はじめに:なぜ来館者中心の発想が必要なのか
博物館に足を運んでもらうために、日々さまざまな工夫が凝らされています。しかし、どれだけ準備を重ねても、来館者の反応が思うように得られないと感じたことはないでしょうか。展示内容を充実させ、広報にも力を入れているのに、なぜ来館者が「来たい」と思ってくれないのか。その背景には、博物館側の「伝えたいこと」と、来館者が「求めていること」との間に、見えにくいずれがあるのかもしれません。
現代社会では、来館者の価値観やライフスタイルが大きく変化し、多様化しています。家族連れ、学生、シニア層、外国人観光客、障がいのある方など、来館者はそれぞれ異なる背景や目的を持って博物館を訪れています。そのような多様な来館者に対して、従来のように一方向的に情報を提供するだけの展示では、満足してもらえない場面が増えています。今、博物館には「知を伝える場」から「共に意味をつくる場」への転換が求められています。
こうした変化に対応するうえで重要なのが、「来館者中心」という発想です。来館者は単なる受け手ではなく、体験の中で意味を見出す存在であると捉える必要があります。どのような動機や期待をもって来館しているのかを理解することが、博物館の価値創造の出発点となります。たとえば、来館者の動機は「探求したい」「誰かと時間を過ごしたい」「癒されたい」など多様であることが明らかにされており、博物館はそうした動機に応じた体験を提供することが求められています(Falk, 2016)。
また、来館者を理解するうえでは、年齢や性別といった基本的な属性情報だけでなく、「なぜ来るのか」「どのような体験を期待しているのか」「何を持ち帰ろうとしているのか」といった心理的側面にも目を向ける必要があります。こうした深い理解に基づいて来館者と向き合うことが、現代の博物館におけるマーケティング戦略の核となるのです。
本記事では、このような「来館者中心」の視点から、博物館におけるマーケティング戦略の変化について考えていきます。理論的な枠組みを紹介するとともに、実際に来館者中心の姿勢を取り入れて変革を進めた博物館の事例を取り上げ、どのように関係性や体験が変化するのかを探ります。あわせて、このような取り組みが博物館の社会的意義や持続可能性とどのように結びつくのかについても考察していきます。
来館者中心のマーケティングとは何か ― 理論的枠組みからの理解
博物館において「マーケティング」という言葉は、しばしば広報活動やイベントの宣伝など、情報発信の手段として捉えられがちです。しかし本来、マーケティングとは、来館者との間に価値ある関係を築くための戦略的思考と組織的行動を意味します。とくに非営利組織である博物館においては、収益や集客を目的とするのではなく、「ミッションを実現するために誰とどのように関係を結ぶか」を考えることがマーケティングの本質とされています(Kotler et al., 2008)。
来館者を「集める対象」としてではなく、「共に価値を生み出す存在」として捉える姿勢が、来館者中心のマーケティングの出発点になります。「施設が伝えたいこと」に合わせて来館者を呼び込むのではなく、「来館者が求めること」に合わせて展示やサービスを設計し直す視点が必要です。そのための理論的枠組みのひとつとして、マーケティングの基本概念であるSTP戦略が挙げられます。これは、①市場を分類する「セグメンテーション(Segmentation)」、②特定の層を対象とする「ターゲティング(Targeting)」、③その層にどのような博物館として認識されたいかを定める「ポジショニング(Positioning)」という三つの要素から構成されます。
このSTP戦略はもともと商業分野で発展してきた考え方ですが、博物館においては、年齢や性別といった属性よりも、来館者の動機や期待に注目して応用する必要があります。来館者の動機に着目した代表的な理論として、来館者を五つのタイプに分類するモデルが知られています。「探究者(Explorers)」は知的関心に基づいて訪れ、「ファシリテーター(Facilitators)」は家族や友人との時間を重視します。「経験志向者(Experience Seekers)」は文化施設への訪問自体に価値を見出し、「再充電者(Rechargers)」は静かな空間で癒しを求め、「専門家・趣味者(Professionals/Hobbyists)」は専門的関心を持って来館します(Falk, 2016)。
