アーティストはなぜイノベーションを生むのか サルバドール・ダリとチュッパチャプスのロゴ誕生にみるアート思考とブランド戦略

目次

はじめに

現代の組織が直面する課題は、これまで以上に複雑で、単純な因果関係では捉えきれないものが増えています。市場や技術の変化が急速に進むなかで、既存の知識体系や分析手法だけでは十分に対応できない場面が多くなり、企業は「正解のない問題」を扱う能力を求められています。こうした状況の中で注目されているのが、アーティストの思考や実践を参照しながら組織の発想を転換させる「アート思考」と呼ばれるアプローチです。アート思考は、従来の論理的枠組みだけでは捉えられない問いを設定し、新しい可能性を切り開く力として多くの領域で取り上げられ、経営学においてもその価値が議論されるようになりました(Berthinier-Poncet et al., 2025)。

一方で、アーティストと企業経営という組み合わせは、いまだに多くの人にとって直感的に結びつきにくいものかもしれません。芸術家は自由な発想や表現を重視し、企業は計画性や効率性を重んじると考えられがちです。両者の距離は遠いように感じられ、アーティストが組織のイノベーションに関与することは例外的な出来事として捉えられる傾向があります。しかし、歴史を振り返ると、著名なアーティストが商業デザインや企業のブランド戦略に大きな影響を与えた例は決して少なくありません。企業が外部から新しい視点を取り入れようとする姿勢は、今日に限られず、過去にも繰り返し見られてきた現象だといえます。

その代表的な事例として、サルバドール・ダリがチュッパチャプスのロゴをデザインしたエピソードは特に広く知られています。超現実主義を代表する芸術家であるダリが、子ども向けキャンディのロゴ制作に関わったという出来事は意外性に満ちていますが、その背後には、創造性や視覚的発見がどのようにブランド価値や商品戦略を形づくっていくのかという重要な示唆が含まれています。一見軽やかな逸話のように語られるこのエピソードは、実際にはアーティストの思考がイノベーションに貢献する仕組みを理解するための格好の教材となります。

本記事では、このダリとチュッパチャプスのロゴ誕生の過程を、できる限り詳細にたどりながら、アーティスト思考が企業のイノベーションをどのように支えているのかを明らかにしていきます。さらに、経営学の最新研究が示す三段階モデル(Sensing・Seizing・Transforming)を組み合わせることで、ダリの行為がどのようなメカニズムを通じて戦略や組織文化に影響を与えたのかを検討します。ダリの事例は、単なる歴史的逸話にとどまらず、現代の組織が創造性をどのように活かすことができるのかを考えるための重要な手がかりとなるはずです。

サルバドール・ダリとチュッパチャプスロゴの誕生

棒付きキャンディの開発とロゴ刷新の課題

1950年代のスペインでは、都市化の進展とともに消費文化が広がり、菓子製品も多様化していました。しかし、当時の飴は包装が十分でなく、子どもが手を汚しながら食べることが一般的でした。そこで、起業家エンリケ・ベルナトは、飴に棒をつけることで「手を汚さずに食べられる商品」をつくり出し、これが後に世界中で親しまれるチュッパチャプスの原型となりました。棒付きキャンディというアイデアは衛生面と利便性の両方を満たす革新的発想であり、市場に迅速に受け入れられました。しかし、製品そのものが成功を収める一方で、ブランドを象徴するロゴやパッケージデザインには課題が残されていました。初期のロゴは「Chups」の文字を主とするシンプルなものでしたが、視認性が低く、広告展開や国際市場を意識したときに統一的なメッセージを生み出しにくいものでした。

この時期、ベルナトはブランドを大きく成長させるためには、より強い象徴性を持ち、どの国の消費者にも理解されやすいロゴが不可欠であると考えていました。特に、当初のロゴはパッケージのどの面に置くのが最適かが曖昧で、店頭販促や量販店での陳列において効果が限定的でした。ロゴの一貫性が欠けていると、商品がどれだけ優れていても認知が広がりにくいという問題があります。こうしたブランド戦略上の課題は、後にサルバドール・ダリが解決へと導く重要な前提条件となりました。

ダリに依頼が届いた背景

ダリにロゴ制作の依頼が届いた背景には、複数の要因があります。1960年代のダリは、絵画作品だけでなく、広告、映画、ファッションなど多様なメディアを横断する創作活動に取り組んでいました。アートと生活を結びつけることへの関心が強かったダリは、商業デザインの領域にも積極的に関わり、独自の美的感覚を社会へ広く開いていこうとしていました。こうした姿勢は、それまで芸術家の業域とみなされていなかった商業領域に対して、ダリが積極的な姿勢を持っていたことを示しています。

さらに、ベルナトとダリが知人関係にあったことも依頼が実現した理由の一つとされています。企業側から見ても、世界を代表する芸術家が関わるデザインは大きな話題性を持ち、ブランドに象徴的な価値を付与する可能性を秘めていました。つまり、ダリを起用することは、単なるデザイン依頼ではなく、ブランドそのものの未来を見据えた戦略的判断でもあったのです。

