はじめに
博物館は、知識や文化を社会に広く伝える場として、多くの人々に親しまれてきました。展示室を歩きながら、私たちは歴史や美術、自然科学の豊かな世界に触れ、学び、驚き、感動する機会を得ています。博物館は、知識の宝庫であると同時に、公共の学びの場としての役割を果たしてきたといえるでしょう。
しかし、展示される対象やその見せ方は、果たして本当に中立なものなのでしょうか。展示とは、単に事実を並べる行為ではありません。どの事実を取り上げ、どのような順序で、どのような文脈で提示するか。そこには必ず、選択と解釈が介在しています。そしてその選択や解釈は、時に無意識のうちに、特定の社会的価値観や権力関係を映し出すものとなるのです。
近年、世界中の博物館で、こうした展示のあり方があらためて問われるようになっています。誰の歴史を語るのか。どの文化が「普遍」とされ、どの文化が「周縁」に追いやられてきたのか。展示空間に潜むこうした問いは、社会の多様性や公正さをめぐる議論と深く結びついています。博物館は単なる中立的な知識の殿堂ではなく、社会や政治と密接に関わる存在であることが、徐々に広く認識されつつあるのです。
本稿では、博物館展示における「政治性」という側面に注目し、展示が社会や権力、経済とどのように結びついてきたのかを考察します。具体的には、三つの視点から議論を進めます。
第一に、博物館が歴史的にどのようにして社会統治や権力装置の一部として機能してきたのかを検討します。
第二に、展示物の選定と配置を通じて、どのような社会的表象が生み出され、特定の文化や価値観が可視化されてきたのかを考えます。
第三に、博物館の運営や収蔵活動において、経済的な力――すなわち富や資本――がどのように作用しているのかを明らかにします。
展示室を歩くとき、私たちは無数の物語に出会います。その物語の背後にある構造に目を向けることは、博物館という場をより深く理解するために欠かせない視点です。本稿を通じて、博物館展示の背後にある力学に意識を向けるきっかけとなれば幸いです。
博物館はなぜ政治的な装置なのか
博物館は「中立」ではない?
博物館は、知識や文化を社会に広く伝える場として、多くの人々に親しまれてきました。展示室を歩きながら、私たちは歴史や美術、自然科学の豊かな世界に触れ、学び、驚き、感動する体験を重ねてきたことでしょう。
けれども、ふと立ち止まって考えてみると、そこに並ぶ展示物は、いったいどのような基準で選ばれ、どのような意図で配置されているのでしょうか。
展示とは、単なる事実の羅列ではありません。どの事実を取り上げ、どの順序で、どの文脈で見せるのか――その過程には必ず選択があり、意図があります。そして、その意図は、しばしば社会的・政治的な力と無関係ではありません。
博物館は、中立な知識の殿堂であると同時に、特定の価値観や社会秩序を可視化する装置としても機能しているのです。
博物館の誕生と「国民教育」
近代的な博物館が誕生した18世紀から19世紀のヨーロッパでは、国家という枠組みが整備される中で、国民を統合する手段が求められていました。博物館は、そのための公共的な教育装置のひとつとして位置づけられたのです。
たとえば、大英博物館やルーヴル美術館は、文化遺産を市民に開放するという建前のもと、国家の歴史的正統性や文化的優越性を象徴的に示す役割を担いました。そこでは、収集された資料や芸術作品が、秩序だてて展示され、国家の偉大さを可視化するための物語が構成されていたのです。
知識を広く普及させるという博物館の民主的な側面と、国民を特定の価値観や秩序に導くという統制的な側面。この二つは、博物館の歴史のなかで、常に複雑に絡み合ってきました。
展示空間に組み込まれた権力
