博物館におけるマーケティングとSTP分析の意義
近年、博物館は単に資料を展示する場ではなく、社会と文化をつなぐ学びと対話の拠点としての役割を期待されています。しかし、来館者数の減少や財政的制約、支援者層の固定化といった課題は依然として深刻です。これらの状況に対応するためには、展示や教育活動を超えて、博物館が「どのような価値を、誰に、どのように届けるのか」を戦略的に考える視点が求められます。その際に有効なのが、マーケティングの基本概念であるSTP分析です。
STP分析とは、Segmentation(市場細分化)、Targeting(標的市場の選定)、Positioning(自館の位置づけ)の三つの段階で構成される戦略的思考の枠組みです。もともとは企業が限られた資源を有効に配分するために用いた手法ですが、博物館のような公共文化機関にも応用することが可能です。なぜなら、博物館もまた多様な来館者を理解し、限られた人的・財的資源を「最も社会的効果の高い層」に向けて配分する必要があるからです。したがって、STP分析は「誰に」「何を」「どう伝えるか」を整理することで、展示、教育普及、広報、ファンドレイジングといった諸活動を統合的に設計するための有効な羅針盤となります。
ここでいう「市場」とは、商品を購入する顧客ではなく、文化的価値を共有する参加者の集合を指します。来館者、学校、地域住民、支援者、観光客、行政など、多様なステークホルダーが関わるこの「文化的市場」に対し、博物館は利益追求ではなく社会的価値の創出を目的にアプローチすることが重要です。その意味で、博物館におけるマーケティングは単なる宣伝活動ではなく、社会の中で自館の存在意義を再定義するための戦略的思考といえます。
本記事では、STP分析を博物館にどのように活用できるかを具体的に示します。まず、STPの基本構造を整理し、次に博物館での進め方を五つのステップで解説します。さらに、大英博物館の事例を通して理論の実際的効果を考察し、最後に博物館経営におけるSTP分析の意義を総括します。
STP分析とは ― 戦略を設計する3つの視点
STP分析の全体像
STP分析は、マーケティング戦略を立てる際の最も基本的な枠組みであり、組織が自らの活動を社会の中でどのように位置づけ、どのような人々に価値を届けるかを整理するための考え方です。Segmentation(市場細分化)、Targeting(標的市場の選定)、Positioning(自館の位置づけ)の三つの段階から構成され、それぞれが順序立てて進む一方で、互いに密接に関連しながら全体の戦略設計を支えています。博物館においても、この三つの視点を活用することで、展示企画や教育普及活動、広報、地域連携などの方針を来館者中心の視点から整理できるようになります。特定の事業やイベントを単発で考えるのではなく、「誰に」「何を」「どのように」届けるかを体系的に見直すことができるのがSTP分析の大きな利点です。
Segmentation:来館者を理解する
Segmentation(セグメンテーション)は、STP分析の第一段階であり、来館者を理解するための出発点です。一般的な企業では、年齢・性別・所得・居住地といった人口統計的な指標で市場を分けることが多いですが、博物館の場合、それだけでは来館行動の理由を十分に説明できません。なぜ人々が博物館を訪れるのかという「動機」や「価値観」、「体験の志向性」といった心理的・文化的な側面を考慮することが重要です。
たとえば、知識を得て学びを深めたい人は「知識探求型」、展示やワークショップを通して体験を楽しみたい人は「体験参加型」、地域や他者とのつながりを求める人は「共感・社会参加型」といった具合に分類できます。こうした分類は、単なる属性の違いではなく、「どのような文化的価値を求めているか」という視点から人々を理解するための手がかりになります。
このように来館者を文化的価値観で細分化することによって、展示のテーマ設定や教育プログラムの内容、イベントの形態を、来館者の期待や目的に合わせてより的確に設計することが可能になります。セグメンテーションは、博物館が“誰のために存在しているのか”という問いに具体的な輪郭を与える段階といえるでしょう。
Targeting:焦点を定める
