博物館で息をのむ瞬間を科学する
展示室に一歩足を踏み入れると、空気が静かに変わる瞬間があります。照明に浮かび上がる一点の絵画、千年の時を超えて佇む仏像、あるいは科学館で出会う巨大な恐竜の骨格。その前に立った人々が言葉を失い、ただ見つめる姿を、誰もが一度は目にしたことがあるでしょう。そのとき私たちは、単に「美しい」と感じているのではありません。自分の理解を超えた何かと出会い、世界の広がりを直感的に感じ取っているのです。博物館は、このような「息をのむ」瞬間を生み出す特別な場所です。
この感情には、心理学的な名前があります。それが「畏敬(awe)」です。aweとは、圧倒的なスケールや崇高さを前にしたときに生じる複雑な感情であり、驚きや恐れ、そして深い感動が同時に交錯します。日本語の「畏敬」には「恐れながら敬う」という意味が含まれますが、現代心理学ではより広く、「自分を超えた存在に出会うときに感じる自己超越的な感情」として定義されています(Keltner & Haidt, 2003)。人がこの感情を抱くのは、自然の大景観を目の当たりにしたときや、壮大な音楽、圧倒的な芸術作品に触れたときなどですが、博物館という空間はそれらすべてを内包し、文化と知のスケールでaweを喚起する装置でもあるのです(Keltner & Haidt, 2003)。
畏敬の感情は、驚き(surprise)や感動(admiration)と混同されがちですが、決定的に異なる特徴をもちます。それは「自分の理解の枠を超える体験によって、認知の再構成(accommodation)が起きる」点です。人は、説明のつかないほど大きなものや、美しすぎるもの、あるいは自分の存在を相対化させるような対象に出会うと、心の中で「世界の見え方」を一時的に更新します。この瞬間に、aweが生じます(Keltner & Haidt, 2003)。つまり、aweとは単なる感情ではなく、人間が世界を再理解しようとする知的・感情的プロセスなのです。
では、なぜ博物館ではaweが頻繁に起きるのでしょうか。その理由は、博物館が「知識と感情が交差する空間」だからです。展示室は、建築のスケールや静寂のリズム、光と影の演出によって、訪れる人の感覚を日常から切り離します。そして、そこに置かれた展示物は、時代や文化、生命や宇宙など、人間の理解を超えるスケールを提示します。来館者は、展示を通して「自分がいかに小さな存在であるか」と同時に、「世界とつながっている感覚」を体験するのです。この構造こそが、博物館を「畏敬の感情が生まれやすい場所」にしているといえます。
近年、このaweをめぐる感情体験を学術的に分析する研究が注目を集めています。代表的なものが、ジェシカ・ルークによる研究と、アーロン・プライスらによる研究です。ルークの研究は、美術館での来館者インタビューを通じて、awe体験が「知識の獲得」ではなく「自己の変容」を導く感情であることを明らかにしました(Luke, 2021)。一方、プライスらの研究は、科学館と美術館の来館者を対象に、aweが「学びの定着」や「記憶保持」と深く関係していることを定量的に示しています(Price et al., 2021)。両研究は、aweが単なる感動ではなく、「人が学び、世界とつながる」根源的な感情であることを示唆しているのです(Luke, 2021; Price et al., 2021)。
本記事では、これらの研究成果をもとに、博物館でaweがどのように生まれ、人にどんな心理的・社会的変化をもたらすのかを探ります。そして、aweの存在を手がかりに、博物館という場の本質的な価値――「知識を伝える場」から「人を変える場」への進化――を考えていきます(Luke, 2021; Price et al., 2021)。
畏敬とは何か ― 感動を超える感情
人はときに、言葉を失うほどの体験に出会います。壮大な自然を前にしたとき、圧倒的な芸術作品を目にしたとき、あるいは人間の知の深さを感じる展示の前に立ったとき、私たちは「何か大きなものに包まれている」という感覚を覚えます。このとき生まれる感情こそが「畏敬(awe)」です。心理学においてaweは、単なる感動や驚きとは異なる、より複雑で深い感情として位置づけられています。それは、自分を超えた存在と向き合うことで、世界と自分との関係を再定義する経験でもあります。