博物館の政治性は、展示される物だけでなく、空間そのものの作り方にも現れます。展示室の設計や動線、展示物の配置は、単に見やすさを追求したものではありません。そこには、来館者の動きや視線を誘導し、特定の理解や感情を生み出すための工夫が込められています。
社会理論家ミシェル・フーコーが指摘したように、空間の構成は規律と監視を生み出す力を持ちます。博物館の展示もまた、来館者に無意識のうちに特定の歴史観や文化観を受け入れさせる「見せるための技術」として機能してきたのです。
たとえば、19世紀の民族学展示では、非ヨーロッパ文化が「未開」や「進化の初期段階」として表象されることが少なくありませんでした。こうした展示方法は、ヨーロッパ中心の進歩史観を補強し、植民地主義を正当化する装置として働いていた側面があります。
見えにくい政治性を読み解く
現代の博物館では、かつてのようなあからさまな政治的メッセージは減っています。しかし、それでもなお、展示のあり方には目に見えにくい形で政治性が残されています。
たとえば、どの歴史が強調され、どの歴史が沈黙させられているか。どの文化が「普遍」とされ、どの文化が周縁化されているか。こうした選択や構成そのものが、特定の社会的枠組みを強化し、あるいは再生産してしまうのです。
特に、植民地主義と結びついた収蔵品の扱いや、マイノリティの表象に関する議論は、今もなお世界中の博物館で重要な課題となっています。展示の裏側にある「選択」の政治性に目を向けることは、現代の博物館を読み解く上で不可欠な視点といえるでしょう。
展示室を歩くとき、私たちは目の前に広がる物語を、無意識のうちに受け取っています。しかし、その物語は、必ずしも中立なものではありません。どのような物をどのように見せるか――その背後には、社会の価値観や権力関係が潜んでいるのです。
博物館の政治性を意識的に捉え直すこと。それは、より深く博物館という場を理解し、多様な物語を受け止めるために欠かせない視点だといえるでしょう。
展示はどのように社会的価値観を可視化するのか
展示は単なる情報提供ではない
博物館の展示は、しばしば「知識をわかりやすく伝えるための手段」として語られます。来館者に対して歴史的な事実や文化的な情報を提供し、理解を深めてもらうことが目的だと考えられてきました。
しかし、展示とは単なる情報の羅列ではありません。どの事実を取り上げ、どのような順序で、どの文脈で見せるのか――そのすべてに、企図と選択が存在しています(Bennett, 1995)。
展示は、事実や資料を「見せる」だけでなく、そこに意味を与える行為です。展示室に足を踏み入れる来館者は、目に見えるモノや言葉を通じて、ある世界観や社会像を無意識に受け取っていきます。
語られる物語、語られない物語、強調されるテーマ、さりげなく扱われるテーマ。それらすべてが積み重なり、来館者の意識のなかに、特定のイメージや感情を形成していくのです(Gray, 2015)。
展示がもつこの力に目を向けることは、博物館の社会的・政治的な役割を考えるうえで不可欠です。展示は中立的な知識の伝達ではなく、社会をどう捉えるかというビジョンを可視化する営みでもあるのです。
展示における「選択」と「省略」
博物館の展示は、無限の情報から特定のものを「選び」、その他を「省く」ことで成立しています。展示空間には物理的な制約があり、すべてを並べることは不可能です。したがって、何を取り上げ、何を取り上げないかという判断は避けがたく求められます(Bennett, 1995)。
この選択は、中立的に見えて実は社会的・政治的な意味を帯びます。