Targeting(ターゲティング)は、細分化された来館者グループの中から、どの層に重点を置いて活動を展開するかを決定する段階です。博物館は限られた予算と人員の中で運営されているため、すべての来館者層に同じアプローチを取ることは現実的ではありません。したがって、最も社会的意義が高く、自館の使命と整合する層に焦点を絞る必要があります。
たとえば、学校連携を通じて子どもや学生に文化的リテラシーを育む、地域の高齢者層と協働して文化継承の場を形成する、あるいはデジタルメディアを通じて若年層へのアクセスを強化するなど、ターゲットの設定によって具体的な方向性が定まります。さらに、ターゲティングは「誰に向けて」だけでなく、「誰に対してはあえて焦点を当てないか」を決める作業でもあります。優先順位を明確にすることで、館のリソースを分散させず、最も効果的な領域に集中させることができます。つまり、ターゲティングは「選ぶ」ことと同時に「捨てる」ことを意味し、戦略的な意思決定の中心に位置する要素です。
Positioning:価値を伝える
Positioning(ポジショニング)は、選んだターゲット層に対して、博物館の独自の価値をどのように伝えるかを考える段階です。ここでは、他館にはない独自性と、来館者が共感できる魅力の両方を明確にすることが求められます。博物館の使命や特徴を抽象的に語るのではなく、来館者にとって「この博物館は何を提供してくれる場所なのか」が一言で伝わるようにすることが重要です。
たとえば、「学びと体験が交差する場」「地域の記憶を未来へつなぐ場」「誰もが文化を共有できる開かれた場」などのメッセージは、館の方向性を象徴的に示す表現です。こうしたポジショニングが明確であれば、展示、教育、広報といった各部門の方針に一貫性が生まれ、組織全体が同じ目的に向かって動くことができます。また、ポジショニングは単に外部への発信にとどまらず、内部の職員が「自館の強み」を再確認し、日々の業務判断に活かすための基盤にもなります。自館の価値を言語化し、社会の中での立ち位置を明確にすることは、ブランド形成と信頼の構築にもつながる重要なプロセスです。
STP分析の三つの視点は、マーケティング理論としてだけでなく、博物館経営全体の方向性を整理するための思考枠組みとして活用できます。これらを適切に活かすことで、博物館はより多様な来館者に対して自館の価値を伝え、公共的使命と持続的運営の両立を実現できるのです。次節では、このSTP分析を実際に博物館の現場でどのように適用できるかを、五つの具体的なステップに分けて詳しく解説します。
STP分析の進め方 ― 博物館の現場で使う5ステップ
STP分析は、理論として理解するだけでなく、実際に博物館の企画や運営に取り入れてこそ効果を発揮します。展示や教育普及、広報、ファンドレイジングなど、館の多様な活動はすべて「誰に・何を・どう届けるか」という問いに基づいて設計されています。STP分析を応用することで、それぞれの活動を個別に考えるのではなく、共通の戦略的視点から整理し直すことができます。ここでは、博物館の現場で使いやすいように、分析のプロセスを五つのステップに分けて解説します。
ステップ1:目的を明確にする ― なぜ分析するのか
最初のステップは、分析の目的を明確にすることです。博物館が抱える課題は多様であり、来館者の減少、展示の魅力度の低下、教育活動の効果測定の難しさ、寄付や支援者層の拡大など、状況に応じて焦点が異なります。そのため、まず「何を改善したいのか」「どのような変化を起こしたいのか」を具体的に定義する必要があります。
目的を定めるときは、単なる数値目標だけでなく、館のミッションとの整合性を意識することが重要です。たとえば、「年間来館者数を増やす」ではなく、「地域の学校教育との連携を強化して子どもの学びを支援する」といった社会的意義を伴う目的にすることで、分析がより持続的な方向へと導かれます。目的を言語化することは、後のセグメンテーションやターゲティングの判断軸を定める上での出発点となります。
また、現場での実践を意識するなら、「課題→目的→仮説→分析」という順序を明確にしておくとよいでしょう。分析はあくまで手段であり、目的のないデータ収集や分類は意味を持ちません。この段階での明確な方向づけが、戦略全体の質を左右します。
