はじめに ― なぜ今、“収蔵庫”を考えるのか
博物館において、所蔵品の大部分は来館者の目に触れることのない「収蔵庫」に保管されています。展示されているのは多くの場合、全体の5〜10%程度に過ぎず、残りの膨大なコレクションは非公開空間に眠っているのが現実です。この見えない空間こそが、博物館の根幹を支える基盤であり、文化資源を次世代に受け継ぐための重要な場所です。展示空間や教育活動が注目されやすい一方で、収蔵庫は「裏方」として認識されがちですが、実際にはその健全性が、博物館の存続や信頼性の礎を成しています。
しかし近年、この収蔵庫に関するマネジメント上の課題が、国内外を問わず顕在化しつつあります。例えば、スペースの慢性的な逼迫や、温湿度管理の不備による資料の劣化、災害リスクへの備えの不十分さ、さらには収蔵品の位置情報や管理責任の曖昧さなど、現場が抱える問題は多岐にわたります(Antomarchi et al., 2021)。しかもこれらは、一度に目に見える形では表面化しないため、後回しにされやすく、結果として問題が積み重なる傾向にあります。収蔵庫の整備は、博物館予算においても優先順位が低くなりがちで、展示や広報といった対外的活動に比べて注目されにくいという構造的問題を抱えています。
とはいえ、収蔵庫のマネジメントは単なる保存技術の問題にとどまらず、博物館の経営全体に直結する課題でもあります。限られた資源をどのように配分し、所蔵品の保存と活用のバランスをどう設計するかという判断は、経営判断そのものです。とりわけ今日の博物館においては、保存と公開の二項対立を超えた、新たな収蔵戦略が求められているのです。
本稿では、収蔵庫のマネジメントを「保存」「管理」「公開」という三つの視点から読み解き、現代の博物館においてこの空間がいかに戦略的に活用されるべきかを考察します。収蔵庫は単なる保管スペースではなく、経営資源の一部であるという認識に立ち、その見えにくい価値を可視化していくことが、これからの博物館経営において不可欠なのではないでしょうか。
収蔵庫における“負債”という発想 ― Storage Debtの概念
博物館における収蔵庫の課題は、往々にして「見えにくい」形で蓄積されていきます。保存環境の不備、過密状態の放置、整理の遅延、不完全な文書管理、そして予算や人材の不足。これらは目に見える危機として表面化することは少なく、つい先送りされがちです。そうした“先延ばし”の結果として、気づかぬうちに組織全体に悪影響を及ぼす状態を、Tomás-Hernández(2021)は**「Storage Debt(収蔵庫の負債)」**と呼びました。
この概念は、ソフトウェア開発の分野で知られる「テクニカル・デット(technical debt)」から着想を得ています。すなわち、短期的な効率や仮の対応を優先した結果、本来なされるべき本質的な改善や整備が遅れ、長期的にはより大きなコストや機能不全を引き起こすという発想です。博物館においても、例えば収蔵棚が一杯になってからやっと移設を検討したり、目録が更新されないまま運用が続いたりする状況は少なくありません。これらは、まさに「見えない負債」として蓄積し、将来の博物館運営に深刻な影響を与えかねないのです。
Tomás-Hernándezはこのモデルを使い、博物館の収蔵庫における構造的課題を整理しました。彼が指摘するのは、収蔵庫の問題は単なる「現場の課題」ではなく、「意思決定の遅延によって生じた経営上の負債」であるという視点です。つまり、収蔵スペースや保存状態の劣化、管理体制の欠如などは、それぞれが館としての戦略的判断の結果であり、放置すれば将来的な危機や費用増に直結するリスクを孕んでいるということです。
国際的にも、この“Storage Debt”が多くの博物館に共通する深刻な課題であることが、様々な調査で明らかにされています。たとえばICCROMとUNESCOが2011年に実施した調査によれば、回答した博物館のうち、約60%が「収蔵品へのアクセスが困難」、約50%が「保存環境に不備あり」、そして30%以上が「整理されていないコレクションがある」と答えています(Antomarchi et al., 2021)。こうした状態が長期間放置されることで、取り返しのつかない劣化や散逸、あるいは責任所在の不明瞭化など、組織的な危機に発展することもあります。
“Storage Debt”という概念は、これらの問題を単なる「技術的な不備」や「保管スペースの不足」として捉えるのではなく、経営判断の問題として可視化するための重要な枠組みです。そしてこの視点を導入することは、収蔵庫の問題を後回しにし続けるのではなく、博物館の将来を左右する中核的課題として再位置づける契機になるといえるでしょう。
国際的ベンチマークに学ぶ ― オランダの収蔵庫改革
収蔵庫マネジメントに関する課題は世界共通のものですが、それに対する取り組み方は各国で大きく異なります。その中でも、博物館政策と施設整備において先進的なアプローチを展開しているのがオランダです。Ankersmitら(2021)の調査によると、同国では収蔵施設の質的向上と効率化を目的としたさまざまな収蔵庫整備が行われており、その中でも注目されるのが「CollectieCentrum Nederland(CCNL)」のような共同型・統合型の収蔵施設です。
