瀬戸内アート観光圏とは何か
瀬戸内海に点在する島々は、近年「瀬戸内アート観光圏」として国内外から注目を集めています。従来の観光地とは異なり、自然環境と現代アート、そして建築が一体となった体験が訪問者を惹きつけており、「アートの島めぐり」「Setouchi Art」といった呼称が広く浸透しています。この地域では、芸術作品そのものだけでなく、移動や景観も含めた総合的な文化体験が評価されており、文化観光の代表例として位置づけられています。
文化観光の定義と瀬戸内アート観光圏の位置づけ
文化観光は、地域の文化的・芸術的資源を主要な動機として人々が旅を行う行動を指し、高い学習意欲や文化的関心を持つ旅行者が多いことが特徴です(Silberberg, 1995)。このタイプの旅行者は滞在時間や消費額が一般観光よりも大きく、地域側にとって重要な存在とされています(Richards, 2018)。瀬戸内海のアート拠点は、こうした「目的型文化消費」と非常に相性が良く、作品を鑑賞するために島を訪れるという明確な動機付けが存在します。
また、瀬戸内アート観光圏の特異性は、アート・建築・風景が分離せず、一体的な環境として成立している点にあります。地中美術館のように、建築物と自然地形が作品鑑賞の体験そのものに組み込まれている場所は多くありません。訪問者は、作品を鑑賞するために建物へ入るのではなく、建物を含む環境全体に没入しながら作品と向き合うことになります。このような「環境統合型アート体験」は、都市型美術館では得ることができない価値を生み出しています(Richards, 2018)。
瀬戸内海のアート群島が訪問者を引きつける要因
さらに、「Setouchi Art」や「Setouchi Triennale」といった名称は、国際的にも一定の認知を獲得しており、瀬戸内アート観光圏としてのブランドを強化しています。SNSで視覚的に共有されやすい作品配置や、海と建築を背景にした独特の景観は、訪問者に強い印象を残しやすく、再訪意欲にもつながっています。この視覚的魅力と訪問動機の強さは、文化観光の特質と一致しています(Stylianou-Lambert, 2011)。
また、この地域ならではの特徴として、「島を訪れる」という旅の構造そのものが、鑑賞体験に物語性を加えている点が挙げられます。フェリーで島へ渡る動線、港から作品群へ向かう導線、集落を歩く途中で偶然出会うアート作品など、一連の移動が体験価値を高めています。複数の島をめぐる周遊行動が自然に生まれる点も、都市型文化観光には見られない特徴です。このように、瀬戸内海のアート群島は、文化観光の理論的枠組みと現地の体験構造が高いレベルで一致しており、次節以降で示す特筆すべき価値の基盤を形成しています。
特筆すべき点①:常設アート×芸術祭×政策が連動する“複合文化観光モデル”
瀬戸内アート観光圏が特に注目されている理由のひとつは、常設美術館と芸術祭、そして地域政策が長期間にわたって相互に補完し合う構造を持っている点にあります。多くの地域では、芸術祭が終わると観光客が減少し、地域経済への影響が限定的になることがしばしば見られます。しかし瀬戸内海のアート群島では、芸術祭が開催されない年であっても多くの来訪者が訪れ、常設施設が観光の基盤として機能し続けています。このような「複合文化観光モデル」は、日本でも海外でも多くは存在しない独自の構造として評価されています。
公的データで把握する瀬戸内アート観光圏の規模
まず、公的データを基に瀬戸内アート観光圏の規模を確認すると、その特異性が明確に浮かび上がります。直島町の観光入込客数は年間約75万人に達しており、島という地理的制約を考えると極めて高い水準です。観光客の多くが“アートを鑑賞するために訪れる”という明確な目的を持っている点も特徴的で、これは文化を主要動機とした旅行者の行動特性と一致しています(Silberberg, 1995)。さらに、直島町第5次総合計画では、観光と文化資源の活用が地域振興の柱として明記されており、地域政策レベルで文化観光が制度化されていることがわかります。
