従来の「現場中心」だった博物館の役割を大きく変容させつつあり、今後の展示戦略や来館者体験の設計にも大きな影響を与えることが予想されます(Povroznik, 2024)。
本記事では、「博物館とアイデンティティ」という広範なテーマについて、国民的アイデンティティの再構築、社会的アイデンティティの包摂、そしてデジタルアイデンティティの革新という三つの観点から包括的に論じます。これにより、博物館が現代社会においてどのような「意味生成」の主体となりうるのか、また展示や運営戦略が社会や来館者の自己認識にいかに関与しているのかを、理論と実務の両面から明らかにします。
博物館はこれからも、「誰のために、どのようなアイデンティティを、どのように表象するのか」という根本的な問いに絶えず向き合いながら、社会の変化に適応し、自己を再定義し続ける存在であり続けるでしょう。
博物館と国民的アイデンティティ ― ナショナリズムの表象装置
博物館は、国民的アイデンティティの構築や再構成において中核的な役割を果たしてきた文化的装置です。国民的アイデンティティとは、単なる血縁や地理的つながりではなく、共通の歴史・記憶・価値観・象徴を共有することで社会的に生み出されるものです。近代以降、国家は国民的アイデンティティを形成・強化するために、博物館という制度を積極的に活用してきました。たとえば、19世紀の産業博覧会や国立博物館の創設は、国民としての誇りや帰属意識を育成する意図と結びついています(McLean, 1998)。
博物館の展示や収蔵物は、単なる歴史資料ではなく、象徴的な意味を持つ存在として、国民的記憶やナショナリズムの「物語」を社会に語りかけています。とくに、国家を代表するシンボルや重要な文化財の展示は、来館者にとって「自分たちの歴史」や「国家の歩み」と直結する体験となります。スコットランドの「運命の石(Stone of Destiny)」のように、特定のオブジェクトが帰属や展示のあり方をめぐって激しい議論や感情の高まりを生むことは、博物館が国民的アイデンティティとナショナリズムの交差点に位置していることを示しています(McLean, 1998)。
また、博物館における「展示」とは、モノをただ見せるだけではなく、「どの物語を、どのような文脈で、どんな価値観のもとに強調するのか」という「表象」の選択そのものです。キュレーターや政策決定者は、展示内容やナラティブの設計を通じて、社会にとって「重要」とされる記憶や価値を選び出します。一方で、こうした選別・表象のプロセスは、必然的に「排除」の力学も生みます。つまり、どの物語や歴史が展示で強調され、どの記憶が見えにくくなるのか、という「展示の政治性」が常に問われます。展示と権力、表象の政治性については、博物館展示の政治性とは何か ― 権力・表象・経済の視点から読み解くもあわせてご参照ください。

こうした展示の構造的特徴や社会的インパクトを多角的に分析する際、理論的フレームとして有効なのが「文化の回路モデル」です。文化の回路モデルでは、「表象(representation)」「生産(production)」「消費(consumption)」「規制(regulation)」「アイデンティティ(identity)」という五つのプロセスが、相互に関連しながら意味を生成し、社会的現実を構築します。たとえば、ある歴史的遺物がどのような意図や価値観のもとで収蔵・展示されるのか(生産)、どんなストーリーや解説とともに社会に提示されるのか(表象)、来館者がそれをどのように体験し意味づけるのか(消費)、そして法制度や社会規範がその選択・解釈にどんな影響を及ぼしているのか(規制)といった複層的な視点から、博物館における国民的アイデンティティの再生産の仕組みを明らかにします(McLean, 1998)。
現代社会においては、グローバル化や多文化化、移民・国際交流の進展によって、従来の単一的なナショナリズムや国民物語の提示だけでは社会の多様性に十分応えることが難しくなっています。こうした時代状況のなかで、博物館は従来型の「一つの物語」から、包摂的かつ多声的な展示への転換を求められるようになりました。新たな国民的アイデンティティの模索や、多文化的社会への適応は、今後の博物館経営・展示戦略における大きな課題であり、同時に創造的な可能性でもあります。