aweという概念を初めて体系的に整理したのは、心理学者のKeltnerとHaidt(2003)です。彼らはaweを「人が広大な何かを知覚し、それを理解するために認知の再構成を迫られるときに生じる感情」と定義しました。この感情には二つの要素があります。第一は、空間・時間・社会的なスケールの「広大さ(vastness)」を感じ取ること。第二は、その経験が既存の理解枠を超えるため、頭の中で新たな解釈を生み出そうとする「再構成の必要性(accommodation)」です。つまり、人が自分の認識の限界を超える体験に出会い、それに心が応答する瞬間――そのときに生まれるのがaweなのです(Keltner & Haidt, 2003)。
この二重構造をもつ感情は、自然、芸術、科学、宗教など、多様な領域で生じます。たとえば、山岳や星空のような圧倒的自然のスケール、ルネサンス絵画の細密な構造、人類の進化や宇宙の起源を語る展示。いずれも人の理解を超えるスケールを提示し、認知の再編を促します。aweは、単なる感情的反応ではなく、「知る」ことと「感じる」ことが交わる知的感情であり、人間の思考を拡張する契機になるのです。
しばしばaweは「驚き」や「感動」と同義に語られますが、心理的には明確に異なります。驚き(surprise)は予期せぬ刺激に対する一時的反応で、時間が経つと消えていきます。感動(admiration)は理解できる価値や美しさへの称賛として生じる、ポジティブで安定した感情です。これに対し、畏敬(awe)は「理解できないほどの広がり」や「説明を超えた美しさ」に直面したときに起こる深い省察の感情です。人はaweを感じると、自分の小ささを自覚しながらも、同時に世界との一体感を覚えます。つまりaweは、自己を超えて世界とつながる感情なのです。
| 感情 | 生起条件 | 主観的体験 | 心理的結果 |
|---|---|---|---|
| 驚き(Surprise) | 予期しない刺激 | 一瞬の反応・注意喚起 | 理解の再構成なし |
| 感動(Admiration) | 理解できる価値への共感 | 尊敬・感謝・喜び | 自己効力感の上昇 |
| 畏敬(Awe) | 理解を超える広大さ・複雑さ | 自己の縮小と世界との一体感 | 認知の拡張・意味の再構築 |
研究では、この感情が人間に多面的な影響を与えることが示されています。Ruddら(2012)は、aweが「時間の拡張感」をもたらし、人が現在の瞬間に深く満たされることを明らかにしました。Piffら(2015)は、aweが「自己縮小(diminished self)」を促し、他者への共感や利他的行動を強化することを報告しています。さらにStellarら(2018)は、aweを感じる人ほど謙虚さが高く、他者を尊重する傾向が強いと述べています。またShiotaら(2017)は、aweが創造性を高めることを示しており、未知に向かう好奇心を喚起する感情であるとしています。これらの研究を総合すると、aweは幸福感、共感、倫理性、創造性など、人間の内的成長を促す感情であるといえます。
aweはまた、文化的文脈によっても意味づけが異なります。西洋では「崇高(the sublime)」という概念に近く、神の偉大さや自然の力に対する畏怖と尊敬を含みます。カントやバークが論じたように、恐れと美が共存する瞬間に人は崇高さを感じます。一方、東アジアでは、自然や他者との調和、無常や静寂の中にある深い意味を見出す傾向があります。たとえば日本の「侘び寂び」や「もののあわれ」は、畏れと敬いが同居する感情であり、aweの文化的変奏形といえるでしょう。したがって、aweは単なる「恐れと敬い」ではなく、「自分と世界の関係を静かに再確認する感情」とも理解できます。
こうした観点から見ると、博物館はaweを感じるための理想的な環境です。そこには時間的な広がり(古代から現代までの展示)、空間的なスケール(建築・展示構成)、社会的スケール(人類の知の積層)が同時に存在します。来館者は展示物を通じて、過去の人々とつながり、人類全体の歩みを俯瞰することで、自分という存在を相対化します。博物館の静寂や光の演出は、思索を促す心理的余白を生み出し、awe体験をより深く導く装置として働いているのです。
畏敬とは、単なる感情ではなく、人が世界を新たに理解し直すための「知的な感情体験」です。それは、自分を小さく感じながらも、同時に世界の大きさの中で自分の位置を見出す感情です。感動よりも深く、驚きよりも持続的で、人が学び、創造し、共感する力の根源にあります。次節では、このaweがなぜ博物館という空間で特に強く生じるのか、その構造を具体的に見ていきます。
博物館が畏敬を生みやすい理由 ― 空間・展示・社会的文脈から考える