芸術祭開催年には、この傾向はさらに強まります。香川県が公表する関連データによると、瀬戸内国際芸術祭の開催年には周辺島嶼部全体の入込客数が大きく増加し、観光消費額も拡大する傾向が確認できます。加えて、日銀高松支店は瀬戸内国際芸術祭2022について、経済波及効果が約103億円に達したと分析しています。これは芸術祭が単なるイベントとして終わるのではなく、広域的な文化経済圏を形成していることを示しています。このような数値は、瀬戸内アート観光圏が全国的にも稀な“文化政策と観光政策が結びついた地域モデル”であることの裏付けとなります。
常設施設と芸術祭の相乗効果
次に、常設施設と芸術祭の相乗効果について考えてみます。瀬戸内海のアート群島では、常設美術館が年間を通じた観光基盤として機能しています。地中美術館、李禹煥美術館、ベネッセハウス ミュージアム、家プロジェクトなど、世界的にも評価の高い施設群が複数存在し、それぞれが地域固有の景観と密接に結びついています。これらの施設は単なる展示空間ではなく、建築そのものが作品と同時に環境の一部として設計されているため、訪問者は“アートを見る”ことと“島を歩く”ことを切り離さずに体験します。芸術祭が開催されていない年でも、こうした常設施設が観光の中心として機能し続けることが、瀬戸内アート観光圏の強みです。
一方で、瀬戸内国際芸術祭はこれらの常設施設を補完し、地域全体の魅力を増幅する役割を担っています。芸術祭では、島々を舞台に新作インスタレーションや大規模プロジェクトが展開され、複数の島を回遊しながら鑑賞するというユニークな体験が提供されます(Richards, 2018)。これにより、訪問者は特定の美術館や作品だけでなく、島の文化、集落の歴史、地域の自然環境を含めた広範な文化資源を体験することができます。芸術祭は常設施設へのアクセスを促す装置としても機能しており、互いに価値を押し上げ合う関係性が成立しています。
他地域との比較から見えるモデルの希少性
他地域との比較を通じても、この構造の希少性が際立ちます。たとえば、越後妻有の大地の芸術祭は、地域文化や農村風景と現代アートを融合させた優れた事例ですが、常設施設の層は瀬戸内ほど厚くありません。芸術祭非開催年の観光誘因力は限定的であり、継続的な集客という点では瀬戸内アート観光圏と同じモデルにはなっていません。また、金沢や京都のように豊富な文化資源を有する都市であっても、アート・建築・環境を一体化させた体験設計は限定的であり、瀬戸内海のように地域全体を舞台とした鑑賞体験にはなりません。海外事例としてしばしば挙げられるスペインのビルバオは、グッゲンハイム美術館を核に都市再生を図った成功例ですが、単館依存であり、瀬戸内のような広域ネットワーク型の文化観光とは構造的に異なります(Richards, 2018)。
これらの比較から見えてくるのは、瀬戸内アート観光圏が、常設施設による通年型の観光基盤、芸術祭による広域的な文化資源の活性化、そして地域政策による制度的支援という三つの要素を有機的に結びつけている点です。この三要素の連動こそが、瀬戸内アート観光圏の最大の特質であり、文化観光の成功モデルとして国内外で注目される理由となっています。常設=基盤、芸術祭=増幅、政策=制度化という構造を長期にわたって維持してきた点は、ほかの地域には容易に見られない特徴です。
特筆すべき点②:瀬戸内海の環境を活かした「環境統合型アート体験」
瀬戸内アート観光圏が国内外で高く評価されている理由のひとつに、アート・建築・自然環境が分離せず、一体的な鑑賞体験を生み出している点があります。多くの都市型美術館では、展示室と外部環境が明確に区切られ、鑑賞の中心は作品そのものに集中します。しかし瀬戸内海の島々では、海や光、風、地形といった自然条件が作品と切り離せず、訪問者は島という特定の「場」を介して作品に向き合うことになります。このような環境統合型のアート体験は、都市型の文化施設では生み出しにくい「場所性(Sense of Place)」を備えており、文化観光研究の視点から見ても極めて特異な構造といえます。
文化観光における“本物性(Authenticity)”と環境統合型アート
文化観光の研究では、観光者が求める体験の中心に「本物性(Authenticity)」があると指摘されています(Richards, 2018)。観光者は、その土地に根ざした文化や生活、地域の文脈に触れながら体験を深めたいと考える傾向があり、人工的に切り離された展示環境よりも、地域固有の環境と結びついた体験に価値を見出します(MacCannell, 1999)。瀬戸内海のアート拠点では、作品が常に海や島の地形と結びついており、鑑賞者は視覚だけでなく、移動や滞在のプロセス全体を通じて作品の意味に触れることになります。特に地中美術館のように、建築が地形を活かして設計され、自然光が作品鑑賞の条件を規定する場所では、環境と作品が相互に価値を生み出す構造が明確に確認できます。
