はじめに
博物館は、単に過去を保存するための施設ではありません。資料の収集・保存・展示といった伝統的な役割に加えて、現代の博物館には、社会の未来像に対して積極的に貢献する“未来志向の公共的存在”としての役割が期待されています。特に、グローバルな課題が複雑化し、地域社会の構造や価値観が急速に変化する今日において、博物館がどのような方向性を掲げ、いかに自らの存在意義を社会に問い直すのかが、経営の根幹に関わるテーマとなっています。
このような状況下で注目されるのが、「ヴィジョン(vision)」という概念です。ヴィジョンとは、単なるスローガンや抽象的な理想ではありません。それは、組織が中長期的に目指す未来の姿を具体的に描き出す戦略的な指針であり、ミッション(使命)や価値(values)と密接に結びついて、すべての戦略的判断の前提となるべきものです。ヴィジョンは、戦略計画における出発点であり、行動計画や組織文化に至るまで、その方向性を規定する“未来設計図”なのです(Fleming, 2015)。
博物館は営利を目的としない非営利文化機関であるがゆえに、数値化された収益や成長とは異なる指標でその価値が判断されます。来館者の体験、地域社会とのつながり、あるいは文化的包摂や環境貢献といった目に見えにくい要素こそが、博物館にとっての“成果”であり、その指針としてヴィジョンが不可欠になります。ヴィジョンの明確化は、職員の共通認識を生み、来館者や地域住民との信頼関係を築き、さらには行政・資金提供者・パートナー機関との協働を可能にする出発点なのです(Lord & Markert, 2017)。
本記事では、まず博物館におけるヴィジョンの基本的な意味とその構成要素を整理した上で、経営・戦略との関係を明らかにします。次に、具体的な事例を通じて、ヴィジョンがどのように策定され、どのように戦略計画に統合されていくのかを紹介します。そして最後に、ヴィジョンが博物館経営において果たす役割とその課題について考察を加え、ミッション・価値・戦略を有機的に結びつけるものとして、ヴィジョンの重要性を再確認していきます。
ありがとうございます。それでは、拡張した導入に続いて、次節「ヴィジョンとは何か:定義と構造」へ進めます。ここでは、Fleming(2015)を中心に、Lord & Markert(2017)、Zolberg(1981)などの内容も踏まえて、ヴィジョンの定義、構成要素、ミッションや価値との関係性を整理します。
承知しました。以下にご指定の節「ヴィジョンとは何か:定義と構造」の全文を、文末括弧形式による統一された引用スタイルに修正して再掲します。
ヴィジョンとは何か:定義と構造
博物館における「ヴィジョン(vision)」とは、単に理念的な将来像を描いた言葉ではなく、組織が中長期的に実現を目指す「望ましい未来の姿」を、共有可能なかたちで提示する戦略的な枠組みです。それは、ミッション(使命)と価値(values)を基盤として構築され、組織のあらゆる活動に方向性と一貫性を与えるものです。
ヴィジョンの役割は、「組織の存在意義(ミッション)と価値観(バリュー)を足し合わせ、前方に投影したもの」とされており、ミッションが問いかける「なぜ私たちは存在するのか」に対して、「だから私たちはこうなっていく」という物語的回答を提供する構造をもっています(Fleming, 2015)。
三位一体の枠組み:Mission・Values・Vision
ヴィジョンを理解するためには、ミッションと価値との関係を明確にしておく必要があります。文化機関における戦略計画の中核として、以下の3つの構成要素が提示されています(Lord & Markert, 2017)。
要素 | 概要 | 質問形式での定式化 |
---|---|---|
Mission | 組織の存在理由 | 私たちは何のために存在しているのか? |
Values | 大切にしている信念・行動規範 | 私たちは何を大事にしているのか? |
Vision | 実現したい未来の姿 | 私たちはどこへ向かっているのか? |
この三者はそれぞれ独立しているのではなく、有機的に結びついています。とりわけヴィジョンは、価値にもとづいたミッションの延長線上に位置づけられ、組織全体の将来設計に方向性を与える役割を担います。
ヴィジョンは誰のものか?