博物館を訪れたとき、人はしばしば静かに立ち止まり、展示物の前で息をのむような感覚を覚えます。その瞬間には、知識の獲得や好奇心の充足を超えた、何か大きな力に包まれるような感情が生じます。この感情は、単なる感動や驚きではなく、自分の理解を超えたものと向き合うときに起こる「畏敬(awe)」です。前節で述べたように、aweは「広大さ(vastness)」と「認知の再構成(accommodation)」という二つの要素をもつ複合的な感情です。博物館という空間は、まさにその両要素を同時に体験できる場所であり、人が世界を新たに理解する契機を生み出す場でもあります。
非日常空間としての博物館
まず、博物館は日常から切り離された「特別な空間」として設計されています。建築的なスケール、照明、静寂、素材、音響などの要素が組み合わさり、来館者の感覚を現実のリズムから解放します。高い天井や広い展示ホールは、人の身体スケールを超える「空間的広大さ(spatial vastness)」を生み出し、aweの第一要素を喚起します。建築家ル・コルビュジエが設計した国立西洋美術館や、安藤忠雄による光の教会、直島の地中美術館などは、光と影の対比を通じて、訪れる人に「空間と時間の超越」を体感させます。こうした設計意図は、単なる美的演出ではなく、人が世界を“感じて理解する”ための心理的環境をつくり出しているのです(Luke, 2021)。
また、博物館の静けさや空気の密度には、社会的文脈を超えた「集中と沈黙の文化」があります。展示室での静寂は、来館者に“内省の時間”を与え、感情的な受容を可能にします。日常の雑踏から切り離されたこの体験環境が、感情の受け皿としてaweを成立させているといえます。
展示がもたらすスケール感と時間の深さ
博物館がaweを生み出すもう一つの要因は、「展示」という装置そのものにあります。展示物は物理的な大きさだけでなく、時間的・概念的スケールを提示します。たとえば、恐竜の骨格標本は1億年以上の時間を具現化し、古代文明の出土品は人類史の厚みを可視化します。これらは人間の理解を超える広がりをもつ対象であり、観る者に自己の小ささと世界の大きさを同時に感じさせます。
科学館や自然史博物館では、宇宙の進化や生命の誕生といったテーマが、視覚的かつ体験的に表現されます。これらの展示は「知識の提示」にとどまらず、「理解の限界への挑戦」を促す点で、aweの第二要素である「認知の再構成」を引き起こします(Price et al., 2021)。美術館では、作品の細部や保存技術が、人間の創造力の広大さを実感させる。こうした展示のスケール感は、aweを「学びの始まり」として位置づける上で欠かせないものです。
知識よりも感情を媒介する学び
aweのもう一つの重要な側面は、「知識の伝達」ではなく「感情を通じた理解」を導く点にあります。従来の博物館教育は、展示を通して知識を体系的に伝えることを目的としてきました。しかし、来館者研究の蓄積により、知識の獲得よりも「感情的体験」が記憶や学びに深く関わることが明らかになりつつあります。Luke(2021)は、美術館の来館者が「作品を理解した」と語るよりも、「自分が変わった」と語ることが多いと指摘しました。この“自己変容”の感覚こそが、aweによって引き出される内的学びです。
aweは、人に「知る喜び」ではなく「存在の意味」を感じさせる感情です。展示の前で立ち尽くすとき、私たちは知識を越えた体験――“理解不能な美”や“説明できない感動”――に触れています。博物館教育においては、こうした感情を媒介にした「意味づけの学習」が注目されています。aweが生まれることで、展示は単なる情報の集合から、「人生や社会を理解する装置」へと変化するのです。
他者と共有する畏敬 ― 社会的感情としてのawe
aweは個人的な体験であると同時に、社会的にも共有される感情です。人は誰かと同じ展示を見て「すごいね」と共感を交わすとき、その感情はより強化されます。Priceら(2021)の研究では、aweを感じた来館者は、展示内容を他者と語り合う傾向が強く、体験の記憶定着にも寄与することが示されました。博物館のaweは「一人で感じる驚き」ではなく、「他者と共に感じる共鳴」です。展示室という共有空間は、aweを“社会的感情”へと拡張し、来館者同士のつながりを生み出します。
また、aweの共有は「文化的学び」の側面も持ちます。他者の視点を通して同じ展示を見直すことで、人は自らの理解を再構成します。これは、aweが個人の内面変化だけでなく、社会的関係の再構築を促す感情であることを示しています。博物館におけるaweは、知識の共同生成やコミュニティ形成を支える心理的基盤にもなりうるのです。
文化的文脈におけるaweと公共性