この分類によって、来館者の多様な期待や体験の目的が浮かび上がります。同じ展示でも、「学びの場」として捉える人もいれば、「癒しの場」として感じる人もいます。そのため、来館者理解とは単なる統計情報の把握ではなく、「なぜ来るのか」「何を期待しているのか」「何を持ち帰りたいのか」といった心理的側面にまで目を向けることが求められます。
来館者中心のマーケティングが戦略の中核とされるのは、博物館のあらゆる意思決定が「誰のために、なぜそれを行うのか」という問いに直結しているからです。展示の内容や構成、キャプションの書き方、案内表示や教育プログラムの時間帯設定など、どれも来館者の行動やニーズに応じて設計されるべきものです。来館者理解が深まれば、「満足して帰る来館者」を「共感し、再来館する来館者」へと変えていく可能性が高まります。
このように、来館者を起点にしたマーケティングの導入は、博物館の運営や社会的役割そのものに変化をもたらします。来館者との関係性が深まり、単なる一回限りの訪問者ではなく、地域や共同体の一員として継続的に関わる存在になっていきます。それは単なる集客を超えて、博物館の社会的価値と存在意義を支える基盤となるのです。
来館者の多様な動機と行動 ― 理解から共感へ
博物館に足を運ぶ人々は、単に偶然訪れているわけではありません。そこには必ず何らかの動機や目的が存在しています。知的な探究心を満たしたい人もいれば、静かな時間を求めて来館する人、家族とゆったり過ごしたい人、あるいは観光の一環として文化施設を訪れる人もいます。こうした動機は一様ではなく、多様性に富んでいます。それにもかかわらず、展示やプログラムの設計が「知識を与えること」や「学びの提供」に偏ってしまうと、来館者が本当に求めている価値とはすれ違ってしまうことがあります。
来館者の行動や動機を分類する枠組みとしては、来館者を五つのタイプに分けるモデルが有効です。「探究者」は知的好奇心を原動力に来館し、「ファシリテーター」は家族や友人と共有する時間を重視します。「経験志向者」はその場にいること自体に価値を感じ、「再充電者」は静寂や癒しを求め、「専門家・趣味者」は特定分野への深い関心をもって来館します(Falk, 2016)。このような分類は、来館者の背景や目的の違いを理解するうえで有益であり、展示構成やサービスの設計に大きな示唆を与えてくれます。
しかし、来館者の動機が明確である一方で、彼らが体験する内容との間にギャップが生じることもしばしばあります。たとえば、「静かに過ごしたい」と思って来館した人が、団体客の多さに圧倒されて落ち着けなかったり、「子ども向けだと思って来た展示が難しすぎた」と感じたりするケースです。このようなズレが生じたとき、来館者は満足感を得られず、再来館の可能性が低くなってしまいます。こうしたギャップを防ぐためには、展示やサービスの設計段階から、来館者の期待を可視化し、対応していくことが必要です。
来館者の期待や感じ方を把握する手段として、満足度調査やフィードバックの収集が重要な役割を果たします。たとえば、アンケートだけでなく、滞在時間、展示の前での立ち止まり方、館内の動線、グループ構成などを観察することで、来館者がどのように空間を使っているのかを知ることができます。さらに、Wi-Fi接続ログやアプリの行動データなど、デジタルツールを活用することで、来館者の動向をより詳細に分析することも可能です。こうした情報は、来館者の「見えにくいニーズ」にアプローチするうえで有効です(Di Pietro et al., 2014)。
とはいえ、来館者をデータとして捉えるだけでは、持続的な関係性を築くことはできません。重要なのは、来館者の立場に立って「共感」することです。たとえば、小さな子どもを連れた家族にとっては、展示の難易度だけでなく、ベビーカーの動線や休憩スペースの有無も大切な要素です。また、多言語対応のサインや、静かな鑑賞スペースの設置といった配慮も、来館者の多様な期待に応える手段となります。こうした細やかな気配りの積み重ねが、来館者の共感を呼び、再来館や口コミといった行動につながっていくのです。
来館者を「一回限りの訪問者」ではなく、「関係を育む存在」として捉え直すことが、博物館の経営にとってますます重要になっています。理解を深めることが第一歩であり、共感を通じて信頼を築くことが、持続的な来館者との関係性の基盤になるのです。
実例に学ぶ ― 来館者中心戦略を実践する博物館
