はじめに ― 博物館経営を学ぶ意義を考える前に
博物館はしばしば「文化財を保存し、展示する場所」として理解されてきました。しかし現代の博物館は、それ以上に複合的な役割を担う存在へと発展しています。教育活動を通じて学びの機会を提供する場であり、地域社会に開かれた交流拠点であり、観光や経済に寄与する文化資源でもあります。そのため、博物館の本質を正しく理解し、未来の担い手として成長するためには、経営という観点が不可欠となっています。単に展示の美しさや教育プログラムの内容に注目するだけでは不十分であり、経営の仕組みを学ぶことによって初めて、博物館の社会的意義を包括的に捉えることが可能になるのです(Lord & Lord, 2009)。
今日の博物館を取り巻く状況は決して安定したものではありません。来館者数は長期的に減少傾向を示し、娯楽の多様化やデジタルメディアの普及により、従来型の展示や広報では観客を惹きつけにくくなっています。さらに、資金調達の難しさや公共財政の縮小といった経済的要因も、博物館の運営を大きく制約しています。社会からは、教育機関としての役割や地域貢献、さらには持続可能性への取り組みなど、新しい責務も強く求められるようになっています。こうした複雑な状況においては、従来の「展示中心」のアプローチだけでは十分ではなく、博物館を戦略的に運営するための経営的思考が不可欠となります(Sandell & Janes, 2007)。
学生にとっても、この経営的な視点は無関係ではありません。学芸員を目指す人々は、多くの場合「展示をどのように作るか」や「教育普及をどう実施するか」といった専門的技術に目を向けがちです。しかし、実際の業務現場においては、展示制作も教育プログラムも予算編成や人員配置、広報戦略と密接に結びついています。例えば新しい展覧会を企画する際には、展示意図だけでなく、財務的な制約やスポンサー獲得、広報活動などが同時に検討されなければなりません。すなわち、経営を理解していなければ、学芸員としての専門性も十分に発揮できない可能性があるのです(Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
このように考えると、「なぜ博物館経営を学ぶ必要があるのか」という問いは、学芸員課程の学生にとって極めて現実的な意味を持ちます。経営を学ぶことは、自らの専門分野を博物館全体の運営や社会的役割の中で位置づける視点を育むことにほかなりません。単なる知識習得ではなく、将来の職務で必要となる実践的判断力を養うための重要な一歩なのです。
本記事の目的は、まず「博物館経営とは何か」を国際的研究の知見から整理し、その上で学生がそれを学ぶ意義を明らかにすることにあります。さらに、学芸員課程における経営論の学びが、専門性と社会性を統合した実践的能力をどのように育てるかについても検討します。博物館は複雑な社会的要請に応える存在であるため、その未来を担う学生が経営を理解することは避けて通れない課題なのです。
博物館経営とは何か ― その本質と範囲
博物館経営とは、単に組織を管理するための技術的な手法の集合ではありません。それは、博物館という文化機関が使命を果たし、社会的役割を実現するための包括的な営みです。経営には意思決定の体系が含まれ、博物館のビジョンや目標を実際の活動に落とし込むための枠組みを提供します。したがって、経営を理解することは、展示や教育普及といった専門的な活動を単独で考えるのではなく、博物館という全体の仕組みの中で位置づけ直す作業にほかなりません(Lord & Lord, 2009)。
意思決定を支える仕組み
経営がまず果たす役割は「意思決定を支える仕組み」であることです。経営が存在することで、学芸員や教育担当といった専門職は自らの能力を最大限に発揮できます。これは、経営を単なる官僚的プロセスとみなす見方とは異なり、むしろ専門職が安心して働ける土台として機能するという理解です。財政的資源の配分、人員の調整、計画の策定といった要素はすべて、博物館の使命達成を可能にするために存在しているのです(Lord & Lord, 2009)。
社会的役割とマーケティングの統合
経営には「社会的役割とマーケティングの統合」という側面もあります。博物館はコレクションを保存・研究し展示するだけでなく、来館者や地域社会との関係を構築することが求められます。そのため、経営は内部的な管理にとどまらず、外部のステークホルダーとのつながりを形成するプロセスを含みます。来館者を理解し、彼らの期待に応えるプログラムを設計することは、マーケティング的視点と経営的視点を結びつける典型的な活動です。この意味で、博物館経営は学際的であり、文化政策、教育、財政、広報を横断する実践知と理論の統合が求められます(Sandell & Janes, 2007)。