たとえば、近代国家の成立を紹介する展示において、国家の発展と繁栄を中心に描くのか、それとも国家建設に伴う犠牲や抑圧をも描き出すのか――その選択ひとつで、来館者が受け取る歴史像は大きく異なります(Gray, 2015)。
さらに、展示空間に登場しない事実や視点もまた、展示のメッセージを形作っています。省略された声、排除された記憶、それらは「ない」ことによって一層強い意味を帯びるのです。
展示を読むときには、提示された情報だけでなく、「なぜこれが語られ、なぜあれは語られないのか」という問いを重ねる視点が重要になります。
このように、展示は「選び、語る」行為であると同時に、「選ばず、語らない」行為でもあるという点を意識する必要があります。
表象(representation)の問題
展示とは、ただ対象を陳列するだけではありません。
そこでは、対象が「どのように描き出されるか」という表象(representation)の問題が常に存在しています(Bennett, 1995)。
たとえば、美術館における女性の表象を考えてみましょう。西洋近代美術において、女性像はしばしば受動的で理想化された存在として描かれてきました。裸婦像や母性を象徴する構図など、社会的に期待される女性像が繰り返し表象され、それが美術の「標準」とされてきたのです。
こうした作品群が無批判に展示されると、過去の価値観を正当化・再生産してしまう可能性があります(Gray, 2015)。
民族学展示においても同様です。19世紀から20世紀にかけて、非ヨーロッパ文化はしばしば「未開」や「原始的」といったイメージで表象され、それが植民地主義的な優越感を支える役割を果たしました。
このような表象は、今日でも無意識のうちに再生産されるリスクを孕んでいます(Shaked, 2022)。
展示における表象は、常に社会的力学と結びついています。誰をどう描くか、どのような語り方を選ぶか。それは展示の中に織り込まれた政治的な選択なのです。
「語られない物語」の存在
展示においては、意図的に、または無意識のうちに、語られない物語が存在します。
これまで長らく、植民地支配の犠牲者や、先住民族、移民コミュニティ、社会運動に関わった市民たちの歴史は、展示空間の外に置かれてきました(Gray, 2015)。
この「語られないこと」自体が、社会的な力関係を反映しています。語る価値があると見なされるもの、語るに値しないとされるもの。そこには、無意識のうちに働く価値判断と社会的秩序の再生産が潜んでいます。
近年、多くの博物館が包摂性(インクルージョン)や多様性(ダイバーシティ)を理念に掲げ、これまで見過ごされてきた歴史や文化を積極的に取り上げようと努力しています(Shaked, 2022)。
しかし、語られなかった物語を掘り起こす作業は容易ではありません。収蔵資料の制約、社会的な抵抗、限られたスペースや予算――さまざまな要因が、依然として沈黙を生み出し続けています。
展示の沈黙にも耳を傾けること。展示空間の「余白」から語られない歴史を想像し、読み解くこと。それは、博物館という場をより深く理解し、より多層的な社会像を築くために欠かせない視点なのです。
展示とは、事実をただ並べる行為ではありません。選択し、省略し、表象することによって、社会的な意味や価値観を形づくる行為です。
展示を「読む」という行為は、提示された物語を鵜呑みにするのではなく、その背後に潜む力学を意識し、批判的に向き合うことを意味します(Bennett, 1995; Gray, 2015)。
展示を読む力を養うこと。それによって、私たちは博物館を単なる知識の倉庫としてではなく、社会を映し出す鏡として捉え直すことができるでしょう。
博物館展示は誰のためにあるのか ― 権力関係とオーディエンスの視点から
展示は誰に向けられているのか?
