はじめに ― なぜいま「博物館教育の意義」を考えるのか
「博物館教育」と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。学校団体の見学ツアー、ワークショップ、展示解説、あるいは親子で楽しむ週末のイベントかもしれません。たしかにこれらは博物館における教育活動の一端ですが、近年ではそれ以上に広範で深い意味が、この「教育」という営みに求められつつあります。
博物館はかつて、主に収集・保存・展示を通じて「知識を伝える」場として機能してきました。しかし現代においては、それだけでは博物館の存在意義を十分に説明できなくなっています。多様化する社会、複雑化する課題、加速する技術革新のなかで、人々の関心や来館目的も変化しています。そうした中で注目されているのが、博物館の「教育的な価値」そのものを再定義する動きです。
たとえば、博物館は学校とは異なる「非形式教育(informal education)」の場として、自発的で柔軟な学びの機会を提供します。また、展示を通じて来館者の感情や倫理観に働きかける「共感的学習」の場でもあります。さらに、社会的に周縁化された人々にとっては、文化的アクセスを保障し、自らの歴史や声を可視化できる空間でもあります。近年では、21世紀型スキルの育成や、生涯学習、地域づくりといった側面においても、博物館教育の価値が再評価されています。
こうした広がりの中で、本稿では「博物館教育の意義」を5つの視点から整理し、その価値を立体的に描き出すことを目的とします。それは単にプログラムや活動を紹介するものではなく、博物館という社会的装置が、教育を通じてどのように人々と関係を結び、社会に貢献し得るのかという問いに正面から向き合う試みでもあります。
学習の多様性を担保する「非形式教育」の場としての意義
学校教育が制度的に整備された現代においても、すべての学びが教室の中で完結するわけではありません。博物館は、こうした「教室の外」における学び、すなわち非形式教育(informal education)の場として、特有の教育的価値を発揮しています。
非形式教育とは、必ずしも明確なカリキュラムや評価基準をもたない、自発的で柔軟な学びを指します。来館者は自分の興味や関心に基づいて展示を巡り、解説に耳を傾けたり、体験プログラムに参加したりします。こうした形式は、個人のペースやスタイルに応じた学習が可能であり、学校では支援しきれない学びの多様性を受け止めることができます。
とくに子どもにとって、博物館は「学びたい」という内発的動機づけを高める環境です。展示を見て驚いたり、体験に夢中になったりする中で、自然と探究心や観察力が育まれていきます。さらに高齢者や外国人、障害のある方などにとっても、博物館は学びの場であると同時に、社会とのつながりを実感できる貴重な空間となります。
博物館における教育は、知識を一方向的に伝達するものではなく、来館者が自ら意味を構築するプロセスを支援するものとされており、これは従来の教育観からの大きな転換を示しています(Hooper-Greenhill, 2000)。この考え方は、学芸員や教育担当者が何かを「教える」のではなく、来館者自身の学びを促進するファシリテーターであるという発想に立っています。
また、博物館は来館者の自由な選択と探究に基づく学びを支える場であり、現代の教育環境において不可欠な存在であるとも指摘されています(Kratz & Merritt, 2011)。こうした自己主導的学習(self-directed learning)を促す非形式教育の特性こそが、博物館の強みといえるでしょう。
このように、博物館は年齢や学歴に関係なく、すべての人が自分のリズムで学べる場として、現代社会における教育の多様性を支える重要な存在となっています。
感情・身体・対話を通じた「共感と関係性の教育」
博物館が果たす教育的役割のなかで、近年特に注目されているのが「共感」を生み出す学びの場としての機能です。単なる知識の伝達ではなく、来館者の心に訴え、感情や倫理観に働きかけるような体験型・対話型の教育は、博物館の教育のあり方を大きく変えつつあります。
展示を見て「驚く」「共感する」「考え込む」といった感情的な反応は、知的理解と並んで重要な学習の要素とされています。とくに人権、環境、災害、移民など、社会的に困難なテーマを扱う展示では、来館者の感情を喚起し、自らの立場や価値観を見つめ直すきっかけとなります。このような感情的な揺さぶりが、知識の定着を超えて、社会参加や行動変容につながると期待されています(Hansson & Öhman, 2021)。
その際に鍵となるのが、対話型の教育です。展示をめぐるワークショップやガイドツアー、来館者同士の意見交換などを通じて、博物館は「自分の考えを表現し、他者と関係性を築く場」として機能します。これは単に情報を受け取る受動的な来館者ではなく、「学びに参加する主体」としての来館者像を前提とした教育設計です。
