博物館の知識は収益になるのか ― V&A Academyに学ぶ専門性の外部化と企業研修モデル

目次

はじめに|博物館は「展示」以外に何を社会に提供できるのか

博物館の収益多角化が「物販・貸館」に偏りやすい理由

博物館が収益を増やそうとするとき、最初に検討されやすいのはミュージアムショップや飲食、施設貸出といった付帯施設です。これらは分かりやすく、来館者が増えれば売上が伸びるという因果も説明しやすいため、収益多角化の定番として語られてきました。運営側としても、既存の来館行動に自然に組み込める点で導入のハードルが低く、成功イメージを描きやすい領域です。

しかし付帯施設による増収は、立地、観光動線、周辺の商業環境、団体客の比率、来館者数の季節変動といった外部条件の影響を強く受けます。館内でいくら工夫をしても、そもそもの客数が十分でなければ固定費を回収できず、売場面積や動線を広げるほど運営リスクが増えることもあります。さらに、物販や貸館は施設規模や建物条件に左右されやすく、同じモデルを別の博物館がそのまま再現しにくいという課題もあります。収益源として重要である一方で、付帯施設だけに依存した多角化は、館の条件によって成果が大きく分かれやすいのが実情です。

V&A Academyが示す別の道筋

そこで注目したいのが、Victoria and Albert Museum(V&A)が展開するV&A Academyです。ここで示されているのは、物販や貸館のように「来館者数に比例しやすい収益」ではなく、博物館の内部に蓄積された専門性そのものを外部に開き、教育や研修として提供することで価値化する道筋です。展示や収蔵品を見せることだけが博物館の提供価値ではなく、展示を構想し、解釈を組み立て、学びの体験を設計してきた実務知もまた、社会に提供しうる資源だという発想です。

ただし、この方向性には必ず問いが生まれます。博物館が研修を提供することは、公共的使命と矛盾しないのか。それは商業化の一種なのか、それとも公共性を拡張する取り組みなのか。本記事では、V&A Academyを単なる成功事例として紹介するのではなく、博物館経営論の観点から「公共性と収益性の関係をどう再設計しているのか」を丁寧に読み解きます。

この記事で扱う範囲

まず、V&A Academyが何をしているのかを、公開型の専門職教育(Professional Development)と、組織課題に合わせたオーダーメイド研修(Bespoke)に分けて整理します。次に、なぜ企業や他館が「V&Aで学ぶ」ことを選ぶのかを、学習設計の観点から検討します。さらに、公共性と収益性がどのように両立されているのかを、博物館経営論として評価し、どの条件が両立を支えているのかを明確にします。

最後に、このモデルを日本の博物館に当てはめたとき、何がそのまま移植できて、何が調整を要するのかを考えます。大規模館にしかできない取り組みとして片づけるのではなく、小規模館でも採用可能な要素と、始め方の最小単位を整理しながら、博物館の専門性が社会に届く別の回路を描いていきます。

博物館の中に蓄積されてきた「見えない資産」

展示設計は「意思決定の集合体」である

博物館の展示は、完成した空間やキャプションだけを見ると、一つのまとまった成果物のように見えます。しかし実際には、その背後には無数の意思決定が積み重なっています。限られた予算の中で何に資源を配分するのか、保存上の制約をどこまで展示に反映させるのか、来館者の動線をどのように設計するのか、障害のある人や外国語話者へのアクセシビリティをどこまで確保するのかといった判断が、常に同時並行で行われています。

さらに、展示で扱う情報量の調整も重要な意思決定です。すべてを説明し尽くすことは不可能であり、どの情報を前面に出し、どの情報を省くのかを選び続けなければなりません。展示設計とは、単に「見せる内容」を決める作業ではなく、「何を捨て、何を残すか」という判断を重ねるプロセスそのものです。この判断の積み重ねこそが、博物館内部に蓄積されてきた専門的な知識の一つだといえます。

