はじめに:利用者との関係を再構築する必要性
かつての博物館は、知識や文化財を一方向的に提示する場として位置づけられ、来館者は展示された情報を静かに受け取る存在とされていました。コミュニケーションの流れは、学芸員や専門家から一般来館者へと向けられるものであり、観客は受動的に知識を享受するだけの存在とみなされていたのです。しかし今日、博物館を取り巻く環境は大きく変化し、情報が氾濫する社会において、来館者自身が意味を構築する能動的な存在として捉えられるようになっています(Hooper-Greenhill, 2000)。
このような背景のもとで、博物館は「展示する」場から「対話する」場へと役割を広げつつあります。展示物やキャプションは、単なる知識の伝達手段ではなく、利用者の経験や背景に呼応しながら、新たな意味や問いを共に紡ぎ出す装置として機能することが期待されています。こうした変化は、教育普及活動だけでなく、広報(PR)やマーケティングの分野においても重要な示唆を与えています。
近年、PRやマーケティングは、もはや情報発信の補助的手段ではなく、博物館の理念や活動を社会と共有し、利用者との関係性を築くための中核的な戦略と捉えられるようになっています。特に多文化社会や社会的包摂が求められる現代においては、特定の文化的背景をもつ人々に対して、どのような語りかけを行うかが極めて重要です。たとえばエスニック・ミュージアムに関する研究では、文化的アイデンティティを意識した広報戦略が、来館者との信頼関係を形成するうえで効果的であることが示されています(Johnson & Sink, 2013)。
また、PRは単発的な広報活動ではなく、博物館と社会との長期的な関係構築を目指す営みです。来館者数の増加や支援者の確保といった目標を持続的に達成するには、単なる情報提供ではなく、双方向的な関係性の構築が必要です。こうした視点からは、博物館自身が来館者をどう捉えるか、どのような価値観で語りかけるかが問われます。PRの有効性は、来館者の関心の深さだけでなく、博物館側の市場志向的な姿勢、すなわち利用者を理解しようとする努力に大きく依存するとされています(Gürel & Kavak, 2010)。
本記事では、こうした視座に立って、博物館が多様な利用者といかに関係を築くか、そのためにPRやマーケティングがどのような役割を果たしうるかを考察していきます。利用者を「受け手」としてではなく、「対話の相手」として位置づけることで、博物館の社会的役割は再定義され、より豊かな関係性の可能性が拓かれていくのではないでしょうか。
PRとは何か ― ミュージアムにおける公共関係の再定義
広報(PR)という言葉は、しばしば「宣伝」や「告知」と同義に捉えられがちです。実際、博物館においても、イベントや展覧会の開催告知を担うものとして、広報が狭義に理解される場面は少なくありません。しかし、PRの本質は「情報を一方的に届けること」ではなく、組織とその多様な関係者とのあいだに、相互に信頼に基づく持続的な関係を築いていく戦略的な営みにあります。PRとは、公共との関係性を設計し、育てるための機能なのです。
このような視点からPRは、「組織とその成功・失敗に関わる多様な公衆との、相互に利益のある関係を築くマネジメント機能」であるとされています(Cutlip et al., 1985)。この定義において重要なのは、PRが単なる技術や手段ではなく、組織運営の一部として位置づけられている点です。つまり、PRは「何を発信するか」以上に、「誰と、どのような関係を構築するか」という問いに応えるための実践なのです。
しかし現実には、多くの博物館においてPRは依然として戦略的には扱われておらず、短期的な宣伝活動として捉えられる傾向があります。スペイン・カタルーニャ地方の公立博物館を対象とした調査では、広報活動が企画段階から経営戦略に組み込まれておらず、戦術的・断片的に運用されている状況が明らかになっています(Capriotti, 2013)。このことは、広報を「展示を伝えるツール」としてのみ位置づけてしまうことで、来館者との関係性が表層的なものに留まってしまうリスクを示唆しています。
では、PRの効果を高め、関係性を深化させるためには、何が必要なのでしょうか。博物館におけるPRの有効性は、「組織の市場志向」と「公衆の関心レベル」という二つの要因に左右されるとするモデルがあります(Gürel & Kavak, 2010)。このモデルによれば、来館者や地域社会がどの程度関心を持っているかを分析した上で、組織がそのニーズに応える姿勢を明確に示すことで、PRの実効性は大きく向上するとされています。公衆とは、必ずしも来館者に限定されるものではなく、支援者、メディア、地域住民、学校、研究機関など、多様な主体が含まれます。こうした「複数の公衆」に対して、それぞれに適したコミュニケーションを設計することが求められるのです。