このような教育実践は、来館者が自らの経験と展示内容を結びつけることを促し、他者との関係性のなかで学びを深化させることができます。これは従来の「展示=伝達媒体」としての役割から、「展示=対話の触媒」へと発想を転換する動きであり、博物館の教育理念に新たな地平を拓くものといえるでしょう(Earle, 2013)。
このように、博物館は感情・身体・対話を通じて、来館者が社会や他者と関係性を築く場となっています。ここにこそ、現代における博物館教育の新たな意義が見出されます。
社会的包摂と文化的正義を支える装置としての意義
博物館は、収蔵品の保存や展示を通じて文化遺産を伝える施設として長く存在してきました。しかし近年では、それだけでなく「誰もがアクセスできる公共空間」としての役割が強調され、社会的包摂(social inclusion)を推進する場としての教育的使命が問われるようになっています。
社会的包摂とは、障害、貧困、言語、国籍、性別、宗教、出自など、さまざまな要因によって社会から排除されやすい人々が、社会の一員として尊重され、等しく参加できる状態を意味します。博物館における教育活動がこの概念と結びつくのは、展示やプログラムを通じて、そうした人々に学びや表現の機会を提供できるからです。
たとえば、障害のある来館者に向けたユニバーサルデザイン対応の展示解説、移民の子どもたちに対する多言語プログラム、性的マイノリティやジェンダーに配慮したワークショップなどは、包摂的な教育実践の具体例です。これらの取り組みは、単なる「配慮」にとどまらず、来館者の経験とアイデンティティに応答することで、博物館を自分の居場所として感じられるようにする教育的手段です。
こうしたアプローチの背景には、「文化的正義(cultural justice)」という理念があります。文化的正義とは、ある特定の文化や価値観だけが優越されることなく、すべての人が自らの文化的経験を語り、共有する権利を保障されるべきだという考えです。博物館は長らく「特権的な語り手(authorized voice)」として展示を構成してきましたが、近年はむしろ来館者自身が語り手となる教育的プロセスを重視する傾向へとシフトしています。
こうした方向性の中で、教育は単なる補助的機能ではなく、博物館の社会的正当性(legitimacy)を再構築するための中核的機能として位置づけられています。教育を通じて博物館は、「エリート主義的で排他的な制度空間」ではなく、「多様な市民がともに学びあう対話的空間」として再編成されつつあります(Earle, 2013)。
このように、社会的包摂と文化的正義に資する博物館教育は、「アクセスの保障」にとどまらず、「声の可視化」「経験の共有」「関係性の構築」を通じて、文化を民主化する営みでもあります。そしてそれは、教育こそが公共文化施設の本質であるという、現代的なミュージアム像を形づくっているのです。
21世紀スキル・未来社会に求められる学習支援の場としての意義
社会が急速に変化し続けるなかで、教育に求められる役割もまた大きく変化しています。従来の知識偏重型の教育から、より実践的で柔軟な能力、すなわち「21世紀スキル」と呼ばれる能力の育成へと重心が移行しつつあります。これには、批判的思考、創造性、問題解決力、協働力、情報リテラシーなどが含まれ、学校教育のみならず、博物館のような非形式教育の場でも重要視されるようになっています。
博物館は、来館者が自分のペースで展示を探索し、問いを立て、他者と対話しながら学ぶことができる空間です。このような自由で対話的な環境は、思考力や創造力を自然と引き出す仕組みになっています。展示を見ながら「なぜ?」「どうして?」と疑問を持ち、情報を再構成しながら自分なりの見解を深めていくプロセスは、まさに批判的思考を育む学びであり、これは学校教育では得がたい経験です。
また、体験型ワークショップや共同制作型の教育プログラムを通して、博物館は来館者同士の対話や協働の機会を設けています。来館者がそれぞれの経験や知識を持ち寄りながら学ぶ場は、21世紀社会における共創力や対人関係能力の育成に直結しています。こうした教育環境は、非形式学習の場だからこそ成立するものであり、現代教育の補完的役割を果たしています(Kratz & Merritt, 2011)。
さらに、テクノロジーの進展によって学習のデジタル化が進む中、博物館が提供する「リアルな空間」や「実物との出会い」の価値も見直されています。画面越しの情報ではなく、実際に展示物を見て、触れて、感じることで得られる身体的な理解は、記憶や感情とも深く結びついています。これは情報過多の時代において、特に重要な学習体験です。
このように、博物館は未来社会で求められる能力を育む貴重な教育資源であり、知識の獲得にとどまらず、「どう学ぶか」「どう他者と関わるか」という学習のプロセスそのものに価値を見出す教育環境として再評価されています。
公共的役割としての教育機能 ― 社会の信頼をつなぐ「文化のインフラ」