博物館がaweを生み出すもう一つの要素は、その「公共性」にあります。博物館は、文化財や自然史を社会的に共有するための空間であり、aweはその共有を支える倫理的感情でもあります。aweを感じるとき、人は自分の存在を超えた「人類の歩み」や「自然への敬意」に触れます。その感情は、文化遺産の保全や他者への尊重といった公共的価値を再確認させます(Keltner & Haidt, 2003)。
この意味で、aweは博物館の社会的使命と深く関係しています。展示を通じて感じる畏敬の念は、来館者に「守るべきもの」「つなぐべき価値」を意識させる。aweは、美や知の鑑賞を超えて、文化の持続可能性を支える感情的エネルギーとして機能しているのです。
博物館は、単なる学術施設ではなく、感情を媒介に社会的倫理を再生する場でもあります。畏敬の感情を通じて人々が文化や自然と再びつながるとき、博物館は「知の保存庫」から「感情の公共空間」へと変わります。
博物館がaweを生みやすい理由は、建築的スケール、展示の時空的広がり、そして他者との共有という多層的な条件が重なっているからです。aweは、知識の理解を超えて、世界と自分の関係を再構成する感情です。博物館はその感情を生むための社会的装置として機能し、人が自己を超えて他者・文化・自然とつながる瞬間をつくり出しています。次節では、このaweが人間の心理や社会的行動にどのような具体的効果をもたらすのかを検討します。
畏敬がもたらす心理的・社会的効果 ― 学び・幸福感・利他性の広がり
人が博物館で畏敬(awe)を感じるとき、その感情は一瞬の驚きにとどまらず、心や行動に深く影響を及ぼします。aweは、個人の認知を変化させると同時に、他者との関係や社会的行動にも波及する力をもっています。ここでは、aweがもたらす心理的・社会的効果を、学び・幸福感・利他性の観点から整理し、博物館という場でその意義を考えていきます。
aweがもたらす内的変化
aweを感じると、人は自分自身を相対化し、世界を新たな視点で捉えようとします。awe体験は「自己縮小(diminished self)」をもたらし、謙虚さや他者への寛容性を高めるとされています(Stellar et al., 2018)。これは、自分を中心に世界を考える視点から一歩離れ、「自分はより大きな世界の一部である」と実感する心理的変化です。このプロセスは、博物館での体験にも深く関係しています。壮大な歴史的遺物や宇宙的スケールの展示を前にしたとき、来館者は自らの存在の小ささと同時に「世界の大きさ」に気づきます。aweは、こうした“自己の再定義”を促し、人間が持つ知的・感情的成長の土台となります。
この「自己縮小」の感覚は、自己否定的なものではなく、むしろ「他者とつながる感覚」を強めます。自分の視点が相対化されることで、他者や社会、自然との関係が再び意識されます。その意味で、aweは「他者と共にある自己」を生み出す感情であり、個人主義的な思考から共同性への回帰を促す契機となります(Stellar et al., 2018)。
学びを深める感情としてのawe
aweは、学びを促進する感情としても注目されています。aweを感じた人は、展示内容への関心や集中力が高まり、記憶保持が強化される傾向があります(Price et al., 2021)。awe体験は、知的好奇心を喚起し、「もっと知りたい」という内発的動機づけを生みます。これは、教育心理学でいう「感情による認知促進効果(affective facilitation)」に近い現象であり、学びの入口として重要な役割を果たしています。
aweはまた、「知識の獲得」よりも「意味の理解」を促します。展示物の背景にある歴史や人間の営みを通じて、来館者は「自分と世界の関係」を再構築します。博物館は、aweを媒介として、知識を“感じ取る理解”へと変換する学習環境を提供しています。学びが単なる情報処理ではなく、感情的理解を伴う「内的変化」として体験されるとき、人はより深く展示内容に関与します(Price et al., 2021)。
aweの心理的・社会的効果一覧
畏敬(awe)がもたらす主なメリットと博物館における意義
| 効果の領域 | 主な心理的変化・行動 | 代表的研究 | 博物館における意義 |
|---|---|---|---|
| 批判的思考の向上 | 自己中心的視点の相対化、知的柔軟性の増加 | Griskevicius et al. (2010) | 展示内容を多角的に解釈し、価値判断を深めます。 |
| 幸福感・充実感の向上 | 時間的拡張感、感謝や満足感の増加 | Rudd et al. (2012); Anderson et al. (2018) | 来館体験が「心の回復」として機能し、再来館意欲を高めます。 |