Powerhouse Museum(シドニー)― 若者を惹きつける社会的テーマの活用
来館者中心のマーケティングを実践している好例として、オーストラリア・シドニーにあるPowerhouse Museumが挙げられます。この博物館は、若年層との接点を強化するために、従来の常設展示とは異なる切り口で、避妊、タトゥー、サブカルチャーなど、社会的に議論を呼ぶようなテーマを積極的に取り上げてきました。これらのテーマは、伝統的な博物館来館者層からは敬遠されがちな一方で、若者たちにとっては自身の関心や経験に密接に関わる内容でもあります。
注目すべきは、こうした企画が単なる話題性の追求ではなく、博物館の持つ「社会的議論の場としての役割」を真剣に果たそうとしている点です。テーマの選定にあたっては、マーケティング部門と学芸部門が連携し、来館者調査やコミュニティとの対話を通じて、展示の方向性を慎重に検討しています。来館者の関心を正確に読み取り、それに応答する形で展示を組み立てることで、単なる情報提供にとどまらない双方向的な体験を提供しています。
また、来館者との関係性を「一度きりの訪問」ではなく、「継続的な対話」として捉えている点も特徴です。展示の周辺では、来館者が自由に意見を表明できるスペースや、SNSを通じた参加型キャンペーンが行われ、博物館と来館者が共に社会的課題を考える場が形成されています。このようなアプローチは、来館者を「共創のパートナー」として位置づける実践として、高く評価されています(Sandell & Janes, 2007)。
シカゴ歴史博物館 ― 市民との関係を再構築する戦略的転換
来館者中心の戦略を通じて組織変革を遂げた事例として、アメリカ・イリノイ州にあるシカゴ歴史博物館が挙げられます。この館は、展示と運営の両面において「地域社会との関係性の再構築」を明確な方針として打ち出し、市民にとって意味のある歴史博物館とは何かを問い直しました。特に注目されるのは、戦略計画の策定段階から来館者を中心に据え、市民や教育機関との協働を通じて展示やプログラムを共に設計していった点です。
館内では、シカゴ市の多様な歴史的経験を反映した展示が展開され、特定の民族・階層・地域に属する人々が、自分自身の物語と出会えるように構成されています。また、学校教育と連携したプログラムも充実しており、単なる訪問体験にとどまらず、学びと地域アイデンティティの形成を支援する機能が強化されました。
組織内部においても、部門を越えた連携体制が構築され、マーケティング・教育・展示といった各部署が共通のミッションを共有することによって、「来館者との関係を中心に据える組織文化」への転換が図られました。このような統合的な戦略実行は、来館者からの信頼や参加意欲を高めるだけでなく、地域社会における博物館の役割そのものを再定義することにつながっています(McRainey, 2013)。
Museum Campus(シカゴ)― 組織連携による来館者体験のデザイン
来館者中心の視点から都市全体の文化体験を再構成した事例として、アメリカ・シカゴのMuseum Campusの取り組みが注目されています。このプロジェクトは、シカゴ市内に隣接して立地するフィールド自然史博物館、シェッド水族館、アドラー天文館という三つの文化施設が連携し、一体的な来館者体験を提供することを目的に始まりました。これまで個別に運営されていた施設が、共通の来館者に向けて共同戦略を展開することで、都市空間そのものを一つの「文化の目的地」としてブランド化しています。
この取り組みでは、共通チケットの発行や館間アクセスの整備、広報活動の連携が行われ、来館者の利便性を高めると同時に、滞在時間や満足度の向上につながる工夫が随所に見られます。来館者にとっては、各館を個別に訪れるのではなく、一連の流れとして文化体験を楽しむことができるようになります。こうした「来館者の動線」を意識した設計は、施設単体では実現できない統合的な価値を生み出しています。
さらに、施設間の連携は、情報共有やマーケティング戦略の共通化にも及び、それぞれの館が持つ強みを活かしつつ、地域全体としての文化的魅力を高めることに成功しています。これは、来館者を「一つの施設の来訪者」としてではなく、「都市の文化体験者」として捉える視点に基づく戦略であり、来館者中心主義を広域で実現する先進的な取り組みといえます(Kotler et al., 2008)。
つながり続ける博物館へ ― 関係性・共感・ブランド価値の創造