このように捉え直されたPRは、「誰と、なぜ、つながるのか」という問いに正面から向き合う営みです。多文化的背景をもつ利用者との間に信頼関係を築くためには、広報が単なる情報発信にとどまらず、文化的対話の媒介として機能することが求められます(Johnson & Sink, 2013)。これは、単に来館を促すのではなく、「来てもらうべき理由を共に考える」関係の創出に他なりません。
さらに、PRを組織の中に制度的に定着させていくプロセス、すなわち「PRの制度化」も重要です。この視点に立てば、PRは特定部門の業務ではなく、組織全体の文化や価値観の反映として機能すべきであり、館長や学芸員を含む全職員が一体となって取り組むべき経営戦略の一部といえるでしょう(Kjeldsen, 2013)。
すなわち、博物館におけるPRとは、組織の姿勢そのものを社会に対して可視化する営みであり、公共との信頼関係を築くための「姿勢の表明」です。来館者や関係者と誠実に向き合い、共感と参加を育む場をつくること。それこそが、現代のミュージアムにおけるPRの役割であり、公共性を支える広報の再定義にほかなりません。
マーケティングと博物館 ― 利用者志向は「収益化」だけではない
博物館におけるマーケティングという言葉には、今なおどこか警戒的な響きが伴います。とりわけ非営利性や公共性を重視する文化施設においては、「マーケティング=商業主義」といったイメージが根強く、文化的価値を市場的論理で測ることへの抵抗感が存在してきました。このような背景には、文化と経済を二項対立的に捉える見方が影響していますが、現在ではその認識にも変化が生まれています。マーケティングはもはや「売上を上げるための手段」ではなく、「誰のために、どのような価値を届けるか」を再考するための思考枠組みとして再評価されているのです(Rentschler, 2004)。
マーケティングの第一歩は、利用者を「知る」ことにあります。近年の博物館では、来館者のニーズや行動パターン、関心の所在を把握するための調査や分析が進められています。これにより、来館者を一様な「大衆」としてではなく、価値観や関心に応じて異なる「セグメント」として捉える視点が導入されてきました。たとえば、自然史博物館の事例では、SNS上での反応を分析することで、若年層や観光客、地域住民といった異なるグループに対して、発信内容を最適化する施策が展開されています(Lazzeretti, Sartori & Innocenti, 2015)。
このように、STP(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)の考え方は、営利企業だけでなく、文化施設においても有効です。重要なのは、マーケティングを「客を集めるための手段」としてではなく、「その博物館に来る理由を明確にする過程」として捉えることです。たとえば鉱山博物館の実践では、地域観光との連動や学校との連携を通じて、「誰にとって、どんな体験を提供するのか」が再定義され、来館者数の回復と館の活性化につながりました(Cole, 2008)。
加えて、マーケティングは単なる情報伝達にとどまらず、博物館の価値や理念を「どのように伝えるか」というコミュニケーション戦略とも深く関係しています。利用者が期待する体験価値(experience value)をいかに設計し、それをどのように認識・共有してもらうかという問いは、展示や教育普及活動、施設全体のサービスデザインにまで波及します。このような体験価値を軸にしたアプローチにより、利用者との間に感情的なつながりや共感が生まれ、それが再来館や支援へと結びつくのです(Gilmore & Rentschler, 2002)。
一方で、こうした利用者志向のマーケティングが十分に実践されていない事例もあります。来館者のニーズと博物館からのメッセージがすれ違ってしまう背景には、マーケティングを戦略として十分に活用できていない体制の問題があります。実際、カタルーニャ地方の複数館では、マーケティング活動が計画的に運用されておらず、来館者との間に認識のギャップが生じていると報告されています(Capriotti, 2013)。
マーケティングとは、本来「売ること」ではなく、「届けること」、あるいは「つながること」を意味します。博物館が公共施設として多様な人々に価値を届けようとするならば、利用者の視点を内在化したマーケティング戦略は不可欠です。収益性を目的とするのではなく、関係性を深める手段としてのマーケティングこそが、現代の博物館経営に求められている視点なのです。
戦略としてのマーケティング ― 事例から学ぶ活用の可能性
博物館におけるマーケティングは、しばしば「広報活動」や「集客のための手段」として理解されがちです。しかし、本来的にはそれ以上の意味を持ちます。マーケティングとは、博物館という組織が、社会の中で果たそうとする使命や理念と、それを受け取る利用者の関心や期待とをつなぐ、架け橋のような存在です。つまり、どのような価値を誰に、どのように届けるかを長期的な視点で考え、計画的に実行していく「戦略的思考」として位置づけることが重要なのです(Gilmore & Rentschler, 2002)。