また、Stylianou-Lambert(2011)は、ミュージアムにおける鑑賞体験は記憶の形成と深く結びつくと指摘しており、「場」と作品が不可分に記憶される体験は、訪問者の学習や感情的な反応を強化するとしています。瀬戸内海のアート体験はまさにこの特徴を備えており、作品そのものへの感動と、作品が置かれた環境への理解が同時に生まれる構造が形づくられています。例えば、島の集落に点在する家プロジェクトでは、地域の生活空間や歴史が作品の背景になっており、鑑賞者は作品だけでなく、地域文化そのものと向き合う形になります。このような環境統合型の体験は、人工的に用意された美術館空間では得がたい深い理解を生みます。
都市型美術館との比較で浮かび上がる瀬戸内アートの特質
都市型美術館との比較を通じると、この特異性はさらに際立ちます。都市美術館では、展示作品は外部環境と切り離され、静謐で制御された空間の中で作品と向き合うことが一般的です。これは作品自体の保存・展示にとっては理想的ですが、文化観光としての没入感や地域文化との結びつきは必ずしも強くありません。訪問者の滞在時間は比較的短くなりがちで、移動や地域環境が体験価値に占める比重も小さくなります。
一方、瀬戸内アート観光圏では、島へ向かうフェリー移動から鑑賞体験が始まっています。港に降り立ち、島内を歩く中で自然と出会い、作品に向き合うプロセスそのものが体験の核として機能します。移動が鑑賞の一部となり、屋外と屋内がシームレスにつながり、作品が島全体に点在することで、訪問者の全身が環境と作品の双方に開かれた状態になります。こうした体験は、単なる視覚的鑑賞にとどまらず、身体感覚や土地の記憶と強く結びついた深い鑑賞を促します(Richards, 2018)。
越後妻有の大地の芸術祭も、アートと風景を融合した優れた事例として知られていますが、その体験は広域の里山環境に分散したものであり、「島」という完結した地理的単位が持つ没入性とは異なる性質を持っています。瀬戸内海では、海によって区切られた空間が「一つの作品世界」を形成し、訪問者は島というまとまりのある文化空間の中で作品を体験します。この「島の完結性」は、環境統合型アート体験にとって大きな強みです。
また、金沢や京都のように豊かな文化資源を有する都市であっても、現代アートと環境がここまで連続的に融合した構造は見られません。これらの都市では、歴史文化の蓄積は大きな魅力ですが、現代アートが地域の風景や生活空間と完全に一体化した体験は限定的です。瀬戸内海では、歴史文化ではなく、現代アートが環境と結びついて地域の新たな価値を創出しており、文化観光の国際的潮流と合致した特徴を備えています。
まとめると、瀬戸内海の環境統合型アート体験は、文化観光研究で重視されるAuthenticityとSense of Placeの両方を高い次元で満たしており、都市型美術館では得られない独自性を生み出しています。作品と環境が相互に価値を生み出し、島という場そのものが鑑賞装置となる体験は、瀬戸内アート観光圏に特有の魅力であり、文化観光の成功モデルとして評価される理由となっています。
特筆すべき点③:広域ネットワークとして成立する瀬戸内アート観光圏の構造
瀬戸内アート観光圏のもうひとつの大きな特徴は、複数の島々と港湾都市、そして航路が連動しながら、広域的な文化観光ネットワークを形成している点にあります。多くの美術館や文化観光地は単一の拠点を中心に成立しますが、瀬戸内海のアート群島では、訪問者の移動そのものが鑑賞体験の一部となり、島々を巡るプロセスが文化体験の価値を高めています。このようなネットワーク型観光は、文化観光研究の視点でも重要な意味を持っており、地域経済への波及効果を高める構造を備えています。本節では、こうした広域ネットワークの意義を、公的データと学術研究を踏まえて体系的に整理します。
瀬戸内国際芸術祭が生み出す広域的な経済効果