ステップ2:セグメンテーション ― 来館者を分類する
次に、来館者をどのように分類するかを考えます。一般的な企業のマーケティングでは、年齢、性別、職業、所得などの人口統計的データをもとに市場を分けます。しかし博物館の場合、そうした属性だけでは来館動機や行動パターンを十分に説明できません。博物館にとって重要なのは、来館者の「文化的動機」や「体験の志向性」を理解することです。
たとえば、「知識探求型(学びを重視)」「体験参加型(触れる・作ることを重視)」「共感・社会参加型(他者や地域との関わりを求める)」など、価値観の違いに基づいて細分化する方法が考えられます。こうした分類は、来館者を単なる「消費者」ではなく「文化的参加者」として理解することを意味します。
セグメンテーションを進める際には、アンケート調査やインタビュー、SNSでの反応分析など、定性・定量両面からデータを集めることが有効です。これにより、「どのような来館者が、どんな体験を求めているか」が可視化されます。結果を「来館者マップ」として整理し、各層の特徴を明文化することで、次のステップであるターゲティングに繋げやすくなります。
ステップ3:ターゲティング ― 重点層を選定する
セグメンテーションによって来館者の全体像が見えてきたら、その中からどの層を重点的にアプローチするかを決めます。博物館はすべての人に均等に対応することはできません。限られた人的・財的資源を効果的に配分するためには、焦点を絞る必要があります。
ターゲットを選定する際には、次の三つの観点が役立ちます。第一に、社会的意義。選んだ層に働きかけることで、教育的・文化的にどのような波及効果が生まれるかを考えます。第二に、参加意欲。来館やイベントへの参加、SNSでの発信など、行動に移す意欲の高さを評価します。第三に、ミッション整合性。館の理念や地域との関係性と矛盾しないかを確認します。
たとえば、地域の若者層を対象に「文化を語り合うイベント」を展開したり、家族連れを中心に「親子で学ぶプログラム」を開発するなど、ターゲットに応じた活動の方向性を設定できます。さらに、ターゲット選定は「誰を選ぶか」だけでなく、「誰を選ばないか」も含めた判断です。焦点を明確にすることは、戦略を現実的かつ持続的なものにするための核心です。
ステップ4:ポジショニング ― 独自価値を打ち出す
ターゲット層が定まったら、その人々に対して自館の価値をどのように伝えるかを考えます。ポジショニングとは、社会の中で博物館がどのような役割を果たし、来館者にどのように認識されるべきかを定義する段階です。
このとき重要なのは、「他館との違い」と「来館者が感じる価値」の両方を明確にすることです。差別化を意識しすぎると一部の層にしか響かなくなり、逆に一般化しすぎると魅力がぼやけてしまいます。そのため、「自館の強み(立地・コレクション・人材・教育資源)」と「来館者の期待(学び・体験・交流・癒し)」を組み合わせて独自のメッセージを作ることが重要です。
たとえば、「地域文化を未来へつなぐ対話の場」「科学を暮らしに近づける実験の場」「誰もが文化を共有できる包摂的な空間」などの表現は、館の方向性を象徴的に示すメッセージとなります。明確なポジショニングを持つことで、展示、教育、広報、資金調達など各部門の方針を統一でき、組織全体が同じ目的に向かって動くようになります。
また、ポジショニングは外部への発信だけでなく、内部の職員にとっても「自館の存在理由」を再確認する機会となります。自館が社会の中でどのような意味を持つのかを言語化することは、館のブランド形成や信頼性の向上にも直結します。
ステップ5:実行と評価 ― 戦略を運用し、成果を測定する
STP分析は、戦略を立てた段階で終わるものではありません。実行と評価を繰り返し、改善していくことが重要です。分析結果をもとに具体的な行動計画を立て、実施後は必ず成果を検証します。
たとえば、「来館者数」や「再訪率」といった定量的指標に加えて、「来館者満足度」「SNSでの反応」「寄付や会員の更新率」など定性的な評価も組み合わせます。こうした多面的な評価によって、戦略の効果をより正確に把握できます。