これまで見てきたように、来館者中心のマーケティング戦略は、博物館の在り方そのものを大きく変えつつあります。従来のように、展示内容や学術的価値を一方的に伝えるのではなく、来館者を共に価値をつくり上げるパートナーと見なす視点へと転換が進んでいます。来館者がどのような動機をもって博物館を訪れるのかを理解し、その期待や関心に応えることを軸にした経営は、展示や広報、教育プログラム、さらには組織運営にまで広がる実践へとつながっています。
このような姿勢は、単なる来館促進を超えて、博物館に対する信頼と共感を育む基盤となります。近年、来館者は情報の受け手であるだけでなく、自ら情報を発信し、他者に影響を与える存在としても機能しています。そうした中で、来館者が「この博物館は自分を大切にしてくれている」と感じられる体験を得ることは、館の評判やブランド価値を左右する重要な要素です。丁寧な接遇や共感を呼ぶ展示、来館者の声に応える運営姿勢は、「また来たい」「誰かに勧めたい」と思わせる原動力となります。
来館者との関係性を一回限りのものとしてではなく、継続的なつながりとして捉えることも重要です。来館者の存在は、展示やイベントといった「点」の接触を超えて、「線」や「面」としての関係へと育てていくことが可能です。たとえば、初回の来館をきっかけに、メールマガジンやSNSを通じた情報発信に参加し、再来館やワークショップへの参加、さらにはボランティアや支援者として関わるようになるといった連続的な関係性が生まれます。こうした関係の深化は、来館者の満足度や忠誠度を高めるだけでなく、館の運営に来館者の声を反映させる好循環にもつながります。
さらに、このような共感と信頼に基づく関係性は、博物館の持続可能性とも密接に関係しています。来館者との安定的な関係を築くことは、外部環境の変化に強い経営基盤をもたらします。たとえば、展示内容の刷新や施設改修といった大きな変化があっても、日頃から共感を重ねてきた来館者は理解を示し、支援や協力を申し出てくれる可能性が高まります。また、社会的課題への取り組みや多様な価値観への対応なども、来館者の声を起点にすれば説得力のある取り組みとして展開できます。
このように、来館者中心の姿勢は、単なる戦略や手法にとどまらず、博物館の経営理念や社会的使命と深く結びつくものです。来館者との関係を丁寧に築き、共感と信頼を通じて「選ばれる博物館」となることは、結果として公共性と持続可能性の両立を可能にします。来館者一人ひとりとのつながりが、博物館の未来をかたちづくる礎となるのです。
参考文献
- Di Pietro, L., Guglielmetti Mugion, R., Renzi, M. F., & Toni, M. (2014). An audience-centred perspective for museums sustainability. Journal of Cultural Heritage Management and Sustainable Development, 4(2), 90–112.
- Falk, J. H. (2016). Museum audiences: A visitor-centered perspective. Loisir et Société / Society and Leisure, 39(3), 341–351.
- Kotler, N. G., Kotler, P., & Kotler, W. I. (2008). Museum marketing and strategy: Designing missions, building audiences, generating revenue and resources (2nd ed.). Jossey-Bass.
- McRainey, D. L. (2013). Chicago History Museum: A case of strategy, mission, and identity. In N. Meszaros (Ed.), Museum marketing: Competing in the global marketplace (pp. 115–126). Routledge.
- Sandell, R., & Janes, R. R. (Eds.). (2007). Museum management and marketing. Routledge.