博物館の展示は、中立的な知識の伝達ではありません。どのような事実を選び、どのような順番で、どのような語り口で提示するか――そのすべてに意図と選択が働いています。では、その意図は誰に向けられているのでしょうか。
展示は、すべての来館者に等しく語りかけるわけではありません。多くの場合、展示の企画段階で、ある特定のオーディエンス像が想定されています。「この来館者層には、この知識を、こういうかたちで伝えよう」という無意識の前提が、展示の構成や表現に深く入り込んでいるのです(Bennett, 1995)。
たとえば、展示の解説文が高度な専門用語で書かれていれば、それはある程度の教育水準を持った来館者を想定している証拠かもしれません。逆に、感覚的な体験を重視した展示は、子どもや展示に不慣れな層を意識している可能性があります。
このように、展示とは「ある来館者に向けたメッセージ」であり、同時に「その他の来館者を想定しないこと」にもつながっています。展示空間の裏側には、目に見えない「対象の線引き」が存在しているのです。
オーディエンスの想定と社会的境界線
近代的な博物館が誕生した19世紀、特にヨーロッパでは、博物館は国家の威信を示し、国民を教育する場として設計されました(Bennett, 1995)。そこで想定されていたのは、一定の教育を受けた中産階級の市民層です。展示内容は、彼らにふさわしいとされる教養や価値観を伝えるために構成され、国家や文明の物語を正当化する役割を担っていました。
この歴史は、現在の博物館にも無意識のうちに影響を及ぼしています。たとえば、
- 解説文の文体が専門的・権威的であること
- 展示動線が広く、長時間の滞在を前提に設計されていること
- 美術や歴史を「知っている」ことを前提とする展示構成
などは、文化資本を十分に持った来館者を想定している証拠です。
一方で、文化的背景や教育的経験が異なる層にとって、こうした展示は壁となることがあります。たとえば、第一言語が異なる来館者、博物館文化に慣れていない人々、障害を持つ人々にとって、標準的な展示空間はアクセスしにくいものになりがちです。
つまり、博物館は無意識のうちに「誰を想定するか」と同時に、「誰を想定しないか」を決めているのです。この見えにくい境界線が、展示空間における包摂と排除を形作っています。
展示における排除と不可視化
展示が誰に向けられているかという問題は、展示される内容にも大きく影響します。想定されるオーディエンスに「適した」物語が選ばれ、そうでない物語はしばしば排除されるからです(Gray, 2015)。
たとえば、国家の歴史展示では、独立や発展を祝う物語が強調される一方で、
- 植民地支配による搾取の歴史
- 先住民に対する迫害の記憶
- 少数民族の抵抗運動
などは、しばしば語られずに沈黙させられます。
また、美術館では、白人男性アーティストによる作品が標準とされ、女性アーティストや非西洋地域のアーティストは、限られた文脈でしか紹介されないことも少なくありません。
このような排除は、意図的に行われる場合もあれば、単に「当然のこと」として無意識に行われる場合もあります。いずれにせよ、語られない物語が存在すること自体が、社会的力関係を反映しているのです。
展示空間を見るとき、私たちは「何が語られているか」だけでなく、「何が語られていないか」にも敏感でなければなりません。排除と不可視化の力学を読み解くことは、博物館を批判的に理解するための第一歩となります。
オーディエンスとの対話をめぐる試み
こうした排除の構造に対して、近年の博物館は徐々に変化を見せています。来館者を単なる受け手とみなすのではなく、対話の相手と捉える視点が広がりつつあるのです(Gray, 2015; Shaked, 2022)。
たとえば、
- 移民コミュニティと協働して企画された展覧会
- 来館者自身が展示物にコメントを付けられるインタラクティブ展示
- 収蔵品の来歴を公開し、植民地主義的背景について議論を促す取り組み
などが挙げられます。
また、博物館スタッフと地域社会の多様なステークホルダーが対話しながら展示を作り上げる「コ・クリエーション型プロジェクト」も増えています。こうした動きは、展示空間そのものを「共に作り、共に問い直す」場へと変容させる試みだといえるでしょう。
ただし、この流れも課題を抱えています。単に多様な声を取り入れればよいのではなく、それらの声がどのように位置づけられ、どのように意味づけられるのかを、常に問い続ける必要があるのです。
展示と社会的責任
博物館は、もはや単なる過去の保存庫ではありません。展示を通じて、現在の社会における包摂と公正を促進する役割を担うべき存在へと変わりつつあります(Shaked, 2022)。
展示制作のプロセスは、社会に対する姿勢そのものを反映します。誰に語りかけるのか、誰の声を拾い上げるのか、そして誰を沈黙させないのか――これらの問いに真正面から向き合うことは、博物館に課された社会的責任の一部です。
来館者にとって、展示空間はただ「見る場所」ではなく、自らの立場や世界観を省察し、他者の視点に触れることのできる空間であるべきです。そのために、展示制作に携わる者は、自らの無意識の前提や権力関係を常に問い直しながら、展示をつくりあげていかなければなりません。
展示は、社会を映す鏡です。その鏡をどのように磨き、どのような世界を映し出すのか――それは、私たち一人ひとりに問われているのです。
展示は中立でありうるのか ― 見せ方に潜む意図と来館者の解釈
展示は本当に中立なのか?