このように、博物館は「誰のための、どのような国民的アイデンティティを、どのように表象するのか」という問いと向き合い続ける中で、社会の変化や多様な価値観に対応しながら、意味生成の主体として進化し続けていると言えるでしょう。
博物館と社会的アイデンティティ ― 社会的排除から包摂への挑戦
社会的アイデンティティは、人々が「自分はどの集団に属し、どのような社会的役割や意味を担っているのか」を認識し、自己の価値や帰属意識を獲得するための重要な枠組みです。博物館は、こうした社会的アイデンティティの形成や再構築において、単なる「展示の場」を超えた社会的・文化的な意味生成の空間として存在しています。とりわけ、記憶や物語の共有、象徴的資源の可視化を通じて、来館者や関係者が自らのルーツや社会的立場を再発見する機会を提供しています。
しかし、歴史的にみると、博物館は一部の人々や集団の価値観や物語だけを正統なものとして強調し、多様な社会集団やマイノリティ、周縁化された人々のアイデンティティや声を十分に取り入れてこなかった側面があります。これが「社会的排除」の問題として指摘され、近年では「誰もが自分の物語を語ることができる包摂的な博物館」のあり方が国際的な潮流となっています(Newman & McLean, 2006)。
イギリスのPollok Kistプロジェクトのように、地域住民や社会的に排除されがちな人々自身が展示計画や収蔵物の選定に主体的に参加する事例は、博物館が「アイデンティティの交渉と再定義」の場となることを象徴しています。こうした参加型展示やコミュニティ主導の活動では、来館者が自分自身や自分のコミュニティをどのように表象したいかを能動的に語ることができ、従来の「上からの展示」では得られなかった自己肯定感や社会的連帯感が育まれます。これこそが、社会的アイデンティティの可視化と多様な帰属意識の再構築につながる博物館の新しい意義です(Newman & McLean, 2006)。
また、文化の回路モデルの観点からも、社会的アイデンティティの構築は「表象(representation)」「生産(production)」「消費(consumption)」「規制(regulation)」「アイデンティティ(identity)」という複数のプロセスを通じてダイナミックに生成されます。展示物や語りの選定だけでなく、それを誰がどのように受け止め、自らの経験や記憶と照らし合わせて意味づけるか、さらに社会制度や文化的規範がその構造をどう規定するかなど、アイデンティティの生成は単線的ではありません。展示は社会的アイデンティティの「交差点」となり、個人や集団の多様な物語が共存し、新しい社会的意味やつながりが生まれる場として機能します。
一方で、社会的アイデンティティを包摂的に扱う展示や運営には、多様な声の調整や対話、記憶や経験の衝突など、多くのチャレンジも伴います。しかし、だからこそ、来館者や関係者が自分自身を肯定的に語り、他者の物語を受け入れる過程は、社会的包摂やエンパワーメントの基盤となるのです。博物館は「誰の物語も排除しない空間」として、これからも社会的アイデンティティの再発見と再構築に貢献し続けることが期待されます(Newman & McLean, 2006)。
博物館のデジタルアイデンティティ構築 ― オンラインでの博物館像の再定義
デジタルアイデンティティとは、組織や個人がオンライン空間でどのように自らを表現し、認識され、意味づけされていくかという「デジタル上の自己像」を指します。現代の博物館は、従来の物理的な空間やコレクション中心の「博物館像」から、デジタル空間における意味生成や自己表象を不可欠な要素として再構築しつつあります。インターネットやSNSの発展、デジタル技術の進歩により、博物館はもはや現地来館者だけでなく、オンライン上の多様なユーザーやコミュニティとも新たな関係性を築く必要が生まれています(Povroznik, 2024)。