また、社会や地域の状況、来館者の価値観は常に変化しています。定期的にSTP分析を見直し、ターゲットやポジショニングをアップデートすることで、時代に合わせた柔軟な経営が可能になります。成果は報告書や年次レビューの形で記録し、外部への説明責任を果たすとともに、職員間で共有して次の改善につなげます。
このように、STP分析は「分析して終わり」ではなく、継続的な改善のサイクルとして活用することが鍵です。実行と評価を通して学びを積み重ねることが、博物館の経営をより持続的で開かれたものへと導きます。
STP分析を五つのステップに分けて進めることで、理論を現場の行動計画へと具体化できます。目的を定め、来館者を理解し、焦点を絞り、価値を明確に伝え、成果を検証するという一連の流れを実践することで、博物館は公共性と経営合理性を両立させる戦略的な組織へと成長していきます。
実例で見るSTP分析 ― 大英博物館「グレイソン・ペリー展」
STP分析は、博物館が来館者中心の戦略を設計するための枠組みとして有効ですが、実際にどのように活用できるのかを理解するには、具体的な展示事例を見ることが効果的です。本節では、大英博物館で2011年に開催された「グレイソン・ペリー展:The Tomb of the Unknown Craftsman(無名の職人の墓)」を取り上げます。この展覧会は、現代アーティストのグレイソン・ペリーがキュレーションを手がけ、大英博物館のコレクションと自身の作品を組み合わせて展示したものでした。ここでは、Segmentation(市場細分化)、Targeting(標的市場の選定)、Positioning(位置づけ)の三つの観点から、この展覧会を分析し、博物館におけるSTP活用の実際を考察します。
Segmentation:来館者層の多様性をどう捉えたか
大英博物館の展示は従来、学術的・教育的な文脈で評価されることが多く、来館者層も知識志向の高い層に偏っていました。しかし「グレイソン・ペリー展」では、より広範な文化的背景を持つ人々を取り込むことが意識されていました。ペリーは、陶芸や織物、彫刻など多様な素材を用いながら、社会階級やジェンダー、宗教、アイデンティティといったテーマを作品に込めることで、幅広い層の共感を呼び起こしました。
この展示におけるセグメンテーションの特徴は、来館者の文化的動機や価値観に基づいた細分化がなされた点にあります。大英博物館は、従来の学術的展示を好む層(知識探求型)に加え、現代アートに関心を持つ層(体験参加型)、さらに社会的テーマに共感する一般層(共感・社会参加型)を意識して構成しました。展示空間では、古代の工芸品と現代の陶芸作品が同列に置かれ、学術的・感性的な両側面から鑑賞できるように設計されています。この構成は、「美術」「考古」「社会」という異なる興味関心をもつ来館者に同時にアプローチするものであり、博物館展示の多層性を最大限に活かすものでした。
さらに、来館者が「無名の職人」に思いを寄せるよう促すメッセージが展示全体に散りばめられていました。SNSを通じて来館者が作品や感想を共有する仕組みも導入され、共感型の来館者層へのリーチが強化されました。ペリーが提示したのは、単なる芸術展示ではなく、過去と現在、個人と社会をつなぐ「文化的対話の場」でした。この多層的なセグメンテーション設計こそが、展示の成功を支えた基盤といえます。
Targeting:どの層を中心に据えたか
この展覧会が重視したのは、「文化的教養層」と「社会的多様性に関心を持つ層」という二つの主要ターゲットでした。前者は大英博物館の従来の来館者層であり、学術的な知識を求める人々です。後者は、ジェンダーやアイデンティティ、社会階級などの課題に感度の高い新規層であり、これまで博物館や美術館に距離を感じていた人々でした。大英博物館はこの二つの層を結びつけ、「異なる視点が交差する場」としての展示を実現しました。
ペリーの作品は、伝統的な陶芸技法とポップカルチャーを融合させており、教養層にも一般層にも訴求する力を持っていました。展示では、彼自身の作品が古代アートの文脈に並べられ、観覧者に「芸術とは何か」「誰が職人で、誰がアーティストなのか」という問いを投げかけました。これにより、知識探求型の来館者には新たな視点を、社会的関心層には共感と対話の機会を提供しました。