変化に対応する包括的営み
現代の博物館経営は「変化に対応する包括的営み」としても理解されます。社会環境の急速な変化、テクノロジーの発展、資源の制約、そして予期せぬ危機への対応が求められる中で、経営はこれらに柔軟かつ戦略的に対応する仕組みを提供します。たとえば新型感染症の流行や経済危機の中で、多くの博物館は来館者数の急減や収入減少に直面しました。こうした状況下で必要となるのは、展示や教育といった専門活動を維持しつつ、財務管理や人材マネジメントを戦略的に行い、組織の持続可能性を確保することです。経営はまさにそのための道具であり、リスクと機会を同時に管理する包括的な実践を意味します(Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
クラシカルな要素と公共性の統合
博物館経営は「計画・組織・リーダーシップ・財務管理」といったクラシカルなマネジメント要素を包含しつつ、博物館特有の使命に根ざした実践に昇華されています。戦略的計画は単に効率を追求するものではなく、教育・研究・社会的包摂といった使命をいかに実現するかを方向づけるものです。また、組織運営は階層的な統制ではなく、多職種協働のプロセスを前提としています。財務管理も単なる収支均衡ではなく、文化資源を社会に開放し続けるための持続可能性を意識した営みです。これらを総合すると、博物館経営とは効率性と公共性のバランスを追求する実践だといえます(Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
なぜ学生は博物館経営を学ぶ必要があるのか
博物館経営は、実務的なマネジメントの知識にとどまらず、博物館という組織が持つ使命や社会的役割を支える根幹を成しています。学芸員や教育担当を目指す学生にとって、この領域を学ぶ意義は極めて大きいといえます。ここでは、その意義を三つの観点から整理します。
使命を現実化する判断力を養う
博物館には、文化財を保存し、その意味を社会に伝えるという基本的使命があります。しかしその使命は、単なる理念として掲げるだけでは達成されません。実際には、限られた予算や人員をどのように配分するのか、どの展示やプログラムに優先順位を与えるのかといった具体的な意思決定を通じて初めて実現されます。経営を学ぶことは、このような判断を支える知識と方法を体系的に理解することにつながります。学生が博物館経営を学ぶことは、将来現場に出たときに、自らの専門的活動を博物館全体の使命に結びつけて考える力を養うことに直結するのです(Lord & Lord, 2009)。
複雑化する課題に対応する力を培う
現代の博物館は、来館者数の減少や娯楽の多様化、公共財政の縮小、さらには社会的包摂や持続可能性といった新しい要請に直面しています。これらの課題は単純ではなく、しばしば相互に矛盾する要求を突きつけます。たとえば来館者を増やすために企画展を充実させたい一方で、財政的制約により人員や予算が限られているといった状況です。こうした場面で必要となるのが、経営的な視点から状況を分析し、現実的な解決策を導き出す力です。経営論の学びは、複雑な環境下での意思決定を支える理論と事例を提供し、学生が創造的かつ柔軟に課題に対応する力を育てます(Sandell & Janes, 2007)。
未来に必要なスキルを獲得する
社会の急速な変化、特にデジタル技術の進展は、博物館のあり方に大きな影響を与えています。オンライン展示、ソーシャルメディアを活用した広報、バーチャルツアーの導入など、新しい来館者体験が次々に登場しています。このような状況に対応するためには、適応的思考力、新メディアリテラシー、異文化理解力といった従来の学芸員教育では必ずしも重視されてこなかったスキルが必要とされています。経営論を学ぶことは、こうしたスキルを理論的に理解し、将来の実践につなげる機会を学生に提供します。博物館を「学習組織」へと成長させる視点も、この学びを通じて培われます(Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
学生にとっての学びの価値 ― 学芸員課程の観点から
学芸員課程で学ぶ学生にとって、博物館経営論は一見すると「現場の実務から遠い理論」と捉えられるかもしれません。しかし実際には、展示や教育といった専門分野を支える枠組みとして、経営的な知識は不可欠です。ここでは、学芸員課程における学びとしての価値を三つの視点から整理します。