博物館のデジタルアイデンティティを形作る主な要素には、まず組織としてのミッションや価値観をデジタル領域でどのように明確化し、発信するかという課題があります。オンライン展示、ウェブサイト、SNS、動画、ブログなど、あらゆるデジタルコンテンツが一貫した方針に基づいて設計されているかどうかが、ブランドの信頼性や独自性につながります。また、ロゴ・配色・レイアウトといったビジュアルアイデンティティの統一、そしてコンテンツごとのトーン・オブ・ボイス(語調や言葉遣い)の明確化も重要です。さらに、ユーザーとのインタラクション設計や双方向性、コミュニティ形成への積極的な関与が、現代的なデジタルアイデンティティ構築の核となっています(Povroznik, 2024)。
近年では、オンライン展示やバーチャルツアーといったデジタル来館者体験が急速に普及しています。これにより、物理的な博物館を訪れなくても、世界中の人々が特定の展示やコレクションにアクセスし、自分自身の関心や文化的背景と重ね合わせて新たな意味を見出すことが可能となりました。SNSやデジタル参加プログラムを通じて、ユーザーが展示にコメントを残したり、自らの物語を発信したりできる仕組みも普及しつつあり、デジタル環境下での「共創」や「共同体感覚」が生まれやすくなっています。こうした体験は、来館者一人ひとりのアイデンティティ形成や所属意識にも新たな影響を与えています。
とくに注目されるのが、デジタルストーリーテリングによる博物館の自己表象の最適化です。ストーリーテリングは、バラバラなコンテンツや情報を「意味のある物語」として束ね、デジタル空間におけるブランドの一貫性や記憶への残りやすさを高めます。デジタル技術を活用した展示設計やSNSキャンペーンによって、ユーザーが自分自身を投影したり、他者と価値観を共有したりできるナラティブ設計が重視されています。具体的な実践や最新動向については、博物館のデジタルストーリーテリングとは何か ― 理論と実践、そして未来で詳しく解説していますので、あわせてご参照ください。

一方で、デジタルアイデンティティの形成にはブランドの統一性や一貫性、地域性・独自性との両立、急速なデジタル環境変化への対応といった課題もつきまといます。オンラインとオフラインを横断する「ハイブリッドな博物館像」を実現するためには、従来の来館者体験や展示戦略だけでなく、全方位的なブランド管理やデジタル戦略の再設計が不可欠です。今後の博物館経営にとって、デジタルアイデンティティの強化は、来館者・ユーザーとの新しい信頼関係を築くための重要な基盤となるでしょう(Povroznik, 2024)。
博物館におけるアイデンティティ構築の実践的戦略
博物館の「アイデンティティ構築」とは、単に展示物や資料を見せるだけでなく、「どのような価値観や物語を社会に発信する博物館でありたいか」を明確にし、そのイメージをあらゆる活動や空間デザインに反映していくプロセスです。現代の博物館経営においては、来館者や地域社会がその存在意義や個性を感じ取りやすいように、意図的なアイデンティティ構築が求められています。
まず、アイデンティティ構築の第一歩は、博物館として大切にしたい「ビジョン」や「ミッション」、コアとなる「ブランドイメージ」を明確にすることです。たとえば、「地域文化の継承を通じて社会の多様性に貢献する」「来館者と共に新しい歴史を紡ぐ参加型ミュージアムを目指す」など、具体的な方向性を打ち出すことで、職員の意識や展示計画、広報戦略まで一貫性を持たせることができます。
展示デザインにおいては、どんなテーマやストーリーをどのように構築し、空間全体を通じて「意味」をどのように体感してもらうかが重要なポイントとなります。ストーリーテリングの工夫や、来館者が自分の経験や記憶と重ね合わせられるような展示動線の設計、対話的・体験型の展示方法など、多様なアプローチがアイデンティティ構築に寄与します。たとえば、地域ゆかりの人々の証言や生活資料、地元の子どもたちが作った作品などを展示に盛り込むことで、「この博物館は自分たちの物語を大切にしてくれている」と来館者に感じてもらうことができます。
社会的包摂や多様性を実現するうえでは、マイノリティや多文化、さまざまな世代の声を積極的に展示や運営に取り入れることが求められます。コミュニティと協働した展示やワークショップ、参加型のプログラムによって、来館者自身が「展示の語り手」となり、主体的にアイデンティティを再発見する機会を創出できます。こうした活動は、単なる「見る博物館」から「関わる・語る博物館」への転換を実現し、地域社会との信頼関係や包摂的なブランドイメージを強化します。