まず、瀬戸内国際芸術祭が地域全体に与える経済効果を見てみると、ネットワーク構造の存在が具体的な数値として理解できます。日銀高松支店の分析によれば、2022年の芸術祭は約103億円の経済波及効果を生み出しました。この金額は単に島内での消費が増えたという範囲を超え、島外・県外へと広く支出が波及した結果です。多くの来訪者が複数の島を回遊し、高松や宇野などの港湾都市を拠点として移動することで、宿泊、飲食、交通、港湾関連サービスなど、多様な産業に消費が分散していきます。この構造は、一点集中型の観光地にはない、広域的な経済循環の可能性を示すものです。
香川県が公表する関連データからも、芸術祭の開催年には直島・豊島・犬島・女木島・男木島など、特定の島に偏らず広範囲で入込客数が増加する傾向が示されています。港湾都市である高松港や宇野港でも利用者数が増加し、島と都市が一体となって観光の流れを形成していることがわかります。この「複数の拠点が同時に機能する」という点は、文化観光の持続性にとって極めて重要です。単一の美術館や地域に依存する場合、その場所の容量を超えると混雑や環境負荷が課題になりますが、瀬戸内海では回遊性によって負荷が自然に分散されます。
文化観光研究が指摘する“ネットワーク型観光”の重要性
この広域的な観光行動は、文化観光研究が指摘する「ネットワーク型観光」の重要性とも一致しています。Richards(2018)は、文化観光は複数の目的地を横断することで学習効果が高まり、旅程全体の体験価値が向上すると述べています。瀬戸内アート観光圏では、島ごとに異なる作品、建築、生活文化が存在し、訪問者はそれらを比較しながら意味を積み重ねることができます。直島で現代美術と建築の融合を体験し、豊島で自然とアートが溶け合う空間を楽しみ、犬島で産業遺産と現代アートの関係性に触れるといったように、島ごとに固有の文脈が存在し、それが文化的学習を深める構造を形成します。
さらに、瀬戸内海では“海路”が観光体験そのものに深く関わっています。芸術祭を訪れる観光者の多くはフェリーを利用して島々を移動しますが、このフェリー移動が単なる交通手段ではなく、旅の物語性を形成する重要な要素になっています。港に降り立つ瞬間の高揚感や、海を越えて作品へ向かう導線は、作品鑑賞の前後に「体験としての余白」を生み出します。このように、移動のプロセスが文化体験の一部として記憶される構造は、陸路中心の都市観光では必ずしも得られるものではありません。移動が体験の価値に直接影響を与えるという点で、瀬戸内アート観光圏は特異な位置づけにあります(Richards, 2018)。
越後妻有の大地の芸術祭も広域的なアート体験として知られていますが、瀬戸内海との大きな違いは「海でつながる連続性」が存在するかどうかです。越後妻有は広域に点在する里山環境を巡る構造を持っていますが、島と島を海路で移動する体験は、瀬戸内海ならではの「文化回廊」として機能しています。また、スペインのビルバオのように単館の美術館を中心に都市再生を図るモデルとは異なり、瀬戸内海のアート観光圏は複数の資源が水平に接続される形で価値を形成している点に独自性があります。
このように、瀬戸内アート観光圏は、複数の島々と港湾都市が文化資源としてネットワーク化されることで、体験価値と経済効果の双方が高まる構造を備えています。文化観光は地域資源を消費しない持続型の産業とされ、分散された観光行動は環境負荷の低減にもつながります(Richards, 2018)。瀬戸内海のアート群島では、その持続性がネットワーク構造によって強化されており、地域全体の活力を高める基盤として機能しています。こうした広域ネットワークは、単なる観光の枠を超え、「文化回廊」として長期的な価値を地域に創出しているといえます。
特筆すべき点④:良質な観光(Value-Based Tourism)の成立
瀬戸内海のアート観光圏は、単に来訪者数の増加や観光消費の拡大を目指すものではなく、地域文化と向き合いながら価値を共有する「良質な観光」を実現している点に大きな特徴があります。観光が地域にもたらす影響には、経済的な側面だけでなく、文化的・社会的な側面が含まれます。瀬戸内海では、アートを媒介として訪問者が地域文化を深く理解し、文化資源への敬意に基づいた観光行動が形成されることで、地域の持続可能性に寄与する価値重視型の観光が成立しています。本節では、その構造を文化観光研究の議論と照合しながら整理します。
文化観光は地域の持続可能性に貢献する