さらに、広報や教育普及の段階でもターゲティング戦略が徹底されていました。展覧会告知では、新聞・テレビ・オンラインメディアを通じて幅広い層にアプローチしつつ、特に若年層やLGBTQ+コミュニティに向けた包摂的なメッセージを打ち出しました。ペリー自身がトランスヴェスタイトとして社会的多様性を体現する存在であったことも、博物館の社会的メッセージと整合していました。
教育プログラムでは、学校や大学向けの特別見学会が実施され、学生に対して「過去の遺物を通して現代社会を考える」という新しい鑑賞経験を提供しました。こうしたターゲティングの明確さは、博物館が社会的包摂と教育的使命を両立させる好例となりました。
Positioning:博物館のブランド価値をどう高めたか
「グレイソン・ペリー展」は、大英博物館のブランド価値を再構築する契機となりました。これまで「知の殿堂」としての位置づけが強かった同館は、この展覧会を通じて、「過去の遺産を未来の社会課題に結びつける場」という新しい役割を提示しました。ペリーが自らの作品と館蔵品を同列に展示したことにより、学術的権威と現代的感性が融合し、「博物館=知識の保管庫」という固定観念を揺さぶりました。
展示の導入部では、「The Tomb of the Unknown Craftsman(無名の職人の墓)」というタイトル自体が象徴的に機能しました。名もなき職人たちの創造性を称えるというテーマは、来館者に「誰が歴史を作るのか」という問いを投げかけ、社会的共感を呼びました。展示空間には、ペリーのユーモアとアイロニーがちりばめられ、学術的展示に慣れた層にも新鮮な驚きを与えました。
この展示は、Positioningの観点から見ると、大英博物館が自らのブランドを「共感と対話の場」へと転換させた事例といえます。従来の「権威的知識の提示」から、「多様な視点を受け入れる開かれた文化の対話空間」への移行が明確に示されたのです。館としてのミッション「the museum of the world, for the world(世界のための世界の博物館)」が、単なる理念ではなく、展示そのものを通して具体化された瞬間でした。
STP分析から見た成功要因
この展覧会をSTP分析の三要素から整理すると、その成功の理由がより明確になります。まずSegmentationでは、来館者を「学術的関心層」「感性重視層」「社会的関心層」に分け、各層が異なる角度から展示を楽しめる構成を作り出しました。展示デザインとメッセージ設計の両方において、複数の来館者層が共存できる仕組みが意識されていました。
次にTargetingでは、従来の来館者層を維持しつつ、新しい来館者層を積極的に取り込む姿勢が見られました。特に、社会的少数派や若年層に向けたメッセージ発信は、博物館の包摂性を高める重要な要素となりました。ペリー自身の社会的立場を活用した発信は、文化施設におけるターゲティングの柔軟な在り方を示すものでもあります。
最後にPositioningの面では、大英博物館が「知識の殿堂」から「共感と創造のプラットフォーム」へと自らを位置づけ直した点が決定的でした。展示を通して、来館者が「文化財を受け取る存在」から「文化の意味を共に作る存在」へと変化する体験を設計したことが、ブランド価値を高める結果につながりました。
この展覧会は、STP分析を単なるマーケティング手法としてではなく、文化的コミュニケーション戦略として応用した代表的な事例といえます。分析・企画・演出・広報が一体的に機能したことで、来館者数や満足度の面でも高い成果を上げました。さらに重要なのは、この展示が「博物館が社会とどう関わるか」という問いを改めて浮かび上がらせたことです。STP分析は、単に市場を分けて戦略を立てる枠組みではなく、文化的多様性を理解し、社会に対して新しい価値を提示するための“思考装置”として活用できるのです。
まとめ
大英博物館の「グレイソン・ペリー展」は、STP分析を文化分野に応用した成功例として高く評価されています。Segmentationでは来館者の多様性を前提に展示を設計し、Targetingでは新しい層を意識しながら包摂的な戦略を展開し、Positioningでは博物館の社会的役割を再定義しました。この三つの要素が有機的に結びついたことで、展示は単なるアートイベントではなく、文化的・社会的対話の場として機能しました。
