博物館の公共的価値とは何か ― 社会的役割と市民参加の視点から読み解く評価と可能性

目次

はじめに ― 公共的価値という視点で博物館を捉え直す

近年、博物館が果たす役割について、従来の「展示・保存・教育」という基本的機能を超えた視点からの再評価が進んでいます。特に、気候変動や社会的分断、文化的多様性といった複雑な課題に対し、文化機関がどう応答すべきかが問われるなかで、「公共的価値」という概念が注目を集めています。これは、博物館が社会に対していかなる価値を提供し、どのように人々との信頼関係を築いていくかを捉え直す枠組みです。

「公共的価値」とは、経済的な波及効果や来館者数といった定量的指標では測ることのできない、非物質的かつ社会的な価値を指します。たとえば、地域社会に対する包摂性の確保、文化資源を通じた対話の促進、あるいは歴史や記憶に対する多様な視点を提示することなどがその一部です。これらは博物館が果たす倫理的責任や信頼性とも密接に関わっており、単なる情報提供の場から、共感と関係性を生み出す公共空間へと進化するための基盤となっています。

英語圏では「public value」という語が主に公共経営の分野で使用されてきましたが、本記事ではそれとはやや異なる、より文化的・社会的文脈における「公共価値」という日本語独自の表現に焦点を当てます。この用語は、制度的な評価軸に限定されることなく、文化機関が市民との関係性を通じて実現する価値や、包摂・参加・共創といった実践に照らして柔軟に理解されるべきものです。

本記事では、こうした「公共的価値」の意味と意義を掘り下げながら、博物館における具体的な実践や評価手法を紹介します。具体的には、SROI(社会的投資収益率)に代表される新たな評価指標や、参加型展示や市民参加の取り組み、そして博物館の倫理的な社会的責任に関する動向を取り上げる予定です。これにより、公共的価値が単なる理念ではなく、現実の経営判断やプログラム設計にどのように組み込まれうるかを明らかにします。

なお、博物館が提供する価値には、公共的価値に加えて、文化的・経済的・制度的な側面も存在します。こうした多層的な価値構造については、以下の記事にてより広範に整理していますので、あわせてご参照ください。

博物館における公共的価値の意味 ― 概念の整理と評価視点

「公共的価値」という概念は、明確な定義が存在するわけではなく、社会的文脈や制度のあり方によって多様に解釈されています。特に博物館においては、来館者数や経済的波及効果のような測定可能な成果指標だけでは測れない価値をどう評価するかという問いと結びついて論じられるようになってきました。これは、博物館が果たすべき「公共性」の実質をどのように捉えるかという問題でもあります。

まず、公共的価値の構成要素として重要なのは、「社会的包摂」の視点です。年齢、文化的背景、身体的条件、社会的属性のいかんを問わず、すべての人がアクセス可能であること、そしてその多様な来館者が意味ある経験を持ち帰ることが求められています。展示内容や教育活動が特定の知識階層や文化的文脈に偏ることなく、多様な視点に開かれているかどうかが問われるのです。

次に「市民参加」の視点も欠かせません。近年の博物館実践では、来館者を一方的に教育する対象ではなく、共に意味をつくる存在とみなす方向にシフトが見られます。共創型ワークショップや参加型展示、ボランティア活動などを通じて、博物館は市民と協働する場として再定義されつつあります(Hergüner, 2015)。

また、「信頼性」や「倫理的責任」も公共的価値を支える中核的要素です。学術的に裏づけられた情報発信、展示の中立性、文化的配慮、センシティブな歴史の扱いなど、来館者との信頼関係を構築・維持する努力が問われています。これは単に情報の正確さを意味するだけでなく、文化機関としての誠実な姿勢を社会に示すことでもあります。

さらに、博物館は「文化的持続可能性」を担保する役割も担っています。地域の記憶や無形文化、環境知への接続など、未来世代へと引き継がれるべき資源を守る活動は、短期的な成果では測れない公共的価値のひとつです。博物館は、単なる保存の場ではなく、知識と価値観を再構成し続ける空間でもあります(Janes, 2022)。

公共的価値は、制度として与えられた「公共性」とは異なり、博物館がどのような社会的関係を築き、市民との信頼や共感をどれだけ獲得しているかによって左右されます。たとえば、公立博物館であっても、市民との対話がなく閉鎖的である場合、その公共的価値は薄れるでしょう。一方で、独立系の小規模ミュージアムであっても、市民と共に社会課題に向き合い、地域に貢献する活動を展開しているならば、高い公共的価値を持ちうるのです(Brenton, 2020)。

このように、「公共的価値」は多層的かつ動的な概念であり、その評価は容易ではありません。従来型の来館者数やアンケート満足度では、このような非可視的な価値を測定するには限界があります。そこで次節では、こうした「見えにくい価値」を可視化するための新たな評価手法、特にSROI(社会的投資収益率)などの枠組みを取り上げながら、博物館の公共的価値をいかに実証的に捉えうるかを検討していきます。

