はじめに ― 博物館知識のネットワーク化と参加型デジタル基盤の重要性
現代社会において、博物館が担う知識の役割は大きく変化しつつあります。インターネットやデジタルアーカイブの発展により、知識のネットワーク化が進み、博物館の情報基盤はかつてないほど多層的かつオープンなものとなっています。従来は専門家が中心となってコレクションを記録・分類してきましたが、近年ではオンラインコレクションやオープンデータ化が進み、ネットワーク社会にふさわしい新たな知識共有のかたちが求められています。
また、専門的な知識だけでなく、市民や多様なコミュニティの声が博物館の知識基盤に組み込まれることが、より豊かで多声的な「市民知」や「コミュニティ知」につながっています。ユーザー参加やアクセス性の拡大を通じて、参加型ミュージアムへのパラダイムシフトが急速に進んでいます。オンライン環境では、来館者や利用者が自ら知識創造やタグ付けなどの活動に関わる機会が広がっており、情報基盤の設計そのものが変革期を迎えています。
このような変化を後押ししているのが、デジタルアーカイブやソーシャルタギング、フォークソノミーといったデジタル技術の普及です。単なるデータベースの公開にとどまらず、ユーザー自身が情報を補完したり、独自の視点でコレクションを検索・分類できる環境が広がることで、博物館はより双方向性の高い学習・体験の場へと変わりつつあります。
実際、近年の国際的な実証研究でも、オンラインコレクションや博物館ウェブサイトの設計は「構成主義モデル」や「参加型モデル」へとシフトしつつあることが示されています。2000年代から2010年代にかけて、欧米の博物館ではユーザー参加を前提とした知識ネットワークやコミュニケーション戦略の発展が顕著となっています(Gil-Fuentetaja & Economou, 2019; Trant, 2006)。
本記事では、このような知識ネットワーク化の動向と、ソーシャルタギングをはじめとする参加型デジタル基盤の実践例について、国内外の研究や事例をもとに詳しく解説していきます。なお、デジタルアーカイブの保存・公開・継承のあり方については、関連記事「博物館とデジタルアーカイブとは何か ― 保存・公開・継承をつなぐデジタル基盤の構築」でも詳しく論じていますので、あわせてご参照ください。

知識ネットワーク化とは何か ― 博物館の情報基盤と社会的役割
知識ネットワーク化の定義と現代的意義
知識ネットワーク化とは、知識や情報が従来の専門家集団や組織の枠組みを超えて、個人・団体・コミュニティ・社会全体に分散し、多層的につながる現象を指します。デジタル社会の進展により、情報が相互に結びつき、ネットワークを形成することが日常的なものとなりました。博物館も例外ではなく、インターネットやデジタルアーカイブの普及によって、知識の流通経路が飛躍的に拡大しています。
現代の博物館においては、従来型のコレクション管理や展示だけでなく、デジタル基盤を活用した情報公開や知識共有の役割が一層重要になっています。来館者や利用者が博物館の情報資源にアクセスする手段は多様化し、オンラインコレクションやデジタルアーカイブなど、物理的な制約を超えた知識のネットワーク化が進行しています。知識ネットワーク化によって、特定の分野や専門家だけでなく、一般市民や他分野のステークホルダーも博物館の知識創造プロセスに参画できるようになっています。
博物館の情報基盤は、単なるデータベースではなく、教育リソースや学習資源、コミュニティ知、市民知、アクセス性の向上、ネットワーク社会への接続といった多面的な価値を含んでいます。知識ネットワーク化がもたらすメリットは、博物館が社会全体の「知の拠点」として機能し、公共的価値を発揮できる点にあります。
専門知から市民知・コミュニティ知への変化
これまで博物館の知識体系は、学芸員や研究者による専門的な記述・分類・管理が中心でした。しかし、21世紀に入り、博物館の知識基盤はより開かれたものへと変化しています。専門知だけでなく、市民知やコミュニティ知といった多様な知識の参入が進み、参加型ミュージアムとしての新たな可能性が広がっています。
たとえば、来館者が自身の視点でコレクションにタグ付けを行ったり、体験や発見を共有したりすることで、知識ネットワークは従来よりも多層的かつ動的なものになります。こうした多声的知識の集積は、博物館のアクセスポイントや検索性を高め、市民・地域コミュニティの学びやエンゲージメントを促進します。ユーザー参加がもたらす知識の多様性は、学習資源や展示の質の向上だけでなく、博物館が社会的包摂や多文化共生の場となるための基盤にもなっています。
また、知識ネットワーク化によるメリットは、外部の専門家・研究者だけでなく、子どもや高齢者、障害のある方など、さまざまな層の市民が博物館活動に関われる点にも現れています。これにより、博物館は単なる展示の場から、地域や社会を巻き込む学習コミュニティへと発展しつつあります。
オンラインコレクションの進化とコミュニケーション戦略
オンラインコレクションの展開は、知識ネットワーク化を象徴する取り組みの一つです。2008年から2017年にかけて、欧米の博物館ではオンラインコレクションの設計思想が「構成主義モデル」や「参加型モデル」へと大きく移行しています。2017年時点で、約6割の館がユーザーの自由な探索や市民参加を重視する戦略を導入し、単なるデータ公開から双方向的なコミュニケーション基盤への転換が加速しています(Gil-Fuentetaja & Economou, 2019)。