解釈(interpretation)は「意味をつくる技術」である

博物館における解釈は、作品や資料に唯一の正解を与える行為ではありません。むしろ重要なのは、価値や意味を一義化せず、複数の読みが成立する余地をどのように確保するかという点です。歴史的背景、制作技法、社会的文脈、現代的な問いなど、異なる視点をどのように配置すれば、来館者が自分自身の経験と結びつけながら考えられるのかが問われます。

そのため解釈は、単なる説明文の作成ではなく、読み手の思考を導く導線設計でもあります。どこで立ち止まり、何に気づき、どの順序で理解が深まっていくのかを想定しながら、言葉や配置が選ばれていきます。こうした解釈の技術は、長年の実践の中で培われてきたものであり、展示が終わっても館内に蓄積され続ける無形の資産です。

組織運営は「専門職協働の設計」である

展示や事業が成立するためには、学芸員だけでなく、保存担当、教育普及、広報、施設管理、場合によっては営業や外部パートナーとの協働が不可欠です。それぞれの専門職は異なる価値基準や優先順位を持っており、それらを調整しながら一つの方針にまとめていく必要があります。この調整そのものが、高度な専門的判断を要するプロセスです。

また、博物館は公共機関として、説明責任やリスク管理も常に求められます。展示内容に対する社会的な反応、資料の扱いに関する倫理的配慮、安全管理や法的責任など、多面的な視点を踏まえた意思決定が必要になります。こうした組織運営の経験もまた、外からは見えにくいものの、博物館の内部に確実に蓄積されてきた重要な知識資源です。

専門知は“展示の付属物”ではなく、独立した知識資源である

これまで述べてきた展示設計、解釈、組織運営のプロセスは、しばしば「展示を支える裏方の作業」として扱われてきました。しかし、これらは単なる付属的要素ではなく、それ自体が価値を持つ独立した知識資源として捉えることができます。博物館が社会に提供しているのは、モノとしてのコレクションだけではなく、それをどのように理解し、意味づけし、共有してきたかという情報やプロセスでもあります。

博物館は展示施設であると同時に、情報資源や知識資源を収集・構成・提供する組織として理解することができるとされています。この視点に立てば、博物館が長年にわたって培ってきた専門的判断や設計プロセスを、展示の外にある価値として位置づけることが可能になります。博物館が提供する価値はモノだけではなく、それを支える情報資源や設計されたプロセスにもあると整理できるのです(Marty, 2008)。

V&A Academyは何をしているのか(全体像)

V&A Academyを「研修部門」とだけ理解すると見誤る

V&A Academyは、しばしば「美術館が行っている研修事業」として紹介されますが、その理解にとどまると、この取り組みの本質を見誤ります。V&A Academyの中核にあるのは、研修というサービスを販売することそのものではなく、博物館の内部で長年にわたって蓄積されてきた専門知を、外部の学習者に向けて翻訳し、再配分する仕組みを構築している点にあります。

展示設計や解釈、コレクションの扱い方、組織運営に関する判断は、通常は館内の実務の中で暗黙知として共有されるものです。V&A Academyは、そうした暗黙的な専門性をそのまま外に出すのではなく、学習可能な形に整理し直し、異なる立場の受講者にも理解・応用できるよう再構成しています。ここで行われているのは、研修の提供というよりも、専門知の社会化と再流通だと捉えるほうが適切です。

二つの柱:公開型とオーダーメイド型

V&A Academyの活動は、大きく二つの柱から成り立っています。一つは、専門職や関心を持つ個人を対象とした公開型の教育プログラムであるProfessional Developmentです。これは、博物館や文化機関で働く人々を主な対象とし、展示づくりや解釈、オーディエンスとの関係構築といったテーマを扱いながら、V&Aの実践をケースとして学ぶ場を提供しています。