| 他者とのつながりの強化 | 共感・共有・協調行動の増加 | Krause & Hayward (2015) | 文化的共感を通じて来館者間の関係を深めます。 |
| 利他的行動の促進 | 思いやり・援助・社会的貢献意識の高まり | Piff et al. (2015) | 展示を通じて社会的責任や倫理意識を育みます。 |
| 学びの深化 | 内発的動機づけ、記憶保持、意味理解の向上 | Price et al. (2021) | 知識と感情を結びつけた「体験的学習」を実現します。 |
| 文化的・倫理的自覚 | 自分を超えた価値や歴史への敬意 | Luke (2021) | 文化遺産を「守る・つなぐ」意識を喚起します。 |
幸福感とウェルビーイングの向上
aweを体験することは、幸福感や人生の満足度を高めることにもつながります。aweを感じた人は、時間の流れをゆっくりと感じ、現在の瞬間をより豊かに味わう傾向があります(Rudd et al., 2012)。この「時間的拡張感(expanded sense of time)」は、心の余裕を生み、ストレスを緩和させます。また、awe体験は自己中心的な関心を減少させ、世界への感謝や充足感を高めます(Anderson et al., 2018)。
博物館は、こうした心理的変化を促す空間的・感覚的条件を備えています。静けさ、光の演出、展示のリズムは、人に落ち着きと内省をもたらします。aweを感じた来館者は、自分の人生をより広い文脈の中で捉え直し、「今ここ」に存在する価値を実感します。博物館体験が心の回復や再生に寄与する背景には、このaweによるウェルビーイング効果が存在します(Rudd et al., 2012; Anderson et al., 2018)。
利他性と社会的つながり
aweを感じた人は、他者に対して思いやりを持ち、協力的な行動をとりやすくなります(Piff et al., 2015)。この効果は、aweが「自己の縮小」をもたらすことに起因します。自分が世界の中心ではないと感じるとき、人は他者との共通性をより強く認識し、協調や共感の意識が高まります。
また、awe体験は、社会的ネットワークや共同体意識の形成にも関係しています。宗教的儀式や芸術鑑賞の場でaweを共有することは、人々をつなげ、共通の価値意識を強化します(Krause & Hayward, 2015)。博物館もまた、文化的・社会的aweを共有する場として機能します。展示を通して感じる畏敬の念は、来館者に「人類の歩み」や「自然の循環」といった共通の経験を想起させ、社会的連帯の感情を生み出します。aweは、個人の感情を社会的共感へと転化する媒介であり、博物館はその感情を社会に循環させる公共空間として位置づけられます(Piff et al., 2015; Krause & Hayward, 2015)。
aweの持続効果と文化的記憶
aweの影響は短期的ではなく、長期的な記憶や行動にも及びます。awe体験をした人は、その瞬間の印象を鮮明に覚え、後になってもその体験を意味づける傾向があります(Luke, 2021)。展示を見た後の余韻や、他者との会話、写真の共有などは、aweを再生し、文化的記憶として社会に残ります。博物館における体験は、aweを中心に人々の中で再構築され、やがて「訪れるべき場所」として語り継がれていきます。
aweは、学びを促し、幸福を高め、利他性を育む感情です。博物館でのawe体験は、個人の内的成長と社会的つながりを同時に支え、人々が世界の中での自分の位置を再発見する契機となります。aweは、知識の伝達を超えた「感情の教育」であり、博物館が担う社会的価値の核心に位置します。
感情デザインと博物館経営 ― 畏敬を活かした体験価値の創出
近年、博物館経営において「感情」を中心に据えた設計思想が注目されています。来館者が感じる驚き、感動、畏敬といった感情は、単なる副次的な体験ではなく、学びや社会的つながり、さらには文化的価値の形成に深く関わっています。こうした感情を意図的に設計し、経営戦略の一部として活用する考え方が「感情デザイン(emotional design)」です。特に、awe(畏敬)は人の価値観や行動に変化をもたらす感情として位置づけられ、博物館が社会に提供する「体験価値」を高める鍵となっています。本節では、感情デザインの概念とともに、aweを中心とした体験設計とその経営的活用について考察します。
感情デザインとは何か