まず、文化観光が地域の持続可能性に貢献する仕組みを理解するためには、大量観光(Mass Tourism)との構造的な違いを明確にする必要があります。大量観光では、短時間滞在、表層的な消費、観光地への人口集中による環境負荷といった特徴が生じがちです。消費行動が特定の場所に集中することで、混雑や景観破壊、地域住民との摩擦が発生しやすく、地域の長期的な発展と調和しない場合があります。
一方で文化観光は、来訪者が地域文化や歴史的背景を学びながら、丁寧に地域と関わる構造を持っています(Richards, 2018)。作品鑑賞を通じて地域の文化資源が再評価され、訪問者の学習意欲が高まることで、消費行動もより分散される傾向にあります。また、地域文化に対する敬意や理解が深まることで、観光行動全体が持続可能な方向へと導かれます。文化観光は、経済的消費だけでなく、文化的理解・地域アイデンティティへの共感といった非金銭的価値を生み出す点で、地域の文化資源を消費するのではなく強化する観光形式であるといえます。
さらに、瀬戸内海のような小規模島嶼地域では、文化観光の利点がより顕著に現れます。島は人口規模が小さく、生活空間が観光エリアと近接しているため、観光が地域の生活文化に影響を与えやすいという特徴があります。大量観光による急激な混雑は生活環境の悪化につながりますが、文化観光では来訪者数が分散し、鑑賞のプロセス自体が滞在の深さを促すため、地域への負荷を抑えながら価値を高めることが可能です。アートと生活が近接している瀬戸内海では、観光が島の文化や景観を破壊するのではなく、むしろその価値を再確認し、次世代に継承していく基盤として機能します。
瀬戸内海で創出される社会的価値
次に、瀬戸内海で創出されている社会的価値について整理します。特に重要なのは、古民家再生と文化資源保全の実践です。直島の家プロジェクトは、老朽化した家屋や空き家をアート作品として再生する取り組みですが、単なる観光施設としての活用にとどまらず、地域の生活文化や歴史を保持したまま現代的な価値を付与する点に特色があります。古民家を修復する過程で地域の建築技術や生活文化が再評価され、地域の文化資源が持続可能な形で更新されていきます。このような取り組みは、地域の文化DNAを維持しつつ新たな価値を創出する文化観光の理想的な形として高く評価できます。
また、瀬戸内国際芸術祭を契機に、島民の文化的誇りが高まったとする調査研究も報告されています。外部から訪れる鑑賞者が島の文化や風景に高い関心を寄せることで、住民自身が地域文化の価値を再認識し、文化的アイデンティティが強化されるという現象です。これは、文化観光が外部評価を通じて地域内部の価値認識を高める働きを持つことを示しています(Richards, 2018)。自分たちの住む地域が国内外から評価されることで、島民の文化的自信が高まり、新たな地域活動や文化継承の動きが生まれるなど、観光と地域社会の関係性がより積極的なものへと変化します。
さらに、参加型・学習型観光の増加も瀬戸内海の特徴です。島民によるガイドツアー、滞在型プログラム、芸術祭ボランティア、地域文化を学ぶワークショップなど、訪問者が地域と関わる幅が広がっています。観光が単なる「見る」体験から、「参加する」「学ぶ」体験へと発展することで、訪問者の文化理解が深まり、滞在価値が高まります。こうした学習型観光は、繰り返し訪れるリピーター層の増加や長期滞在の誘発にもつながり、地域ブランドの強化にも寄与します。
最後に、これらの価値重視型観光が瀬戸内海全体の持続可能性を支えている点を強調したいと思います。文化観光は地域資源を消費せず、むしろその価値を高める方向へ作用するため、長期的な地域発展に適した観光モデルです。瀬戸内海のアート拠点では、島々の文化・生活環境とアートが共存することで、文化的価値と社会的価値が同時に創出されており、良質な観光の実践例として国内外から注目されています。これらの実践は、地域文化を尊重する観光のあり方として、多くの文化観光地域に示唆を与えるものです。
特筆すべき点⑤:公共×民間×住民の長期協働
瀬戸内海のアート観光圏が持つ最も重要な特徴の一つは、公共セクター、民間企業、そして地域住民が長期的に協働し続けてきた点にあります。多くの文化観光プロジェクトが短期間で終了しがちななか、瀬戸内海では30年以上にわたり文化投資と地域連携が継続され、文化観光圏としての基盤が年々強化されてきました。文化観光は、公共・民間・住民のいずれか一者のみで成立するものではなく、三者が役割を分担しながら共同で文化価値と経済価値を形成する仕組みが重要です。本節では、その協働構造の意義を、文化観光研究の議論と照合しながら整理します。