もう一つが、特定の組織やチームの課題に応じて設計されるBespoke courses & training solutionsです。こちらは企業や文化機関などを対象に、目的や背景を丁寧に聞き取った上で、内容や形式を調整して実施されます。公開型とオーダーメイド型を併存させることで、V&A Academyは幅広いニーズに応えながら、専門知の提供方法を柔軟に使い分けています。

対象は「知識」ではなく「方法と判断のプロセス」

V&A Academyが扱っているのは、展示や作品に関する事実知識そのものではありません。重要なのは、展示をどのように構想し、どのような基準で判断を重ねてきたのかという思考の枠組みやプロセスです。完成した展示を解説するのではなく、展示が形になるまでにどのような選択肢があり、なぜその選択がなされたのかを問い直すことに重きが置かれています。

この点において、V&A Academyは「正解を教える場」ではなく、「判断の仕方を学ぶ場」として設計されています。受講者は、V&Aの事例を通じて、自らの組織や現場に持ち帰ることのできる思考の道具や視点を獲得していきます。V&A Academyが提供している価値は、知識の移転ではなく、専門的判断を可能にする方法そのものにあるといえるでしょう。

V&A AcademyのProfessional Development(公開型専門職教育)

Professional Developmentが扱うテーマ領域

V&A AcademyのProfessional Developmentは、特定の職種や一つの業務領域に限定された研修ではありません。扱われているテーマは、博物館の実務全体を横断するものであり、展示づくりを軸にしながらも、その前後に広がるプロセス全体が学習対象として設定されています。

例えば、展示づくりに関しては、完成した展示を評価することだけでなく、企画立案の段階から、調査、設計、実装、そして事後の振り返りや評価に至るまでの一連の流れが意識されています。展示は一度きりの成果物ではなく、複数の判断が積み重なった結果であるという前提に立ち、その判断がどのように形成されたのかを学ぶことが重視されます。

また、解釈(interpretation)とオーディエンス設計も重要なテーマです。展示の内容をどのように翻訳し、どの来館者にどのような体験を提供するのかという問いは、展示担当者だけでなく、教育普及や広報、デザインなど複数の職種に関わります。さらに、コレクションの扱い方や、部門を横断したプロジェクトの設計など、組織全体の動かし方に関わるテーマも含まれています。これらは公式に公開されている情報から確認できる範囲で整理できるものであり、V&A Academyが個別技術ではなく、実務の構造そのものを対象としていることが分かります。

「V&Aのケーススタディ」を教材にする意味

Professional Developmentの大きな特徴は、抽象的な一般論や理論解説を中心に据えていない点にあります。教材として用いられるのは、V&Aの館内で実際に行われてきた展示やプロジェクトにおける意思決定の過程です。成功事例として完成形だけを示すのではなく、どのような選択肢があり、なぜその判断が採用されたのかというプロセスが学習資源として提示されます。

このアプローチにより、受講者は「正解」を覚えるのではなく、「問いの立て方」を学ぶことになります。同じ状況は自館では再現できなくても、判断の枠組みや思考の進め方は持ち帰ることができます。V&Aの事例はあくまで思考を促すための素材であり、模倣の対象ではありません。この点において、Professional Developmentはノウハウ提供型の研修とは明確に異なる性格を持っています。

受講者は何を獲得するのか

Professional Developmentを通じて受講者が獲得するのは、具体的な知識のリストではなく、自館に戻って再現可能な設計原則や判断の軸です。展示や事業に直面したとき、どこに注目し、何を基準に考えればよいのかという思考の足場が整理されます。これにより、経験の浅い職員であっても、自らの判断を言語化しやすくなります。

さらに重要なのは、他職種と話が通る共通言語が得られる点です。展示、解釈、オーディエンスといった概念を共有することで、学芸、教育、広報、デザインといった異なる専門分野の間で議論がしやすくなります。Professional Developmentは、個人のスキル向上にとどまらず、組織内の対話の質を高める効果も持っています。