博物館の展示は、多くの場合「客観的」で「中立的」であることを目指して構成されています。説明文にも事実に忠実であることが求められ、感情的な言葉や主観的な表現は極力避けられることが一般的です。
しかし、私たちは本当に中立な展示というものが存在しうるのかを、立ち止まって考える必要があります。どの資料を選び、どの順番で、どの文脈で提示するか――そのすべてに意図と選択が介在する以上、展示は必然的に特定の意味を持ち始めます(Bennett, 1995)。
展示の中立性とは何か。それは単なる表面的な「事実の列挙」ではなく、展示が内包する構造そのものの問題なのです。
展示における「中立」の主張とその背景
19世紀に確立された近代的博物館は、国家の威信を示し、国民を教育する装置として機能していました。この時代の博物館にとって、中立性の主張は極めて重要でした。なぜなら、中立であるかのように見せることで、展示内容に対する批判を回避し、権力や支配関係を不可視化できたからです(Bennett, 1995)。
たとえば、帝国主義的な拡張を美化する展示が、「客観的な歴史事実」として提示されることで、その正当性が無批判に受け入れられる構造が作られました。また、民族学展示においても、非ヨーロッパ世界を「科学的対象」として見せることで、植民地主義的な視点が自然なものとして正当化されました。
中立性の主張は、必ずしも「偏りを排除する」ためではなく、「偏りを目立たなくする」ために機能してきた側面があるのです。
展示の構成における意図と選択
展示は、どの資料を選び、どのような順序で見せるかという編集行為です。そして編集とは、意図と選択の積み重ねによって物語を構成する行為でもあります。
たとえば、自然史博物館における恐竜の展示ひとつを取ってみても、
- どの時代の恐竜を選ぶか
- どの発見説を採用するか
- どういう空間演出で配置するか
によって、来館者に伝わる「恐竜のイメージ」は大きく変わります(Gray, 2015)。
つまり、展示は常に「何かを強調し、何かを控えめにし、何かを除外する」ことで成り立っているのです。中立に見える展示も、その内部には必ず意味づけのプロセスが埋め込まれているといえます。
展示とは、事実の単なる羅列ではなく、「どのような物語を、どのようなかたちで伝えるか」という選択の集積なのです。
来館者の解釈と「中立性」の限界
たとえ展示側が「できる限り中立」を目指していたとしても、来館者がそれをどう受け取るかは一様ではありません。来館者一人ひとりの文化的背景、社会的経験、個人的関心によって、同じ展示が全く異なる意味を持つことはよくあります(Shaked, 2022)。
たとえば、ある戦争展示を見て、
- 「国家の誇り」と感じる人
- 「無意味な犠牲」と受け取る人
- 「自分たちは排除されている」と感じる人
が、同じ空間の中に共存することも珍しくありません。
このように、来館者の側の多様な解釈が存在する以上、展示が完全に「中立」であることは原理的に不可能だといえます。むしろ、展示は常に来館者によって再解釈され、異なる意味を与えられる運命にあるのです。
展示は「対話の場」へ
展示に本質的な中立性を求めることはできません。むしろ、展示は多様な解釈や意見を引き出し、社会的対話を促進する場であるべきです。
現代の博物館では、来館者が一方的に知識を受け取るのではなく、
- 自分自身の視点から展示を読み解き、
- 他者と意見を交わし、
- 新たな問いを持ち帰る
ことを目指す方向に変わりつつあります。
展示はもはや「真理を教える場」ではなく、「問いを開く場」となりうるのです。中立を装うことではなく、むしろ意図や背景を開示し、来館者との間に対話を成立させること――それこそが、これからの博物館展示に求められる姿勢だといえるでしょう。
展示を読むということ ― 権力・社会・来館者の視点から