文化観光ガバナンスの説明
まず、文化観光ガバナンスの観点から、公共と民間、そして住民の役割を位置づける必要があります。Richards(2018)は、文化観光は本質的に「公民連携」を前提とした領域であると指摘しています。公共は制度整備やインフラ整備を担い、民間は投資や事業運営を担い、住民は地域文化・生活文化という文脈そのものを提供します。文化観光は、これら三者の連携によって初めて地域の文化資源を維持し、訪問者に価値を提供することが可能になります(Richards, 2018)。瀬戸内海のアート観光圏は、まさにこの三者協働が長期的に継続されてきた稀少な事例といえます。
民間企業の継続投資という点では、ベネッセアートサイトの取り組みが象徴的です。1990年代から始まった美術館整備や家プロジェクト、宿泊施設の運営などは、単発的なイベントではなく「文化資源としての美術館群を育てる」という視点に基づいています。ベネッセハウスや地中美術館などの施設は、完成して終わりではなく、その後も長期運営を続け、収益を再投資して文化的価値を更新していく仕組みを採用しています。こうした民間による30年以上の継続投資は国内外でも希少であり、文化観光圏の安定運営に欠かせない基盤となっています。
さらに、公共セクターの役割も非常に大きいものがあります。香川県や岡山県、直島町を含む各自治体は、港湾整備や航路の維持、公共交通の導線整備などを継続して行ってきました。島嶼地域では交通インフラが文化観光の生命線となるため、航路の安定運航や港湾の整備は美術館整備と同じくらい重要です。自治体は文化政策と観光政策を連動させる形で長期協働の枠組みを構築し、アート観光の基盤整備を続けてきました。公共・民間・住民の三者が役割を分担しながら進めるこの体制こそ、文化観光ガバナンスの理想形といえます(Richards, 2018)。
持続型文化観光モデルとしての位置づけ
次に、この長期協働がどのように持続型文化観光モデルを生み出しているかを考えます。瀬戸内海の文化プロジェクトは、1980年代末の構想段階から現在まで30年以上継続しており、この長さ自体が非常に貴重な特徴です。短期的な芸術祭やイベントでは、文化が地域に定着する前に事業が終了してしまうことが多く、地域住民の学習効果や文化理解が積み重なる前に活動が終わる傾向があります。これに対して瀬戸内海では、美術館や作品、宿泊施設、島全体に広がるアートプロジェクトが長期にわたり蓄積され、文化資本としての価値が積層化されています。
国内外の芸術祭と比較すると、この違いはさらに明確になります。多くの芸術祭は数年間のみ開催されるか、継続してもイベント中心で、作品の恒常展示や基盤整備が十分に行われない場合があります。そのため、地域への文化定着や観光の持続性に限界が生じやすい構造を持っています。ところが瀬戸内海では、恒常的な美術館や作品群が常に島に存在し、芸術祭はその周囲に重層的な文化的意味を加えていく役割を持っています。この「恒常的な文化インフラ」の存在は、文化観光研究において成功条件とされる要素であり(Richards, 2018)、短期イベントでは実現できない価値を生み出しています。
また、長期協働は地域経済にも持続的な影響を与えています。直島、豊島、犬島などでは、島内の飲食業、宿泊業、ガイドサービス、文化NPOなどが文化観光を基盤として成長しており、地域内で消費が循環する文化経済圏が成立しています。芸術祭の開催年だけでなく、平常時にも観光者が訪れることで、島の経済活動は年間を通じて安定し、文化観光が地域の生活やコミュニティ活動にも影響を与えるようになっています。
このように、瀬戸内アート観光圏は、公共・民間・住民の三者協働によるガバナンスによって長期的に文化価値を蓄積し、持続型の文化経済圏を形成してきました。短期イベントではなく、恒常的な文化インフラと長期的な協働を前提にした文化観光モデルとして、国内外に示唆を与える重要な事例になっているといえます。
まとめ ― 瀬戸内アート観光圏が示す文化観光の未来像