この公開型モデルが経営に与える効果

Professional Developmentは、経営の観点から見ても特徴的なモデルです。公開型であるため、特定の組織に依存せず、一定の需要が見込めれば継続的に運用しやすいという利点があります。単発のイベントに終わりにくく、プログラムを改善しながら長期的に育てていくことが可能です。

同時に、このモデルは社会的な説明もしやすい構造を持っています。博物館の専門性を広く共有し、セクター全体の能力形成に貢献する取り組みであると位置づけることで、公共的使命との整合性を保つことができます。収益を生み出しながら、博物館分野全体の知的基盤を強化する点に、V&A AcademyのProfessional Developmentの重要な意義があるといえるでしょう。

V&A AcademyのBespoke研修(組織別・課題別のトレーニング)

Bespokeが成立する条件は「編集力」にある

V&A AcademyのBespoke研修が成立している最大の理由は、博物館側に高い「編集力」がある点にあります。ここでいう編集力とは、単に内容を組み替える能力ではなく、相手組織が抱えている課題を丁寧に聞き取り、それを学習として扱える問いや目標へと変換する力を指します。組織が抱える問題は、必ずしも「展示がうまくいかない」「人材育成が必要だ」といった明確な形で言語化されているわけではありません。むしろ、漠然とした違和感や停滞感として現れていることが多く、その背景を読み解く作業が最初の重要なプロセスとなります。

Bespoke研修では、まず相手組織の状況や文脈を把握し、その課題を学習目標に落とし込む作業が行われます。そのうえで、博物館内部に蓄積された展示設計、解釈、コレクション運用、組織運営といった知見を、その目標に合う形で再構成していきます。重要なのは、博物館の知識をそのまま移植するのではなく、相手組織が自らの現場で考え直すための素材として再編集する点です。この編集の質が、Bespoke研修の成否を大きく左右します。

対象領域が広いこと自体が強みになる

V&A AcademyのBespoke研修が対応できる領域は非常に幅広く、リーダーシップ、コレクションケア、展示のライフサイクル、解釈(interpretation)など、多岐にわたります。一見すると焦点がぼやけているようにも見えますが、この幅広さこそが強みになっています。なぜなら、博物館の実務はもともと分業でありながら相互に強く依存しており、個別の課題が組織全体の構造と結びついているからです。

例えば、展示の質に関する課題は、単に展示担当者の能力だけでなく、意思決定のプロセス、部門間の連携、リーダーシップのあり方とも関係しています。V&A AcademyのBespoke研修は、こうした複合的な課題を切り分けず、博物館経営の全域に接続するものとして扱います。その結果、参加者は自分の担当領域を超えて、組織全体を見渡す視点を獲得することになります。

実施形式(オンライン/現地/混成)が意味するもの

Bespoke研修は、オンライン、現地、あるいはその混成といった複数の形式で実施されます。この柔軟性は、単なる利便性の問題ではありません。研修の目的に応じて、「場」を使う研修と、「プロセス」を教える研修を意識的に使い分けられる点に意味があります。

現地での研修は、展示空間やコレクションを直接用いることで、観察や対話を重視した学習に適しています。一方、オンライン形式は、意思決定の整理や振り返り、概念的な枠組みの共有に向いています。これらを組み合わせることで、組織の制約に合わせながらも、学習効果を損なわない設計が可能になります。提供形態を柔軟に変えられることは、単発で終わらせず、継続的な関係を築くうえでも重要な要素です。

Bespokeを「企業研修モデル」として読むときの要点

V&A AcademyのBespoke研修は、博物館や文化機関だけでなく、企業研修のモデルとしても読むことができます。企業側が研修に求めているのは、特定分野の知識を増やすことよりも、組織や個人の思考を更新するきっかけです。固定化した前提を揺さぶり、これまでとは異なる視点で課題を捉え直すことが重視されています。