このようなオンラインコレクションは、アクセス性を飛躍的に高めるとともに、専門家の視点だけでなく、多様な来館者やコミュニティの知識や関心を受け止めるプラットフォームとして機能しています。例えば、オンライン上でのタグ付けやレビュー投稿、参加型データベースの充実により、利用者一人ひとりが知識創造の担い手となります。これにより、博物館の教育リソースや学習資源はより豊かで柔軟なものとなり、ネットワーク社会にふさわしい知識基盤が形作られています。
また、オンラインコレクションの進化はコミュニケーション戦略にも大きな影響を与えています。一方通行の情報発信から、ユーザー参加・双方向性・共創を志向する仕組みへと進化し、SNSやデジタルプラットフォームとの連動による情報発信の拡大も進んでいます。教育リソースの充実や多様な検索経路の整備、コミュニティ知の蓄積など、デジタル基盤を活用したコミュニケーション戦略が、現代の博物館運営において重要な役割を果たしています。
日本の博物館への示唆と今後の課題
日本の博物館でも、近年はデジタルアーカイブやオンラインコレクションの充実に取り組む動きが活発化しています。しかし、知識ネットワーク化をさらに進めるためには、いくつかの課題を乗り越える必要があります。たとえば、情報基盤の整備や予算の確保、デジタル人材の育成、利用者参加を促す仕組みづくり、専門知と市民知のバランスを取るガバナンスの確立などが挙げられます。
今後は、ネットワーク社会に適応した情報基盤の拡充や、参加型・協働型の知識創造が求められます。専門家の知識と市民やコミュニティの知恵が融合することで、博物館はより公共的で開かれた「知のプラットフォーム」として社会的価値を高めていくことが期待されます。デジタル基盤を活用した知識ネットワーク化は、日本の博物館経営や教育現場においても、持続可能な発展と多様な価値創造に向けた重要な戦略となるでしょう。
実践例:美術館・博物館におけるソーシャルタギング
ソーシャルタギングが積極的に導入された例としては、steve.museumプロジェクトが挙げられます。このプロジェクトは、アメリカのメトロポリタン美術館をはじめとする複数の美術館が共同で実施した大規模な実証事業であり、一般の来館者やオンライン利用者によるタグ付けがコレクション管理やアクセスポイントの拡張に活用されました。特筆すべきは、非専門スタッフが付与したタグの約88%が従来の記録にない新規語彙であり、その多くが専門家によっても有効と判断された点です(Trant, 2006)。
オーストラリアのPowerhouse Museumでは、2006年6月にオンラインコレクションの公開に際し、利用者が自由にタグ付けできるフォークソノミー機能を導入しました。これにより、専門用語に依存しない自然言語による検索が可能になり、利用者のアクセシビリティが向上しています(nma.gov.au)。
この事例では、利用者によるタグ付けが教育リソースや学習資源の拡充、コミュニティ知の蓄積と共有、参加型展示の活性化にも直結しています。SNSや写真共有サービスとの連携によって、オンライン上での知識ネットワーク化もさらに拡大しています。一方で、ソーシャルタギングにはタグの表記揺れや曖昧さ、重複、ノイズの混入など課題も存在します。運営側では、タグの管理ルールやフィードバック機能、専門家によるレビューやガイドライン整備など、多様なアクセスポイントと知識の質を両立させる工夫が求められています。
ソーシャルタギング・フォークソノミーがもたらす知識ネットワーク化の価値
多様なアクセスポイントと市民知・コミュニティ知の創出
ソーシャルタギングやフォークソノミーがもたらす最大の価値は、博物館コレクションへのアクセスポイントが多層化し、これまで専門家のみが扱っていた情報や知識が市民やコミュニティによっても共有・拡張される点にあります。ユーザー自身がタグを付与することで、検索経路が多様化し、さまざまな関心や背景を持つ利用者が自分なりの方法で作品や資料へアクセスできる環境が生まれます。
こうした仕組みは、市民知やコミュニティ知と呼ばれる多様な知識や経験が可視化され、知識ネットワークが社会全体に広がることを意味しています。たとえば、地域固有の表現や方言、世代ごとの価値観などがタグとして集積されることで、単なるデータベースを超えた「知の生態系」が構築されます。さらに、教育リソースや学習資源としても利活用が進み、学校現場や生涯学習、地域連携の新たな可能性が広がっています。
学習・体験・発見の深化と参加型ミュージアムの実現
多様なタグやアクセスポイントが生まれることで、来館者やオンラインユーザーは従来よりも深い学びや発見を得やすくなります。自分自身が知識創造のプロセスに参加することで、作品への関心や記憶が強化され、体験や発見がより主体的なものになります。
ソーシャルタギングによって生まれた多様な視点や表現は、来館者同士の気づきや対話を誘発し、学習資源としての価値も高めます。特に、学校教育やワークショップの現場では、参加型ミュージアムとしての機能が強化され、双方向性やエンゲージメントが向上します。博物館が単なる展示の場ではなく、共創・対話・体験を重視した新しい学びの場へと進化していることが実感されます。
専門性・信頼性・情報管理とのバランス
一方で、ソーシャルタギングやフォークソノミーを取り入れる際には、専門性や信頼性をどう確保するかという課題も生じます。ユーザーが自由にタグを追加できる環境は、アクセスポイントの拡大と同時に、曖昧な表現やノイズ、誤った情報の混入といったリスクも伴います。