CCNLは、複数の主要国立博物館のコレクションを一カ所で管理するために整備された施設であり、高密度保管、環境制御の最適化、自動化されたモニタリングシステムの導入など、機能性と持続可能性の両立を実現しています。これは単に保管の効率化を目指すだけでなく、文化財の長期的な保存とアクセス性の確保を兼ね備えた設計思想に基づいています。また、CCNLのような施設は、災害対応やリスク分散といった観点からも注目されています。所蔵品を分散して管理するよりも、一定の基準を満たした高度な施設に集中させることで、長期的な管理コストとリスクを軽減できるという考え方です。
Ankersmitら(2021)は、こうした収蔵施設を「Good(良い)」「Best(優れた)」「Beautiful(美しい)」という三つの評価軸で整理しています。このユニークな枠組みは、収蔵施設の整備における多様な価値基準を可視化するものです。「Good」は機能性とコスト効率のバランスが取れた施設、「Best」は最新の保存技術や環境制御システムを備えた最先端施設、そして「Beautiful」は建築美や来館者への公開性を意識したデザイン性の高い施設を指しています。ここには、単に効率を追求するのではなく、収蔵庫を社会や地域に開かれた文化インフラとして再定義する意図が込められています。
また、オランダでは「visible storage(公開収蔵庫)」の概念も積極的に取り入れられています。これは、通常非公開とされる収蔵品の一部を、ガラス越しの棚や開架式保管システムなどを通じて、来館者に公開する仕組みです。収蔵品が「活用されない保存資産」として埋もれてしまうのではなく、「未来に伝える文化の証」として可視化されることで、来館者にとっても収蔵庫が意味ある空間へと変わります。さらに、可視化は教育的意義だけでなく、透明性や説明責任の観点からも、博物館の信頼性を高める手段となります。
このようにオランダの収蔵庫改革は、物理的なスペースや設備の充実にとどまらず、制度的支援・共同化・公開性といった博物館経営のトレンドに直結する示唆を多く含んでいます。これらは日本における収蔵庫の在り方を見直す上でも、重要なベンチマークとなり得るでしょう。
現場レベルからの変革 ― RE-ORGによる段階的改善
収蔵庫マネジメントの理想像は、確かに整備された大型施設や先進的な管理システムに見ることができます。しかし現実には、そのような理想をすぐに実現できる博物館は限られています。特に中小規模の館や、専門人材・予算・時間が不足している現場においては、収蔵環境の改善が困難であるという声が多く聞かれます。実際に、収蔵品が床置きになっていたり、通路が塞がれていたり、管理責任者が不明確であったりする状況は、決して珍しいことではありません。
こうした現実的な制約を抱える現場に対して、国際的に大きな影響を与えてきたのが、ICCROM(文化財保存修復研究国際センター)が推進する「RE-ORG(リ・オーガナイズ)」というプログラムです。RE-ORGは、収蔵庫の状態を段階的に改善するための実践的フレームワークであり、専門性や資金の少ない環境下でも、現実的な対応策を講じることが可能です。2011年の発足以来、すでに世界各国の100以上の博物館で導入されており、特に途上国や地方都市の小規模館で高い成果を上げてきました(Antomarchi et al., 2021)。
RE-ORGの最大の特徴は、「完璧を目指さない」ことにあります。限られた条件のなかで、歩ける通路をつくる、所蔵品を分類・識別する、基本的な記録を確保する、管理責任を明確にするという、現実的かつ段階的な目標を設定します。その過程で、「何ができていないか」ではなく、「何から始められるか」を評価する視点を持つことが強調されます。この考え方は、Storage Debt(収蔵庫の負債)を解消する最初の一歩として極めて有効です。
またRE-ORGは、単なる空間整理や文書整備にとどまらず、館内のチームづくりや職員の意識改革にもつながる点が重要です。実際の導入現場では、学芸員・技術職・管理部門などの職員が横断的に協力し合い、共同でプロジェクトを進める過程そのものが、組織内の「収蔵に対する意識」を変えていきます。RE-ORGはこうした現場の文化的変化も重視しており、マネジメントとしての意識改革と制度設計を同時に支援する実践モデルであるといえます。
さらにRE-ORGでは、ツールキット、チェックリスト、事例集など、誰でも使える資料が多言語で提供されており、教育機関や研修機関との連携も進んでいます。これは収蔵庫の改善を「一部の専門家だけが担うもの」から、「現場全体で共有・持続可能なプロジェクト」へと変えていく力を持っています。保存・管理・公開のバランスをどう築くかという課題に対し、RE-ORGは実践知に基づいた有効な一手となるのです。
このように、RE-ORGは特別な技術や多額の予算がなくても始められる、段階的で柔軟な収蔵庫改善のアプローチとして位置づけられます。それは、博物館が自己点検を通じて変わり得るという可能性を開くとともに、収蔵庫を「戦略的経営資源」として再認識する機会にもなるのです。
経営的視点から見た収蔵庫 ― 管理と公開の間で