本記事では、瀬戸内海のアート観光圏がどのように独自の文化観光モデルを形成してきたのかについて、環境・広域ネットワーク・社会的価値・ガバナンスといった多角的な視点から整理してきました。最終節では、これらの特質がどのように統合され、持続可能な文化観光の姿を示しているのかを総合的に振り返ります。
まず、瀬戸内海の文化観光モデルを支える第一の柱は、自然環境とアートが一体化している点です。島という地理的条件と現代アートの組み合わせは、都市型美術館では再現できない独特の「場所性」を生み出しています。海、光、風、集落の文化が作品の鑑賞体験に深く作用し、訪問者は「作品を見る」のではなく「環境とともに作品を体験する」形で関わります。この環境統合型アート体験は、文化観光が重視する本物性や記憶の形成に強く働く要素であるとされています(Richards, 2018)。
第二の柱は、複数の島と港湾都市がつながる広域ネットワーク構造です。直島、豊島、犬島に加え、高松や宇野といった港湾都市も文化回廊として機能し、訪問者の移動が体験価値を高めながら地域経済の広い範囲に波及しています。日銀高松支店が示す芸術祭の経済波及効果は100億円を超え、文化観光が地域にもたらす影響の広がりを裏付けています。文化観光の価値が「一つの施設」ではなく「ネットワーク全体」で生み出されている点は、この地域の大きな特徴です。
第三の柱として、瀬戸内海では「良質な観光(Value-Based Tourism)」が成立している点が挙げられます。家プロジェクトに代表される古民家再生は、地域文化を破壊するのではなく保存しながら再解釈する取り組みです。また、島民が自らの文化に誇りを持ち、外部からの鑑賞者との対話を通じて文化的アイデンティティを再確認する過程が見られます。参加型・学習型の観光が増加することで、来訪者が地域文化を理解しながら関わる構造が定着し、文化観光が地域社会と共存する形で発展しています(Richards, 2018)。
そして第四に、公共・民間・住民の長期協働が瀬戸内海の文化観光圏を支えてきました。ベネッセの継続投資、美術館運営、宿泊施設の整備、作品保存などの民間投資と、自治体による港湾整備や航路維持、交通インフラ整備が相互補完的に機能しています。これらは短期的イベントではなく、恒常的な文化インフラ形成を志向した取り組みであり、文化観光研究が指摘する「公民連携による文化価値創出」の端的な例といえます(Richards, 2018)。30年以上続いてきたこの仕組みは、国内外の芸術祭と比較してもきわめて稀少な継続性を持ち、持続型文化観光の成功要因を示すものとなっています。
こうした多層的な要素が重なり合うことで、瀬戸内海は「作品を見る観光」から「地域とかかわる観光」へと進化しています。訪問者は作品鑑賞だけでなく、島の生活文化、自然環境、移動の物語性、地域住民との交流を通じて体験価値を積み重ねます。文化観光が地域の生活文化やコミュニティと連続しながら発展している点は、この地域が持続可能な文化観光モデルとして評価される理由のひとつです。
総じて、瀬戸内海のアート観光圏は、自然環境、広域ネットワーク、社会的価値、ガバナンスの各要素が統合されることで、文化観光の未来像ともいえる姿を提示しています。この地域は今後も、文化の継承と観光者の学習体験を深めることによって、持続可能な文化観光の理想形を更新し続ける可能性が高いといえます。
参考文献
- Richards, G. (2018). Cultural tourism: A review of recent research and trends. Journal of Hospitality and Tourism Management, 36, 12–21.
- Silberberg, T. (1995). Cultural tourism and business opportunities for museums and heritage sites. Tourism Management, 16(5), 361–365.
- Stylianou-Lambert, T. (2011). Gazing from home: Cultural tourism and art museums. Annals of Tourism Research, 38(2), 403–421.
- 日本銀行高松支店. (2022). 『瀬戸内国際芸術祭2022の経済波及効果について』.