感情デザインは、デザイン心理学者によって提唱された概念で、人間がある対象を「どのように感じるか」に焦点を当てるアプローチです。従来のデザインが機能性や操作性を重視していたのに対し、感情デザインは「体験全体が生み出す感情の質」を重視します。博物館においても、展示物や建築の美しさだけでなく、来館者が感じる驚きや畏敬といった感情を意図的にデザインする試みが進められています。特にaweは、知的好奇心を喚起し、自己の位置づけを見直させる感情であり、「学び」「幸福」「社会的共感」という多層的な価値をもたらします(Price et al., 2021; Luke, 2021)。博物館がこの感情を「戦略的に設計する場」へと進化することは、知識の提供にとどまらない新しい文化体験の創出につながります。
aweを活かした展示設計
aweを引き出す展示デザインの鍵は、空間・光・音・動線・物語といった複数の要素を統合的に設計することにあります。高い天井や暗転した展示室はスケール感と静寂を強調し、来館者に「自分を包み込む空間」としての広大さを感じさせます。また、展示のストーリーテリングも重要な要素です。人類史の流れを時間軸でたどる展示や、作品の制作背景をナラティブに提示する構成は、理解を超えた「感情的共感」を呼び起こします。光と影を用いた空間設計や、壮大なアトリウムを中心にした建築デザインは、aweを建築的に体現している事例といえます。さらに、展示の順路や演出のテンポを通じて「感情のリズム」を作ることも効果的です。静かな導入からクライマックスに向かう構成や、余韻を残す開放的な空間は、aweを「偶然」ではなく「意図的に設計された体験」として成立させます(Norman, 2004; Price et al., 2021)。
来館者体験の設計
aweは展示そのものだけでなく、来館者が博物館に足を踏み入れてから退館するまでの「体験全体」によって形成されます。来館者体験は一般に「導入―体験―共有―記憶」という段階で構成されます。来館前の情報発信で期待感を形成し、入館時の空間演出でその期待を現実へと変換します。展示体験中には感情が高まり、観覧後に他者と語り合う・SNSで共有する行為によって意味づけが深まります。これらのプロセスはaweの再体験を促し、記憶定着と再来館意欲の向上に寄与します(Rudd et al., 2012; Price et al., 2021)。体験の「余韻」を含めてデザインすることが、来館者満足度と継続的な関係構築を支えるのです。
経営戦略としてのawe
aweは、博物館のブランド価値を高める「感情的資本」として捉えることができます。来館者が感じた畏敬や感動は、組織への信頼・好感・支持へと変化し、寄付や会員参加の動機づけになります(Piff et al., 2015)。さらに、従来の顧客満足度に加えて「感情的共鳴度」を評価指標として取り入れることで、体験価値をマーケティングに統合できます。共鳴度は、展示や組織にどれだけ感情的に共感し、再び関わりたいと思うかを測る尺度であり、aweをブランドエクスペリエンスとして設計・評価する実践につながります(Anderson et al., 2018)。
感情の可視化と評価手法
aweを経営資源として活用するためには、その効果を可視化し、データとして分析することが求められます。心理学領域では、尺度法や言語分析、生理指標(心拍・表情解析など)によってaweを定量・定性の両面から測定する試みが進んでいます(Keltner & Haidt, 2003; Price et al., 2021)。これらの指標を展示評価に組み込むことで、感情的効果を定期的に把握し、展示改善や教育プログラムに反映できます。博物館における「エモーショナル・メトリクス」の導入は、入館者数や満足度を超えて、感情的エンゲージメントを可視化する取り組みです。
aweを活かす組織文化
aweの価値を最大化するためには、来館者だけでなくスタッフ自身が感情的価値を理解し、共有することが不可欠です。展示を作る人々が自らの仕事に誇りと感情的共感を持つとき、その姿勢は展示空間や接客の雰囲気にも表れます。感情を理解する組織文化は、教育とマネジメントの双方で育まれるべきものです。また、博物館のミッションやビジョンに「感情的価値」を明確に位置づけることで、組織の方向性は来館者体験と共鳴します。aweを“展示の結果”ではなく“組織の目的”として扱う視点が、これからの博物館経営における持続可能性を支えます(Luke, 2021)。
aweを中心とした感情デザインは、博物館の教育・経営・文化的使命をつなぐ共通基盤です。展示や空間だけでなく、来館者体験、組織文化、経営戦略のすべてにおいて、感情を意図的に設計・評価することが求められています。aweを「経営資源」として活用することで、博物館は単なる知識の保管庫から、「人の心を動かし、社会的共感を育む公共空間」へと進化します。