ヴィジョンは経営層が一方的に掲げるスローガンではなく、組織の内外のステークホルダーと共有され、時には対話や交渉を通じて練り上げられるべきものです。Zolberg(1981)は、美術館における「対立するヴィジョン(conflicting visions)」の存在を指摘し、理想像が単一ではなく、組織の中に多元的な価値観や利害が存在することを明らかにしています(Zolberg, 1981)。これは、ヴィジョンが理念的に統一されていればよい、という単純な問題ではないことを示唆しています。
つまり、博物館におけるヴィジョンは、「未来像の提示」であると同時に、「多様な価値を束ね、共有の目標へと導くための統治的な装置」でもあるのです。実際、戦略計画の事例の多くにおいても、ヴィジョン策定の初期段階で職員・理事・地域住民・専門家などが参加し、対話を重ねるプロセスが重視されています。
戦略計画におけるヴィジョンの位置づけ
博物館におけるヴィジョンは、単なる理念や希望的観測ではなく、組織が戦略的に未来を設計し、変化に対応していくための出発点として位置づけられます。とりわけ現代の博物館経営においては、戦略的思考と価値駆動型の意思決定が求められており、ヴィジョンはその基盤をなす重要な概念とされています(Fleming, 2015)。
戦略計画においては、ヴィジョンとミッションの明確化が最初のステップに据えられます。文化機関のための戦略計画を10段階で構成する枠組みにおいても、理想とする未来像を描き、そこから逆算して計画を構築するという考え方が前提とされています(Lord & Markert, 2017)。
戦略的思考は未来から始まる
多くの戦略計画は現状の分析を出発点としますが、本来の戦略的思考は、「将来どうありたいか」という問いから始まるべきです。その問いに対する答えがヴィジョンであり、そこから逆算して具体的な行動指針を導くことが重要です。
ヴィジョンには以下のような機能があります。
- 選択と集中の指針:多様な活動の中で、何に重点を置くかを明示する。
- 評価基準の提供:成果や進捗を何によって測定するのかという枠組みを提示する。
- 共通言語の構築:館内外の関係者と共有できる方向性を提供し、連携の土台をつくる。
このように、ヴィジョンは単なる理想ではなく、組織の判断基準と実行力の源となる上位概念であり、経営資源の配分や組織構造の設計にも影響を及ぼします(Lord & Markert, 2017)。
実践例に見るヴィジョン主導の計画
たとえば、グッゲンハイム美術館ビルバオでは、「芸術による都市再生」という明確なヴィジョンが設立当初から掲げられ、それに沿って展示構成、施設設計、市民参加の仕組みが構築されてきました。これは、ヴィジョンを基軸に戦略全体を設計する好例として評価されています(Lord & Markert, 2017)。
また、ナショナル・ミュージアム・リヴァプールにおいては、ヴィジョンが職員の内発的動機づけや行動の指針としても機能し、単なる理念にとどまらず、組織文化の形成にも寄与しているとされています(Fleming, 2015)。
ヴィジョンの実践と課題
戦略的計画の中心に位置づけられるべきヴィジョンですが、その策定や運用が常に円滑に進むとは限りません。理想と現実、統一と多様性、理念と実行とのあいだにはしばしばギャップが生じ、ヴィジョンの実現をめぐっては複雑な課題が浮上します。ここでは、ヴィジョンの実践的運用に伴う代表的な課題と、それにどう向き合うべきかについて検討します。
組織内の多様な価値観との調整
ヴィジョンは組織に統一的な方向性を与えるために必要不可欠ですが、その一方で、博物館という多様な専門性・立場・背景をもつ人々が関わる組織において、単一の未来像を打ち出すことはしばしば困難です。Zolberg(1981)は、美術館における「対立するヴィジョン(conflicting visions)」の存在に注目し、運営主体の価値観、学芸員の専門的信念、来館者の期待、行政的・政治的圧力などが交錯する現場においては、「誰がヴィジョンを描くのか」「どの価値を優先するのか」が常に争点になると指摘しています(Zolberg, 1981)。
このような状況では、ヴィジョンが画一的に押し出されればされるほど、現場の納得感や参加感が薄れ、「実現に向けて動く力」そのものが弱体化するおそれがあります。したがって、戦略計画におけるヴィジョンの策定プロセスは、トップダウンではなく、現場・地域・専門家・市民を含めた対話的プロセスとして構築されることが求められます。
社会環境の変化とヴィジョンの柔軟性
さらに、ヴィジョンの実践において重要なのは、それが固定されたゴールではなく、変化する環境に対応できる柔軟な枠組みであるべきという点です。新型感染症の流行、地政学的緊張、デジタル技術の進展といった要因により、博物館の社会的役割や来館者のニーズは短期間で大きく変化する可能性があります。そうしたなかで、かつて策定されたヴィジョンがすでに時代に合わなくなっているケースも少なくありません。
このような事態に備えるためには、ヴィジョンを定期的に見直す仕組みや、組織内に多様な視点を取り入れる制度設計が重要となります。たとえば、3〜5年ごとの中期レビューや、市民参加型ワークショップの開催、若手職員を含めたチームビルディングなど、開かれたプロセスを組み込むことで、ヴィジョンの妥当性と実効性を継続的に担保することができます。
理想と実行の乖離への対処
最後に、ヴィジョンが高邁であればあるほど、実際の資源制約や組織文化との間に乖離が生じる可能性があることも忘れてはなりません。たとえば、「すべての人に開かれた博物館」を目指すヴィジョンが掲げられていても、現実にはバリアフリーが不十分であったり、入館料の高さがアクセスを制限していたりと、ヴィジョンが単なる理想にとどまり、行動につながっていない事例は数多く存在します。
こうしたギャップを埋めるためには、ヴィジョンを単なる「掲げるもの」ではなく、「評価されるべき実行目標」として位置づけることが必要です。具体的には、ヴィジョンに基づいたKPI(主要業績評価指標)の設定や、アウトカム評価との連動を図ることが、理念と実践を橋渡しするうえで有効な手段となります。
参考文献
Fleming, D. (2015). The essence of the museum: Mission, values, vision. In J. Cuno (Ed.), Whose muse? Art museums and the public trust (pp. 77–92). Princeton University Press.
Lord, G. D., & Markert, K. (2017). The manual of strategic planning for cultural organizations: A guide for museums, performing arts, science centers, public gardens, heritage sites, libraries, archives. Rowman & Littlefield.
Zolberg, V. L. (1981). Conflicting visions in American art museums. Theory and Society, 10(1), 103–125.