公共的価値をどう評価するか ― SROIと社会的インパクトの可視化

博物館が提供する「公共的価値」は、理念的な目標として語られることが多い一方で、それをどのように測定し、社会に示していくかという課題が常に存在します。特に近年では、文化政策や公的支援の分野で「成果重視」の考え方が広まり、助成の根拠や制度設計の前提として、アウトカム(成果)を明示する必要性が増しています。博物館もまた、単なる文化施設ではなく、社会的な投資先としての説明責任が求められるようになっているのです(Brenton, 2020)。

このような背景の中で注目されている評価手法のひとつが、SROI(Social Return on Investment)です。SROIとは、ある活動に対する投資(例:運営費や人的資源)に対して、どれだけの社会的な価値が生まれたかを貨幣的な単位で表す試みです。たとえば、「1,000万円の投資によって1,500万円相当の社会的便益が生じた」というように、非金銭的な価値を金銭換算して可視化します(Scott, 2010)。

博物館においてSROIが活用される場合、その対象となる価値は多岐にわたります。たとえば、来館者に対する教育的影響、地域社会との信頼関係、就労支援や生涯学習による社会的包摂、ボランティアの社会参加促進などが挙げられます。これらは直接的な収益には反映されないものの、社会全体のウェルビーイングを高める効果があると考えられています(Hergüner, 2015)。

実際、欧州を中心に一部の文化施設では、SROIの試行的導入が進められています。たとえば、イギリスの地方都市にある博物館では、障害者向けプログラムがもたらした心理的充足感や、認知症患者を対象とした回想法プログラムの社会的効果をSROIで算出し、報告書として発信しました。こうした数値化は、行政や助成団体に対して、博物館の社会的意義をより明確に訴える手段となります。

しかしながら、SROIには限界も存在します。まず、非金銭的価値の換算方法が恣意的になりやすいこと、調査や分析のために相応の時間とコストが必要であること、また短期的評価に偏りがちである点などが指摘されています。特に「感情的な充実」や「知的成長」といった抽象的な成果を金額に変換する際には、一定の仮定や主観的判断が避けられません。

それでもなお、SROIは単なる数値化の手法にとどまらず、評価のプロセスを通じて博物館の存在意義を再考する契機にもなります。たとえば、来館者や地域住民、職員などさまざまなステークホルダーに対する聞き取りやワークショップを通じて、どのような価値が生まれているのかを多角的に議論することができます。こうした「対話型の評価」は、制度に提出する報告書以上の意義を持ち、博物館の社会的使命を関係者と共有するための重要な手段となります。

公共的価値を評価することは、その価値を定量的に「証明」するためだけでなく、博物館が自らの活動を内省し、社会と結び直すための手段でもあります。SROIのような枠組みは、博物館が果たしている役割を可視化し、支援の根拠を高める一助となるのです。

市民との共創による公共的価値の深化 ― 参加型実践と社会的包摂

博物館の公共的価値は、もはや施設側が一方的に提供するものではなく、社会との相互作用のなかで再構成される関係的な価値へとシフトしています。今日では来館者を単なる受け手ではなく、共に価値をつくる「意味生成のパートナー」として捉える視点が主流となりつつあります(Hergüner, 2015)。このような共創のプロセスを通じて生まれるのは、展示や教育の成果だけではなく、信頼、共感、対話といった不可視の関係性そのものなのです。

こうした価値の具体例として、参加型展示や市民参加型ワークショップが挙げられます。たとえば展示の一部に来館者がコメントを残せる仕組みを取り入れたり、ストーリーテリングを通じて自身の経験を語ってもらうような構成にしたりする事例は増加しています。また、地域の歴史や暮らしに根ざしたテーマを市民と協働でキュレーションする取り組みもあり、これらは博物館の語りを一方通行のものから、社会との共話へと変化させています(Engage the World, 2020)。

さらに、市民による継続的な関与としては、ボランティア活動や市民協働によるプロジェクトが重要な位置を占めています。とりわけ高齢者や若年層、あるいはマイノリティの市民が博物館の活動に関わることは、文化的包摂を推進するうえで大きな意味を持ちます。このような関わりは、参加者にとっての自己効力感の向上や、地域社会への帰属意識の醸成を促すだけでなく、博物館自体にとっても社会的ネットワークの拡張や信頼性の向上という副次的な価値をもたらします(Janes, 2022)。

公共的価値の多くは、制度的な評価指標では十分に捉えることができません。たとえば、来館者とスタッフとの日常的なやり取りのなかに育まれる「親しみ」や「安心感」、あるいは長年のボランティア活動を通じて生まれる「信頼関係」などは、成果指標として可視化されることは少ないものの、博物館の公共性を下支えする本質的な要素です。こうした目に見えにくい価値にこそ、博物館の社会的意義の根幹が宿っているとも言えるでしょう(Brenton, 2020)。

つまり、博物館の公共的価値は、市民と共に築き上げるプロセスそのものに内在しているのです。これは単なる参加促進ではなく、関係性を継続的に育む文化的実践であり、公共圏の形成にも寄与する営みです。博物館が社会に対して持続的な意味を持ち続けるためには、制度的枠組みだけでなく、こうした共創の実践をいかに深めていくかが問われているのです。