この事例は、STP分析が博物館においても有効であることを示すだけでなく、来館者中心の視点がどのように文化の創造に寄与するかを教えてくれます。博物館が社会の変化に応答しながら、知識と共感の橋渡しを行う存在であるために、STP分析は今後ますます重要な役割を果たしていくでしょう。
STP分析が示す博物館経営の未来 ― 来館者中心の文化づくりへ
STP分析がもたらした視点の転換
これまで見てきたように、STP分析は単なるマーケティング手法ではなく、博物館が社会との関係を再構築するための思考枠組みとして機能します。Segmentation、Targeting、Positioningという三つの視点を通じて、博物館は「どのような人々に、どんな価値を、どのように伝えるのか」という根本的な問いに向き合うことができます。展示や広報の方針を超えて、来館者の多様性を理解し、社会的文脈の中で文化的価値を再設計することが、STP分析の真の意義といえるでしょう。
理論から実践へ:STP分析の汎用性
STP分析は展示企画に限らず、教育普及や地域連携、広報戦略など、博物館運営のあらゆる領域に応用できます。たとえば、学校教育との連携プログラムを設計する際に、年齢層や学習目的ごとにセグメントを整理し、重点層を明確化することで、より効果的な教育的成果を上げることが可能になります。また、広報活動においても、来館者層に応じた発信内容やメディア選択を行うことで、メッセージの届き方を最適化できます。こうした応用は、STP分析が単なる分析手法ではなく、博物館全体のコミュニケーション設計に資する「文化戦略のフレームワーク」であることを示しています。
博物館経営におけるSTP分析の意義
STP分析の導入は、博物館の経営資源をどのように社会的に生かすかという課題にも直結します。限られた人員や予算の中で、どの層に力を注ぎ、どのような方法で関係を築くのか。その意思決定を支えるのが、STP分析の持つ構造的な視点です。特定の来館者層に焦点を当てつつも、排除を生まない包摂的な設計を行うことで、博物館の公共性はより強固になります。また、Positioningの考え方を経営理念に結びつけることで、他館との違いを際立たせるだけでなく、「地域社会における自館の役割」を明確化することができます。STP分析は、経営判断における羅針盤として、組織全体の方向性を統一する効果を持っています。
来館者と共に未来をつくる
最終的に、博物館にとってのSTP分析は「来館者を分類するための理論」ではなく、「来館者と共に社会を描くための思考法」として捉えることが重要です。現代社会では、博物館の役割が単なる展示や教育の提供にとどまらず、人々の対話と共感を生み出す場へと拡張しています。来館者を理解することは、彼らを「対象」として捉えることではなく、共に文化をつくる「パートナー」として迎え入れることを意味します。STP分析の枠組みを通じて、博物館は「伝える」から「共に考える」へと歩みを進めることができるのです。
社会の変化が加速するなかで、博物館の存在意義はますます問われています。だからこそ、来館者中心の経営理念を具体的に形にするための理論的支えとして、STP分析は今後も価値を持ち続けるでしょう。博物館が知識と共感の橋渡しを行う限り、この分析手法は文化の未来を切り開くための力強い指針であり続けます。
参考文献
- Kotler, N., Kotler, P., & Kotler, W. I. (2008). Museum marketing and strategy: Designing missions, building audiences, generating revenue and resources (2nd ed.). Jossey-Bass.
- CultureHive. (n.d.). Visual arts marketing case study: Grayson Perry at the British Museum. Retrieved from https://www.culturehive.co.uk/resources/visual-arts-marketing-case-study/