収蔵庫という空間は、物理的には来館者の視線から隔てられた「裏方」であり、展示室とは異なる静謐な場として位置づけられます。しかし、この場所に保管されているのは、博物館の存在意義そのものとも言える文化財や資料群です。つまり、収蔵庫は単なる保管スペースではなく、博物館のアイデンティティを構成する中核的な資源が集積された空間なのです。にもかかわらず、これまで収蔵庫は博物館経営の視野の外側に置かれ、財務・人的資源の面でも後回しにされてきた傾向があります。
Freda Matassa(2011)は、コレクションマネジメントの視点から、収蔵庫の機能とは「保存(preservation)」と「アクセス(access)」のバランスに尽きると述べています。保存環境を厳密に整え、外部との接触を最小限にすることは、資料の長期的な安定にとって不可欠です。一方で、所蔵品が「死蔵」状態となり、研究・展示・教育といった博物館の基本機能から切り離されるのであれば、それは公共的な資源としての活用を放棄することにもなりかねません。
こうしたジレンマを解消するためには、収蔵庫を単なる技術的課題ではなく、経営資源の一部として再評価する視点が求められます。例えば、収蔵スペースの利用効率や保管棚の密度、環境制御装置の導入コスト、人的配置の最適化などは、いずれも予算や資源の配分に関わる経営判断であり、「見えない空間」の管理が経営そのものに深く関わっていることを示しています。
また、デジタルアーカイブやオンラインデータベースとの連携によって、収蔵品の可視化が進んでいることも重要な動向です。収蔵庫に実際に立ち入らずとも、資料情報にアクセスできる環境は、教育や研究の可能性を飛躍的に広げると同時に、収蔵管理の透明性を高める効果もあります。これにより、物理的には“非公開”であっても、情報としては“公開”という状態を実現することが可能となり、保存と公開のバランスに新たな選択肢が生まれつつあるのです。
このように、収蔵庫は保存・管理・公開という三位一体の機能を持ち、それらはすべて経営的視点の中で再構成される必要があります。どの資料をどこに保管するか、どの程度のアクセス性を確保するか、どこまで一般に開放するか。これらの問いは、博物館の理念やビジョンにも直結する重要な戦略判断であり、収蔵庫の在り方を見直すことは、博物館そのもののあり方を問い直すことでもあるのです。
おわりに ― 収蔵庫を“見えない資産”から“戦略的資源”へ
収蔵庫は、日常的には来館者の目に触れることがないため、しばしば博物館の“裏方”として捉えられてきました。しかし本稿で見てきたように、そこに保管されているコレクションこそが、博物館という組織の根幹を成す存在であり、その管理の在り方は、博物館の価値・信頼性・持続可能性に直結するものです。
「Storage Debt」という概念に代表されるように、収蔵庫のマネジメントは単なる技術的課題ではなく、経営判断の結果として蓄積されるものであり、その負債は時間とともに大きなリスクとなって組織に跳ね返ってきます。一方で、RE-ORGのような段階的改善モデルや、オランダにおける公開型・共同型収蔵施設の取り組みは、収蔵庫が変化可能な領域であることを示しています。予算や人材の制約がある館でも、意識の転換と現実的な戦略を通じて、確かな改善の道が開かれているのです。
現代の博物館経営においては、収蔵庫を単なる保管空間としてではなく、保存・管理・公開のバランスをどう設計するかという観点から捉え直す必要があります。そこでは、施設整備や環境制御といった物理的条件だけでなく、組織文化やスタッフの意識、そして社会との関係性も問われることになります。
今後、収蔵庫はより「開かれた空間」へと変わっていく可能性を秘めています。その変化は、単に内部空間を可視化するという意味にとどまらず、博物館が社会とどのように関係を築き、何を守り、何を伝えていくのかという、根本的な問いと向き合う機会を私たちにもたらすでしょう。
参考文献
Ankersmit, B., Loddo, M., Stappers, M., & Zalm, C. (2021). Museum storage facilities in the Netherlands: The good, the best and the beautiful. Museum International, 73(1–2), 132–143.
Antomarchi, C., Debulpaep, M., de Guichen, G., Lambert, S., & Verger, I. (2021). RE-ORG: Unlocking the potential of museum collections in storage. Museum International, 73(1–2), 206–217.
Matassa, F. (2011). Museum collections management: A handbook. Facet Publishing.
Tomás-Hernández, A. (2021). Storage debt: Applying the theoretical model of ‘technical debt’ to the management of museum storage. Museum International, 73(1–2), 10–21.