これらの課題に対しては、専門家によるメタデータ管理や公式分類との連携、タグの品質管理、ユーザー教育やガイドラインの整備が不可欠です。持続可能な運用を実現するためには、専門家の視点とユーザー参加の創造性をいかに調和させるかが重要なテーマとなっています。両者のバランスが取れたとき、博物館の知識基盤はより強固で豊かなものになります。
ネットワーク社会における博物館の公共的価値と今後の展開
ソーシャルタギングやフォークソノミーは、ネットワーク社会における博物館の公共的価値を高める上でも重要な役割を果たします。知識ネットワーク化が進むことで、博物館は多様な人々やコミュニティが知識を共有・協働するインフラとなり、社会包摂や多文化共生を実現する「公共的知識基盤」としての役割を担います。
今後は、デジタル社会の進展とともに、より開かれた参加型ミュージアムの発展や、地域・学校・家庭と連携した新しい学習モデルの構築などが期待されます。専門家と市民、来館者と地域が協働する中で、博物館の社会的責任と役割はますます多様化し、持続可能な知識ネットワークの中核として発展していくことでしょう。
今後の展望 ― 日本の博物館での知識ネットワーク化と参加型基盤の可能性
日本の博物館における知識ネットワーク化の現状と課題
日本の博物館でも、近年はデジタルアーカイブやオンラインコレクションの整備が進みつつあります。しかし、欧米と比較すると、知識ネットワーク化や参加型ミュージアムの実現には、まだ多くの課題が残されています。特に、専門知に依存した情報基盤や分類体系が根強く、市民知やコミュニティ知を十分に活用できていない現状が見られます。また、制度面やガバナンス、予算や専門人材の不足といった日本特有の課題も存在し、知識ネットワーク化を持続的に発展させるための体制づくりが求められています。
参加型ミュージアムへの発展戦略と運用上の工夫
今後、日本の博物館が知識ネットワーク化と参加型基盤を発展させていくためには、ユーザー参加を促すための具体的な仕組みやICT技術の積極的な活用が不可欠です。例えば、オンラインコレクションやデジタルアーカイブへのソーシャルタギング機能の導入、SNSやデジタルプラットフォームと連動した情報発信、来館者自身が学習資源や教育リソースの生成に参加できる環境づくりなどが挙げられます。
また、タグ管理やメタデータの品質保証、専門家と一般市民が協働するレビュー体制の構築も重要なポイントです。多様な参加者が自分の視点や経験を反映できる仕組みを整えることで、アクセスポイントや検索性がさらに向上し、参加型ミュージアムとしての社会的価値が高まります。
知識ネットワーク化を通じた社会的価値・公共的役割の拡大
知識ネットワーク化は、博物館の社会的価値や公共的役割を拡大するための強力な手段です。デジタルアーカイブや参加型基盤を活用することで、博物館は地域社会や学校教育、多文化共生の現場とも連携しやすくなります。市民知やコミュニティ知の可視化により、地域文化や生活者の声が公共的知識基盤として蓄積され、社会包摂やイノベーションの推進にもつながります。
持続可能な知識基盤として発展させるためには、技術の進化だけでなく、制度や運用、専門性と市民性のバランスなど、多角的な視点での取組みが不可欠です。これにより、博物館はネットワーク社会における「知のハブ」として新たな価値を創出し続けることが期待されます。
まとめ ― これからの博物館経営に求められるもの
今後の博物館経営には、市民参加と多声性、公共性のさらなる深化が求められます。専門家による知識基盤の強化とともに、ユーザーや地域コミュニティと協働する新しい知識インフラの構築が不可欠です。知識ネットワーク化と参加型基盤を効果的に運用することで、博物館は持続可能な学びと発見の場、社会的包摂の担い手として、より大きな社会的価値を発揮できるでしょう。
参考文献
- Cairns, S. (2013). Tagging: Changing museum knowledge. In S. Macdonald & H. Rees Leahy (Eds.), The International Handbooks of Museum Studies: Museum Theory (pp. 412–431). Wiley-Blackwell.
- Gil-Fuentetaja, I., & Economou, M. (2019). Communicating museum collections information online: Analysis of the philosophy of communication extending the constructivist approach. ACM Journal on Computing and Cultural Heritage, 12(1), Article 3.
- Trant, J. (2006). Exploring the potential for social tagging and folksonomy in art museums: Proof of concept. New Review of Hypermedia and Multimedia, 12(1), 83–105.
- Powerhouse Museum. (2011). The Powerhouse Museum’s Collection Database and Online Engagement. Retrieved from https://nma.gov.au/research/understanding-museums/DGriffin_2011.html