デジタル技術の進展も、現代のアイデンティティ構築戦略において不可欠な要素です。オンライン展示やSNS発信、バーチャルツアーなど、物理的な来館だけでなく、ウェブ上でも博物館のブランドや物語を広く発信することが可能になっています。ウェブ上で来館者の声や参加型コンテンツを集約したり、SNS上で地域や多様な文化の物語を共有したりすることで、従来は博物館に足を運べなかった人々もアイデンティティ形成のプロセスに参画できるようになりました。こうした「デジタル・アイデンティティ」は、現代のブランド戦略の中核とも言えるでしょう。
さらに、アイデンティティ構築には、日常的な運営やスタッフのコミュニケーションも深く関係しています。例えば、受付やガイドの応対、イベント時のメッセージ、学芸員による説明会など、すべての接点が「博物館らしさ」やブランドイメージに直結します。内部で定期的に「自分たちの博物館らしさ」を再確認し、社会や来館者の変化に合わせて柔軟に戦略を更新する姿勢も欠かせません。
現代の博物館にとってアイデンティティ構築は、展示や空間だけでなく、デジタル・リアルを横断し、地域・社会・個人との新しいつながりを生み出す戦略的な取り組みです。「誰のために」「どのような物語を」「どのような方法で」社会に伝えたいのかを問い続けることで、時代や価値観の変化にも対応した“生きたブランド”として進化し続けることが可能となります。
今後の博物館経営や展示企画では、こうしたアイデンティティ構築の視点を常に持ちながら、来館者や地域社会と共に新しい価値を創造していくことが重要になるでしょう。
まとめ ― アイデンティティを表象・共有する博物館の未来
博物館は、国民的・社会的・デジタルという多様なレイヤーで「アイデンティティ」の意味生成と共有に関わる現代的な公共空間です。本記事では、ナショナリズムや社会的包摂、デジタル変革の視点から、博物館のアイデンティティ構築の理論と実践、そして未来への課題を整理してきました。展示や運営のあり方ひとつひとつが、来館者や地域社会の自己認識や帰属意識を支える“意味の場”となり得ることを改めて確認することができました。
現代社会における博物館の責任は、「誰のために」「どのような物語を」「どのような方法で」社会とつながり、信頼を構築し続けるかという問いと切り離せません。社会的包摂や多様性の実現、デジタル時代の新しいコミュニケーションに対応することは、単なる流行ではなく、博物館が今後も社会に必要とされ続けるための本質的な課題です。アイデンティティ構築は一過性のイベントや展示で終わるものではなく、日々の実践や運営の積み重ねによって深められていくべきものだと言えるでしょう。
今後の博物館は、リアルとデジタル、地域とグローバル、多様な人々の物語が交差し合う場として、さらに豊かなアイデンティティの生成と共有を実現していくことが求められます。社会や来館者の変化を敏感に捉え、時代ごとに進化し続ける「生きたブランド」として、博物館が果たすべき役割はますます大きくなるでしょう。アイデンティティを軸に据えた展示・経営・コミュニケーションの実践が、博物館の未来を形づくる鍵となります。
参考文献一覧
- McLean, F. (1998). Museums and the construction of national identity: A review. International Journal of Heritage Studies, 3(4), 244–252.
- Newman, A., & McLean, F. (2006). The Impact of Museums upon Identity. International Journal of Heritage Studies, 12(1), 49–68.
- Povroznik, N. (2024). Museums’ digital identity: Key components. Internet Histories, 8(1-2), 153–168.