未来に向けた公共的価値の展望 ― 危機の時代における博物館の役割

現代社会において、博物館の公共的価値は、過去の保存や展示だけにとどまらず、未来を志向する社会的装置としての機能へと拡張されています。パンデミック、気候変動、戦争、社会的不平等といった複合的な危機の時代において、人々が信頼できる情報と対話の場を必要としている今、博物館の存在意義は新たな局面を迎えているのです(Janes, 2022)。

こうした変化の中で注目されているのが、博物館が地域社会の「文化的レジリエンス」を支える存在になりうるという視点です。たとえば災害時における避難者支援、移民や難民への文化的配慮、ジェンダーや人種差別に対する歴史的視点の提供など、博物館は社会の「再起」を文化的に下支えする役割を担い始めています。単に「保存する場所」ではなく、変化と対話のなかで柔軟に応答する「公共的空間」としての機能が強調されているのです(Brenton, 2020)。

さらに近年の博物館は、倫理性や多声性といった観点からも重要な公共的実践を展開しています。植民地主義の歴史に対する再解釈、ジェンダーやLGBTQ+の可視化、障害者の視点を取り入れた展示など、多様な視点を取り込む試みが進んでいます。「誰の物語を語るのか」「語られない声にどう応答するか」という問いに対して、市民との共創を通じて新たな答えを模索しているのです(Engage the World, 2020)。

このように、博物館は単に情報を伝達する機関ではなく、対話と参加を通じて社会に働きかける「倫理的な場」へと進化しています。その公共的価値は、統計的な来館者数や経済効果といった従来の指標だけでは測りきれません。むしろ、信頼、共感、包摂といった目に見えにくい成果を育む過程そのものに、博物館の真の価値が宿っているのです(Hergüner, 2015)。

未来に向けて博物館が果たすべき公共的役割とは、単なる社会貢献の枠を超え、人々の生活と結びついた「文化的な基盤」として存在することです。教育、記憶、対話、参加という複合的な機能を統合し、社会の複雑な課題に応答する柔軟性と倫理性を持つことで、博物館は次世代に向けた公共的価値の創出者となり得るのです。

おわりに ― 公共的価値を育むこれからの博物館へ

本記事では、「博物館の公共的価値とは何か」という問いに対して、制度的な説明責任の枠組みと、市民との協働による信頼形成という二つの軸から検討してきました。公共的価値とは、単に公的な資金の正当性を裏づけるための「成果」ではなく、来館者や地域社会との関係のなかで共に形成される価値であるという認識が重要です。特に文化政策や学芸員実務においては、「公共性」や「文化的価値」「社会的包摂」などの隣接概念との違いを理解した上で、公共的価値の位置づけを明確にすることが求められます。

こうした文脈において、制度的な評価指標の限界も見えてきます。来館者数や収入といった数値化可能なデータは、確かに説明責任や効率性を示す上で有効ですが、それだけでは博物館が果たしている「見えない価値」を正確に捉えることはできません。来館者との信頼関係、展示や教育活動を通じて得られる共感、市民が主体となって参加するプロセス、あるいは社会的弱者への包摂といった価値は、定量的には捉えにくいものです。こうした非可視的な成果を評価にどう組み込むかは、今後の重要な課題です(Scott, 2010)。

では、これからの博物館が公共的価値を育んでいくためには、どのような方向性が望まれるのでしょうか。その一つの答えは、市民が「声を持ち得る場」としての博物館づくりにあります。単に展示を見るだけではなく、そこに関わり、考え、発言し、共に未来を構想する経験が可能になるとき、博物館は公共的な意味を帯びてきます。これは展示や教育プログラムの工夫だけでなく、運営方針や評価の設計にも関わる重要な視点です(Ashley, 2013)。

また、公共的価値は文化セクターのみに閉じた話ではありません。教育、福祉、まちづくり、災害復興など、社会のさまざまな領域と博物館が連携することで、多面的で継続的な価値創出が可能となります。博物館は「文化的インフラ」として、社会のレジリエンスや共感資本を支える重要な役割を担っているとされており、その意義は近年ますます注目されています(Brenton, 2020; Janes, 2022)。

公共的価値とは、結果の測定ではなく、関係性とプロセスのなかに育まれるものであり、それを支える構造や意識づけの在り方こそが問われています。制度による管理と市民との共創。この両輪のバランスを意識しながら、これからの博物館はより柔軟かつ倫理的な公共空間として歩んでいくことが期待されます。

参考文献

  • Ashley, S. L. T. (2013). ‘Engage the World’: Examining conflicts of engagement in public museums. International Journal of Cultural Policy, 20(3), 261–280.
  • Brenton, M. (2020). Managing public museums appropriately and consequentially: The case for strategic state stewardship. Public Administration Review, 80(5), 776–784.
  • Janes, R. R. (2022). The value of museums in averting societal collapse. Curator: The Museum Journal, 65(1), 6–26.
  • Scott, C. (2010). Museums, the public, and public value. Journal of Museum Education, 35(1), 33–42.
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この記事を書いた人

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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