その点で、博物館は「正解が固定されない対象」を日常的に扱ってきた組織です。作品や資料は一つの答えを示さず、解釈は常に複数存在します。この不確実性に向き合う訓練は、変化の激しい環境に置かれた企業にとっても有効です。Bespoke研修は、博物館の実践を通じて、参加者に思考の柔軟性と判断の根拠を問い直す機会を提供しています。その意味で、V&A AcademyのBespoke研修は、博物館の専門性が異分野と交差する具体的な接点を示しているといえるでしょう。

無形の専門性を社会に開く知識資本モデル

展示設計や解釈は「無形資産」になりうる

展示設計や解釈といった博物館の専門的実践は、しばしば展示物や空間を成立させるための補助的作業として理解されがちです。しかし、これらは単なる付随要素ではなく、長期的な実践を通じて蓄積されてきた無形の資産として捉えることができます。ここで重要なのは、有形か無形かという区分そのものではなく、価値がどのように成立しているのかという点です。

文化遺産をめぐる理論的整理では、価値は対象の物質的特性に内在するものではなく、社会がそこにどのような意味を見出すかによって成立するとされています。文化的価値は固定された属性ではなく、社会的文脈や解釈の枠組みの中で生成されるものだと整理されています(Vecco, 2010)。この理解に立てば、展示設計や解釈の知識は、コレクションに付随する副次的な情報ではなく、価値生成の中核を担う文化的資源として位置づけることができます。

展示解釈や設計知が持つ価値は、完成した展示を見れば自動的に理解できるものではありません。むしろ、どのような前提に立ち、どのような選択肢を検討し、なぜその判断に至ったのかというプロセスの中にあります。このプロセスこそが、博物館の内部で長年にわたって磨かれてきた無形の専門性であり、社会的に共有されうる知識資本だといえるでしょう。

「内部ノウハウの販売」にならないための線引き

無形の専門性を外部に開く際に避けなければならないのは、内部ノウハウの単純な切り売りです。特定の個人が持つ経験や技能を、そのまま商品化する形では、知識の再現性や公共性を担保することが難しくなります。V&A Academyが行っているのは、個人の経験を直接提供することではなく、実践の中から抽出された原則や枠組みを、学習可能な形に整理する作業です。

この線引きを明確にするためには、透明性の設計が不可欠です。何を教え、何を守るのか、どの範囲まで共有し、どこから先は内部に留めるのかを意識的に定める必要があります。展示の裏側をすべて開示することが価値なのではなく、判断の軸や思考の進め方を共有することに重点が置かれます。こうした整理がなされてはじめて、無形の専門性は「内部ノウハウの販売」ではなく、社会に開かれた知識資本として成立します。

公共性と結びつくロジック

無形の専門性を社会に開く取り組みは、公共性と対立するものではありません。むしろ、知識の共有そのものが社会への還元であると考えることができます。博物館が培ってきた展示設計や解釈の知識を教育や研修の形で提供することは、来館者以外の層にも博物館の価値を届ける手段となります。

このとき、収益は目的ではなく、還元を持続させるための仕組みとして位置づけられます。専門性の提供に対して対価を得ることで、プログラムを継続的に改善し、人材や時間を投入し続けることが可能になります。収益性は公共性を侵食するものではなく、公共的使命を長期的に支える基盤として機能しうるのです。V&A Academyの実践は、無形の専門性を知識資本として再構成することで、公共性と持続可能性を両立させる道筋を具体的に示しているといえるでしょう。

なぜ企業や他館が「V&Aで学ぶ」ことを選ぶのか

「観察→仮説→対話→再定義」という学習の核

V&A Academyの研修における学習の出発点は、知識のインプットではなく、観察です。作品や資料は、明確な答えや結論を提示してくれる存在ではありません。だからこそ、参加者はまず「何が見えているのか」「何が気になるのか」を丁寧に言語化することから始めます。この観察の段階では、専門的な正解よりも、一人ひとりの視点や違和感が重視されます。