専門性を補完する経営知識の習得
学芸員課程では通常、展示論、教育普及、資料保存といった専門的知識が中心に扱われます。しかし、これらの活動は単独で存在するものではなく、必ず組織的な資源配分や計画の中で位置づけられます。展示制作一つをとっても、予算編成、人員配置、広報戦略といった経営的な要素が不可欠です。経営論を学ぶことで、学生は自分の専門領域がどのように全体の枠組みに支えられているのかを理解でき、専門知識をより効果的に発揮できるようになります(Lord & Lord, 2009)。
協働を可能にする組織理解
博物館は多様な職種が関わる学際的な組織です。学芸員、教育担当、マーケティング担当、財務担当などが連携し、使命達成のために協働します。経営論を学ぶことは、こうした組織の構造や役割を理解し、他分野の専門家と協働する際に必要となる視点を提供します。単なる展示制作の技術だけでなく、組織運営やガバナンスを理解することによって、学芸員としての立場が組織全体の中でどのように機能するのかを俯瞰できるようになります。これは、将来的にリーダーシップを発揮するための基盤ともなります(Sandell & Janes, 2007)。
博物館を「学習組織」として捉える視点
現代の博物館は、変化する社会的要請に対応し続けるために「学習組織」として成長することが求められています。新しい技術や方法論を柔軟に取り入れ、組織全体で学び合う文化を育むことが不可欠です。経営論を学ぶことで、学生は博物館を静的な保存機関ではなく、社会に開かれた動的な組織として捉える視点を身につけることができます。これは、未来の学芸員が持つべき重要な資質の一つであり、変化に対応し、組織の革新を支える力となります(Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
まとめ ― 博物館経営を学ぶことは未来を支える準備
ここまで、博物館経営とは何か、その本質と範囲、そして学生が学ぶ意義や学芸員課程における価値について整理してきました。最後に、全体を総括しつつ、博物館経営を学ぶことが未来を支える準備であることを確認していきます。
博物館経営の核心 ― 使命と社会的責任を支える仕組み
博物館経営の中心には、博物館の使命と社会的責任を支える仕組みがあります。展示や教育は単独では成立せず、財務管理や組織運営といった経営の枠組みによって初めて持続可能な形となります。経営は効率性を追求するためのものではなく、むしろ公共性を担保するための基盤として理解されるべきです。この点を明確に意識することは、学芸員課程の学びを総合的に深化させる契機となります(Lord & Lord, 2009)。
学ぶ意義 ― 判断力・対応力・未来志向のスキル
学生が博物館経営を学ぶ意義は三つに整理できます。第一に、使命を現実化するための判断力を養えること。第二に、複雑化する社会的課題に対応する力を培えること。第三に、デジタル化やグローバル化に伴う未来志向のスキルを獲得できることです。これらは単なる理論的知識ではなく、現場での実践的意思決定を支える力となります(Sandell & Janes, 2007; Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
未来を担う世代に求められる責任
今後の博物館は、環境問題や多文化共生、デジタル社会への適応といった新しい課題に直面し続けます。こうした状況に応えるのは、現在学んでいる学生たちです。経営を理解することは、将来、学芸員や管理職として組織をリードする際に欠かせない力となります。すなわち、博物館経営の学びは未来を「待つ」ためのものではなく、未来を「形づくる」ための準備なのです(Půček, Ochrana, & Plaček, 2021)。
参考文献(APA第7版)
- Lord, G. D., & Lord, B. (2009). The manual of museum management (2nd ed.). AltaMira Press.
- Půček, M. J., Ochrana, F., & Plaček, M. (2021). Museum management: Opportunities and threats for successful museums. Springer.
- Sandell, R., & Janes, R. R. (Eds.). (2007). Museum management and marketing. Routledge.