まとめ ― 感情をデザインする博物館へ
本稿では、博物館が生み出す感情の中でも特に「畏敬(awe)」に焦点を当て、その心理的・社会的・経営的な意味を検討してきました。aweは、単なる驚きや感動とは異なり、人が自分の理解を超える存在や出来事と向き合うときに生じる深い感情です。人はaweを体験することで、自らの世界観を拡張し、他者や自然とのつながりを再認識します。博物館は、この感情を自然に喚起できる数少ない公共空間であり、人間の内面と社会を結び直す場としての潜在的力を持っています。
aweの総合的意義
aweは、人の認知・感情・行動に連鎖的な変化を引き起こす感情です。空間的広がり(vastness)と認知の再構成(accommodation)という二つの要素を含み、自己を超えた存在とのつながりを感じさせます。博物館では、展示物の壮大さや歴史的深み、そして静寂に満ちた空間がこの感情を誘発します。aweを通して人は、自分の小ささや限界を自覚しながらも、世界や文化との一体感を得ることができます。これは単なる知的理解を超えた「存在の学び」であり、博物館が果たす教育的・文化的使命の根底にあるものです(Keltner & Haidt, 2003; Luke, 2021)。
感情を軸とした新しい博物館像
近代以降の博物館は「知の収集と展示」を中心に発展してきましたが、現代の博物館には「感情の共有と共感の創出」が求められています。情報過多の社会において、知識だけでなく感情を通じた理解が来館者の心に残る体験を生み出します。aweはその中核をなす感情であり、来館者の学びを深化させるとともに、文化的な共感や社会的連帯を促します。展示設計や教育活動の中でaweを意識的に取り入れることは、来館者が「知る」ことから「感じ、考える」ことへと移行する学びを支えます。こうした「感情をデザインする博物館」は、来館者の記憶に長く残る体験を提供し、再来館や社会的信頼にもつながるのです(Price et al., 2021; Anderson et al., 2018)。
公共性と倫理の再構築
aweはまた、公共的倫理を再生する感情でもあります。人はaweを通して、自分の存在を超えたものに敬意を抱き、他者や自然を尊重する態度を育みます。博物館が提供するawe体験は、文化遺産や自然史に対する「守るべきもの」としての意識を喚起します。それは、制度や規範ではなく、感情によって支えられる倫理的理解です。aweがもたらす「謙虚さ」や「共感」は、持続可能な社会の基盤を形成する心理的資源であり、博物館が担う公共的役割の核心に位置します(Piff et al., 2015; Krause & Hayward, 2015)。
感情と経営の統合的ビジョン
博物館がaweを経営資源として扱うことは、単なる展示演出にとどまらず、組織の価値創造そのものを意味します。来館者が感じたaweは、信頼や愛着を生み出し、寄付・参加・再来館といった行動に転化します。こうした感情の蓄積は「感情的資本」として機能し、博物館ブランドを支える無形の資産となります。さらに、awe体験を定量・定性の両面から評価する「エモーショナル・メトリクス」を導入することで、感情を経営指標として活用することも可能です。経営・教育・文化の三つを貫く軸としてaweを捉えることが、これからの博物館の持続可能な運営を支える鍵になります(Norman, 2004; Price et al., 2021)。
結論 ― 感情をデザインする公共空間へ
aweは、人を動かすだけでなく、人を変える感情です。博物館は知識を伝える施設から、感情を共有し、人間性を育む文化装置へと進化しつつあります。感情をデザインし、来館者の心に残る体験を創出することは、教育的にも社会的にも大きな意義を持ちます。aweを中心に据えた感情デザインは、博物館の公共性と創造性を結び直し、文化の持続可能性を支える新しい経営の指針となります。これからの博物館は、情報の保存庫ではなく、「人の心を動かし、社会をつなぐ感情の公共空間」としての使命を担っていくのです。
参考文献
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- Keltner, D., & Haidt, J. (2003). Approaching awe, a moral, spiritual, and aesthetic emotion. Cognition and Emotion, 17(2), 297–314.
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