観察をもとに仮説を立て、それを他者と共有することで、解釈の違いが自然に浮かび上がります。同じ作品を前にしても、背景知識や経験の違いによって見え方が異なることが可視化され、その差異が対話を生み出します。この対話の過程で、参加者は自分が無意識に前提としていた価値観や判断基準に気づかされます。最終的に、そうした前提を揺さぶられたうえで、問いや課題が再定義されていく点に、この学習プロセスの核心があります。

美術館という場が“学習空間”になる理由

なぜこのような学習が、美術館という場で成立しやすいのでしょうか。その背景を理解するために有効なのが、経験学習の理論です。経験学習では、学習は知識を受動的に獲得する行為ではなく、経験を省察し、概念化し、それを次の行為へと結びつける循環的なプロセスとして捉えられます。この循環が繰り返されることで、理解が深まり、行動の質が変化していくと整理されています(Kolb & Kolb, 2005)。

美術館という空間は、この経験学習の循環を促す条件を備えています。展示空間は日常業務から切り離されており、すぐに成果を出すことを求められないため、立ち止まって考える余白が生まれます。また、作品や資料を介した観察は、参加者に共通の経験を提供しつつ、解釈の多様性を許容します。学習は個人の内面だけで完結するものではなく、学習が行われる場そのものが思考や対話の質に影響を与える「学習空間」として機能するとされており、美術館はその条件を満たす場だといえます(Kolb & Kolb, 2005)。

企業研修に置き換えたときに狙える能力

この学習設計を企業研修に置き換えると、いくつかの重要な能力開発につながります。第一に、不確実な状況において判断の根拠をどのように組み立てるかという力です。正解が与えられない状況で観察し、仮説を立て、対話を通じて検証する経験は、複雑な経営判断や戦略立案の場面と重なります。

第二に、多様な視点を統合する能力が挙げられます。解釈の違いを対立として処理するのではなく、前提の違いとして整理し、より広い理解へと統合していく経験は、部門横断のプロジェクトやチーム運営において不可欠です。第三に、合意形成のプロセスそのものを学べる点も重要です。結論だけでなく、どのような対話を経てその結論に至ったのかを共有することで、チーム内の信頼や納得感が高まります。

さらに、この学習プロセスは、参加者自身が気づいていなかった「見えない前提」を発見し、更新する契機を提供します。自明だと思っていた判断基準や価値観が揺さぶられることで、これまでとは異なる選択肢が見えてくるのです。こうした思考の更新こそが、企業や他館がV&Aで学ぶことを選ぶ大きな理由であり、博物館という場が持つ学習資源としての強みだといえるでしょう。

このモデルは他の博物館にも応用できるのか

V&A固有の条件

V&A Academyのモデルを検討する際、まず整理しておくべきなのは、V&Aが持つ固有の条件です。第一に、国際的に確立されたブランド力があります。V&Aは長い歴史の中で、デザインや装飾芸術の分野における権威として認知されており、その名前自体が学習の動機になり得ます。この点は、多くの博物館が短期間で再現できるものではありません。

第二に、専門職層の厚みが挙げられます。学芸、保存、教育、デザイン、研究など、多様な専門家が館内に存在し、それぞれが高度な実務経験を持っています。研修プログラムを構成する際に、複数の視点や事例を組み合わせられる人的基盤があることは、Bespoke研修を成立させる重要な条件です。さらに、国際的なネットワークを通じて、受講者やパートナーが広範囲に存在する点も無視できません。

第三に、既存の教育プログラムの蓄積があります。V&A Academyは、ゼロから立ち上げられた取り組みではなく、これまで館内で行われてきた教育普及や専門職向け研修を土台として発展してきました。このような背景を踏まえると、V&Aのモデルをそのまま他館に移植することは現実的ではありません。

それでも抽出できる“普遍原則”

一方で、V&A Academyの実践からは、規模や条件の違いを超えて共有可能な普遍原則を抽出することができます。第一の原則は、暗黙知を言語化することです。展示設計や解釈、事業運営の中で当然視されてきた判断や前提を、改めて言葉にし、他者と共有可能な形に整理することが出発点になります。