このような戦略的視点を取り入れている事例の一つが、イタリア・フィレンツェにある自然史博物館です。この博物館では、TwitterやFacebookといったSNS上での反応を継続的に分析し、それぞれのプラットフォームに最適な内容を選び、発信しています。単に「情報を流す」だけでなく、どのような言葉や画像が特定の利用者層に響くかを把握したうえで、内容を調整しているのです。特に、若年層や外国人観光客など、従来の来館者層とは異なるターゲットに向けて、戦略的なコミュニケーションが展開されています。また、SNSを通じて地域コミュニティとの対話を深めようとする姿勢も見られ、双方向的な関係性の構築を目指している点に、この取り組みの先進性が表れています(Lazzeretti, Sartori & Innocenti, 2015)。
一方、カナダの鉱山博物館では、マーケティングが地域社会との関係性を強化する中核的な役割を担っています。この館では、来館者数の減少という課題に直面した際、まず地域の観光資源や住民とのつながりに目を向けました。その結果、観光事業者と連携した特別プログラムや、地元の学校と協力した学習プランを導入することで、新たな来館者層の獲得に成功しています。ここで注目すべきは、地域の価値を自館の展示や体験と結びつけ、マーケティングを通じて「地域にとっての博物館の意味」を再構築した点にあります(Cole, 2008)。この事例は、館単体での発信に限らず、地域社会とともに戦略を描く重要性を示していると言えるでしょう。
ただし、すべての博物館がこうした視点を持っているわけではありません。たとえば、スペイン・カタルーニャ地方にある複数の公立博物館では、マーケティングが組織的に戦略として位置づけられておらず、実施される広報活動も断片的で一貫性を欠いていると指摘されています。こうした場合、たとえ質の高い展示や教育活動を行っていたとしても、その魅力が利用者に伝わらず、館の存在意義や価値が十分に認識されないまま終わってしまうおそれがあります。来館者のニーズと博物館からのメッセージがすれ違ってしまう背景には、マーケティングを戦略的に活用できていない体制の問題が横たわっています。実際、こうした状況では、利用者との間に認識のギャップが生じ、関係性が築かれにくくなるというリスクが高まるのです(Capriotti, 2013)。
これらの事例から学べるのは、戦略としてのマーケティングは「発信」だけではなく、「受信」と「対話」の仕組みでもあるということです。来館者に何を伝えるかと同時に、彼らが何を感じ、何を求めているのかを理解し、その声に応えていくことが不可欠です。そのためには、単発のキャンペーンではなく、「計画 → 実行 → 評価 → 改善」というサイクルを持った持続的なマーケティングの仕組みを構築する必要があります。そして何よりも重要なのは、マーケティングの活動が博物館のミッションと整合的であり、単なる集客手段にとどまらず、公共性と利用者志向の両立を実現する「関係構築の技法」として活かされていることです。
戦略的なマーケティングの導入は、一朝一夕に実現するものではありません。しかし、それは確実に、博物館が社会との関係性を再構築し、持続可能な文化拠点として成長していくための強力な手段となるのです。
まとめ:マーケティングは「収益のため」ではなく「関係のため」に
博物館におけるマーケティングという言葉には、いまだに商業主義や営利的なイメージがつきまとっています。文化や公共性を重視する施設であるからこそ、「マーケティング」という営みが持つ本質的な意味が見過ごされがちです。しかし、これまで見てきたように、現代のマーケティングは「モノを売るため」の手段ではなく、「人とつながるため」の技法として位置づけられるべきものです。利用者との関係性を築き、継続的な対話を可能にする視点として、マーケティングは博物館の経営に不可欠な役割を果たしています。
本稿ではまず、広報(PR)とマーケティングの基本的な考え方を整理したうえで、それぞれがいかに利用者とのつながりを支える機能を持つかを明らかにしてきました。単に展示やイベントの情報を発信するのではなく、「誰に向けて、どのような価値を伝えるのか」を意識し、来館者を一様な「大衆」としてではなく、多様な価値観や背景を持つ個々の存在として理解することの重要性を確認しました。特に、SNSの活用や地域社会との連携など、戦略的な取り組みの実例からは、利用者の声に耳を傾け、丁寧に応答しながら関係を深めていく姿勢が成果を生んでいることが見て取れました。
こうした視点は、博物館の「公共性」のあり方にも新たな光を当てます。従来、公共性は「誰もが利用できること」や「平等なアクセスの確保」といった形式的な定義にとどまりがちでした。しかし、今日における公共性とは、それだけでは不十分です。多様な人々が「関わり続けたい」と思える存在であること、つまり来館者にとっての意味あるつながりが維持されることこそが、公共文化施設としての本質なのです。マーケティングは、そのつながりを実現するための「聴く力」と「届ける力」、そして「共に考える力」を育てる営みであり、組織と社会との関係性を結び直すための基盤でもあります。