展示を「読む」重要性
博物館の展示は、しばしば「客観的な知識」を伝える場だと考えられています。しかし、これまで見てきたように、展示は中立でも絶対的なものでもありません。どの資料を選び、どの語り口で構成するかという選択の積み重ねによって、展示は社会的な意味を帯びていきます(Bennett, 1995)。
展示とは、単なる事実の羅列ではなく、社会的文脈や権力関係、文化的背景の中で編み上げられた一つの物語なのです。私たちが博物館で展示を見るとき、そこに潜む構造を意識的に「読む」姿勢が求められます。
展示に介在する社会的力学
展示は、何を語り、何を語らないかを選び取る行為です。その選択には、無意識であれ意図的であれ、社会的な力学が働いています。
たとえば、近代博物館は、国家の威信を支えるために特定の歴史像を強調し、周縁化された人々の物語を沈黙させる役割を担ってきました(Bennett, 1995)。また、誰に語りかけるかという想定によって、展示は来館者を選び、ある者を迎え入れ、ある者を無意識に排除する力を持ちます(Gray, 2015)。
このように、展示空間そのものが社会的権力の縮図であるという視点は、博物館を見るうえで欠かせません。展示は、文化資本、政治的イデオロギー、社会的規範といった力の働きの中に位置づけられているのです。
来館者の視点から見る展示
展示は、作り手だけで完結するものではありません。来館者一人ひとりが、それぞれの文化的背景、社会的経験、個人的感情を持って展示と出会い、それぞれに異なる「読み」を生み出します(Shaked, 2022)。
同じ展示でも、ある来館者には誇らしい歴史に見え、別の来館者には痛ましい記憶として響くかもしれません。展示は来館者によって再解釈され、意味を付与される動的なプロセスなのです。
だからこそ、展示を「読む」という行為は、受動的に情報を受け取ることではなく、能動的に展示に向き合い、自らの視点を交差させていく営みであるべきなのです。
展示は対話を開く場へ
現代の博物館において、展示は単なる知識の伝達手段にとどまりません。むしろ、多様な解釈を受け止め、社会的対話を促進する場へと変わりつつあります。
展示が一方的に「正しい歴史」を教えるのではなく、
- 来館者に問いを投げかけ
- 異なる視点を紹介し
- 考える余白を残す
ことによって、より豊かな学びと対話の空間を生み出していくことが期待されています。
展示空間は、過去と現在、中心と周縁、支配と抵抗が交錯する場です。その複雑さを隠すことなく、むしろ開示していくことこそが、現代博物館の重要な役割となっています。
批判的リテラシーとしての展示読み
博物館の展示を「読む」という行為は、単なる知識の獲得にとどまるものではありません。それは、展示を通じて社会の力学を見抜き、自らの立場を問い直す批判的リテラシーを育む営みでもあります。
展示に込められた意図や構造を意識的に読み解く力を持つこと。語られている物語と、語られていない物語の両方に耳を傾けること。そして、来館者自身も展示に対して能動的に意味をつくり出していくこと――それが、現代における博物館との付き合い方の一つの指針となるでしょう。
展示は、見るだけのものではありません。読むもの、考えるもの、そして対話するものなのです。
参考文献
- Bennett, T. (1995). The birth of the museum: History, theory, politics. Routledge.
- Gray, C. (2015). The politics of museums. Palgrave Macmillan.
- Shaked, N. (2022). Museums and wealth: The politics of contemporary art collections. Bloomsbury Academic.