第二に、対象別に学習目標を分けることが重要です。すべての受講者に同じ内容を提供するのではなく、専門職、地域の関係機関、企業など、対象ごとに何を持ち帰ってほしいのかを明確にします。第三に、教える対象をモノではなくプロセスに置くことです。完成した展示や成果物を説明するのではなく、そこに至る思考や意思決定の流れを扱うことで、受講者は自らの現場に応用しやすくなります。

最後に、小さく試し、改善し、型にしていく姿勢が欠かせません。最初から完成度の高い研修を目指すのではなく、試行を重ねながら内容と形式を洗練させていくことが、持続可能なモデルにつながります。

日本の博物館で始める「最小単位モデル」

日本の博物館でこのモデルを導入する場合、最初の一歩はできるだけ小さく設定することが現実的です。例えば、半日、あるいは90分程度のワークショップから始めることが考えられます。テーマは、展示解釈の考え方、展示設計における意思決定の整理、教育普及活動の設計など、館内にすでに蓄積されている知見を活用できるものが適しています。

受講対象も段階的に広げていくことが重要です。最初は自館の関係者や内部研修として実施し、内容や進め方を調整します。その後、地域の関係機関や他館の職員を対象とした研修へと展開し、最終的に企業など館外の組織へと広げていくことで、無理のないスケールアップが可能になります。

まとめ

本記事で見てきたように、V&A Academyは単なる研修販売の仕組みではありません。その本質は、博物館の内部に長年蓄積されてきた専門性を、教育という形で社会に開き直す「専門性の外部化モデル」にあります。展示やコレクションを直接商品化するのではなく、展示を構想し、解釈を組み立て、学びの体験を設計してきた知識や判断のプロセスそのものを価値として提示している点に、このモデルの特徴があります。

博物館が社会に提供している価値は、展示物という有形の成果に限られません。展示設計や解釈、組織運営の中で培われてきた知識やプロセスもまた、独立した知識資源として位置づけることができます。博物館を情報資源・知識資源を提供する組織として捉える視点に立てば、展示の外にある専門性を教育として共有することは、役割の逸脱ではなく、その延長線上にある実践だと理解できます(Marty, 2008)。

さらに、無形の専門性を社会に開くという発想は、文化遺産概念の現代的な展開とも整合しています。文化的価値は物質そのものに内在するのではなく、社会がそこに見出す意味によって成立するという理解に立てば、展示解釈や設計知は正当な文化的資源として位置づけられます(Vecco, 2010)。それらを教育や研修の形で共有することは、文化的価値の再配分として評価することができます。

また、美術館という空間は、経験を省察し、概念化し、行為へと結びつける経験学習の循環を促す「学習空間」として機能しうる場です。正解が固定されない対象を前に、観察と対話を重ねる学習は、組織や個人の思考を更新する力を持っています(Kolb & Kolb, 2005)。V&A Academyが企業や他館から選ばれている理由も、ここにあります。

V&A Academyのモデルは、公共性と収益性を対立概念として捉える発想から離れ、公共性を基盤としながら持続可能性を高める可能性を示しています。専門性を社会に還元し、その対価によって取り組みを継続させるという構造は、博物館経営における一つの現実的な選択肢です。この実践は、規模や条件の違いを踏まえつつも、他の博物館が自らの文脈で応用可能な示唆を多く含んでいるといえるでしょう。

参考文献

  • Kolb, D. A., & Kolb, A. Y. (2005). Learning styles and learning spaces: Enhancing experiential learning in higher education. Academy of Management Learning & Education, 4(2), 193–212.
  • Marty, P. F. (2008). Museum websites and museum visitors: Digital museum resources and their use. Museum Management and Curatorship, 23(1), 81–99.
  • Vecco, M. (2010). A definition of cultural heritage: From the tangible to the intangible. Journal of Cultural Heritage, 11(3), 321–324.
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この記事を書いた人

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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