加えて、マーケティングは博物館の経営全体を関係志向に変える可能性を秘めています。経営とは、資金や人員を管理するだけでなく、「人との関係をどう築くか」を問い続ける行為にほかなりません。利用者、地域社会、支援者、行政など、多様なステークホルダーとの関係を意識し、信頼と共感に基づいた経営を行うこと。それが、今日の博物館に求められる経営スタイルです。そしてマーケティングは、こうした関係性重視の経営を後押しする「戦略」であり、「哲学」でもあります。
結局のところ、マーケティングは「収益を上げるため」にあるのではなく、「関係を築くため」にあるのです。来館者を一時的な「集客対象」ではなく、継続的な「共創のパートナー」として迎え入れること。それこそが、持続可能で信頼される博物館をつくる第一歩であり、これからのマーケティングの中心的な使命と言えるでしょう。
参考文献
- Capriotti, P. (2013). Museum communication in Catalonia: An analysis of institutional discourse. Museum Management and Curatorship, 28(1), 29–42.
- Cole, D. R. (2008). Museum marketing and the creation of value: The role of the visitor experience in the 21st century. International Journal of Arts Management, 11(1), 45–54.
- Gilmore, A., & Rentschler, R. (2002). Changes in museum management: A custodial or marketing emphasis? Journal of Management Development, 21(10), 745–760.
- Gürel, E., & Kavak, B. (2010). Public relations effectiveness in public museums: A study on Turkish museums. Marketing Intelligence & Planning, 28(1), 62–79.
- Lazzeretti, L., Sartori, A., & Innocenti, N. (2015). Museums and social media: The case of the Museum of Natural History of Florence. International Review on Public and Nonprofit Marketing, 12(3), 267–283.
- McLean, F. (1995). Marketing in museums: A contextual analysis. Museum Management and Curatorship, 14(1), 43–60.
- Rentschler, R. (2004). Museum and performing arts marketing: The age of discovery. In R. Rentschler & A.-M. Hede (Eds.), Museum marketing: Competing in the global marketplace (pp. 3–13). Elsevier.
- Cutlip, S. M., Center, A. H., & Broom, G. M. (1985). Effective public relations (6th ed.). Prentice-Hall.
- Johnson, M. A., & Sink, H. (2013). Strategic public relations for museums: Engaging diverse audiences. In R. Sandell & R. R. Janes (Eds.), Museum management and marketing (pp. 197–208). Routledge.
- Kjeldsen, J. E. (2013). Strategic communication and museum institutions: How museums communicate to construct and negotiate identity. International Journal of Strategic Communication, 7(4), 267–283.
- Hooper-Greenhill, E. (2000). Museums and the interpretation of visual culture. Routledge.