博物館は、単なる展示施設ではなく、地域社会における公共的な存在として信頼を築き、継続的な関係性を育んでいく役割を担っています。その中核にあるのが、教育機能です。教育は、来館者との接点を生み出し、博物館が社会とつながるためのインターフェースとして働きます。だからこそ、教育は博物館における最も公共的な営みといえるのです。
教育を通じて博物館が果たす公共的役割には、複数の側面があります。第一に、地域住民との継続的な関係づくりです。たとえば、学校や福祉施設との連携プログラム、市民向け講座やワークショップ、ボランティア養成などは、博物館が地域の人々と対話を重ね、信頼を築く重要な手段です。これらは一過性のイベントではなく、博物館が社会のなかで「ともに学び、ともに成長する場」であることを示しています。
第二に、教育活動は博物館の公共性を市民に実感させる機会でもあります。多くの人にとって、展示室に足を運ぶよりも先に、学校遠足や親子ワークショップ、講座や講演会を通じて博物館と出会うことが多いかもしれません。こうした体験は、博物館を「自分に関係のある場所」と感じさせる契機となり、公共施設としての存在意義を高めます。
第三に、教育は博物館の社会的信頼(social trust)を長期的に支える基盤です。来館者が博物館に対して期待し、再訪し、他者に薦める背景には、「ここで学べる」「ここで対話できる」「ここは開かれている」という実感があります。教育活動が持つこのような信頼構築機能は、来館者数や収益には現れにくいものの、博物館の社会的持続性を支える見えざる資本といえるでしょう。
このような教育機能の広がりについて、館のリーダーシップや職員の専門性といった内部資源だけでなく、社会との協働関係を築く能力が重要であるとされています。教育担当者が単に「教える人」ではなく、「社会との架け橋」としての役割を担うようになってきているという見解も示されています(Munley & Roberts, 2006)。
このように、教育は来館者へのサービスであると同時に、博物館が公共機関として社会に果たす責任そのものです。教育を軸に、博物館は人と人、過去と現在、地域と世界をつなぎ、社会の信頼に応え続ける文化のインフラとしての役割を果たしています。
まとめ ― 博物館教育の未来に向けて
本稿では、博物館教育の意義を五つの視点から整理してきました。非形式教育の場としての柔軟な学びの支援、感情や対話を通じた共感の形成、社会的包摂と文化的正義の実現、21世紀スキルの育成、そして公共機関としての信頼構築。このように博物館の教育は、単なる知識の伝達にとどまらず、社会との多層的な関係性の中で機能していることが明らかになりました。
今日の博物館に求められる教育は、受け身の来館者に対して一方向的に情報を提供するものではなく、来館者自身が主体となって学び、感じ、考え、社会と関わるための「触媒」となることです。そのためには、教育担当者や学芸員の役割も再定義され、展示やプログラムのデザインが単なるサービスではなく、来館者との共創プロセスとして捉えられる必要があります。
今後、博物館が持続的かつ信頼される文化施設であり続けるためには、教育こそがその基盤を支える機能となることを、私たちはあらためて確認する必要があります。学びを支えることは、社会を支えることでもある。そのことを踏まえて、博物館教育の価値を社会の中で丁寧に再発見し続けていく姿勢が求められているのです。
参考文献
- Munley, M. E., & Roberts, B. (2006). Are museums still the “temples of the muses”? In S. J. Weil (Ed.), A cabinet of curiosities: Inquiries into museums and their prospects (pp. 171–187). American Association of Museums.
- Earle, W. (2013). Cultural education: Redefining the role of museums in the 21st century. International Journal of Inclusive Museums, 6(2), 27–36.
- Hansson, A., & Öhman, J. (2021). Museum education and sustainable development: A public pedagogy perspective. Environmental Education Research, 27(6), 894–911.
- Hooper-Greenhill, E. (2000). Changing values in the art museum: Rethinking communication and learning. Leicester University Press.
- Kratz, S., & Merritt, E. (2011). Museums and the future of education. On the Horizon, 19(3), 188–195.