ナプキンに描かれたスケッチという逸話

ダリがチュッパチャプスのロゴを考案した際の有名なエピソードとして、「昼食中にナプキンへスケッチした」という話があります。ベルナトがロゴ刷新の相談を持ちかけた際、ダリはその場で紙ナプキンを手にとり、花の形をした輪郭の中に「Chupa Chups」という文字を収めたデザイン案を描き上げたとされています。この作業はわずか1時間ほどで行われたともいわれ、即興的な創作でありながら、完成度の高い視覚的アイデアが含まれていました。

このエピソードは広く伝えられていますが、一次資料は限定的であり、企業史の中で象徴的な物語として強調されてきた側面もあります。それでもなお、この物語が繰り返し語られるのは、創造行為の本質を捉えているからです。芸術家の即興性と直観的判断が、商業デザインにおいても大きな力を持つことを示す象徴的な事例として、今日に至るまでブランド史の中で語り継がれています。ミュージアムの展示解説でもしばしば見られるように、物語性はブランドイメージを強化する重要な役割を果たします。

花形フォルム・色彩・上面配置が生んだ革新

ダリが考案したロゴの特徴の中でも、特に注目されるのが「花形フォルム」「赤と黄色の配色」「ロゴの上面配置」という三点です。まず花形フォルムは、キャンディ本体の丸みを自然に引き立て、視覚的に統合された商品デザインをつくり出す役割を果たしました。飴の形とロゴが調和し、消費者が手に取った際にも違和感のない印象を与える点で画期的でした。また、赤と黄色の強いコントラストは、遠くから見た際の視認性を高め、子どもから大人まで幅広い層に訴求しやすい特徴を備えていました。さらに、この配色はスペイン文化を象徴する色でもあり、国際市場へ展開する際に「スペイン発のブランド」というイメージを与える要素として効果的に作用しました。

そして、最も革新的だったのがロゴをパッケージの上面に配置するという発想でした。当時のキャンディの多くはロゴを側面に配置しており、陳列される際にはロゴが見えにくいという問題がありました。ダリはキャンディを「上から見られる物体」として捉え直し、ロゴが最も目立つ位置を選びました。これにより、商品が棚に並んだ際の視認性が大幅に高まり、消費者が一目でブランドを認識できるようになりました。さらに、包装が多少歪んでもロゴの形が崩れにくいため、ブランドの統一性を保ちやすいという実務的利点も生まれました。これはまさに、アーティストが問題の枠組みを再構成し、新しい可能性を提示する典型的な発想でした。

ブランド戦略としてのダリのデザイン

ダリのデザインは、単に視覚的に優れていただけでなく、ブランド戦略全体にも大きな影響を与えました。花形ロゴと鮮やかな配色は広告や店頭プロモーションと一体化し、チュッパチャプスのアイデンティティを強固なものにしました。加えて、「サルバドール・ダリがデザインしたロゴ」という事実そのものがブランドに象徴的な価値を与え、商品を文化的に位置づける役割を果たしました。国際市場においても、このロゴは瞬時に識別できる強い視覚的記号として認知され、言語や文化の壁を越えて広がりやすい特性を持っていました。結果として、チュッパチャプスのロゴは半世紀以上にわたりほとんど変更されることなく使用され続け、ブランドの信頼性と安定性を象徴する存在となっています。

このように、ダリがもたらしたデザインは視覚的な創造性だけでなく、企業文化の変革やブランド戦略の長期的基盤に深く関わっていました。本節で見てきた歴史的経緯とデザインの特徴は、次節で扱うアート思考の三段階モデル(Sensing・Seizing・Transforming)を具体的に理解するための重要な前提となります。ダリの事例は、アーティストの思考がどのように企業の枠組みを揺さぶり、製品やブランドのあり方を変革するかを示す実践的教材であり、現代の組織がイノベーションを考えるうえでも示唆に富む事例だといえます。

アーティストはなぜ企業のイノベーションに貢献できるのか

企業が直面する問題が複雑化し、従来の枠組みでは解決が難しくなっている今日、アーティストの思考やアプローチに注目が集まっています。現代の組織は、不確実性の高い状況のなかで新しい価値を生み出す必要があり、データや論理だけでは対応しきれない局面が増えています。こうした環境では、前提を問い直し、新しい見え方を提示する能力が求められます。アーティストは、既存の枠組みや慣習にとらわれない発想を持ち、問題そのものを再構成する力を備えている点で、イノベーションの重要な担い手として注目されています(Berthinier-Poncet et al., 2025)。

アーティストが組織にもたらす価値の中でも特に重要なのが、「異質性」を内部に持ち込む力です。アーティストは、日常的に物事を別の角度から観察し、本質を捉えるための独自のプロセスを持っています。そのため、企業が慣れ親しんだ思考パターンを揺さぶり、隠れた可能性や未解決の問題を浮かび上がらせることができます。これは、単に新しいアイデアを提供するというよりも、組織が設定している問いそのものを変化させる働きといえます。サルバドール・ダリがチュッパチャプスのロゴを「上から見られるもの」と再解釈したことは、この発想の転換を象徴する例であり、製品理解の根本を見直す視点をもたらしました。こうした視覚的・概念的な再構成は、アーティストならではの特徴だといえます。

アート思考を理解するためには、アーティストの思考プロセスを段階的に捉える視点が役立ちます。経営学では、アーティスト的な関わりが企業にもたらす影響を説明するために、Sensing・Seizing・Transforming の三段階モデルが提示されています(Berthinier-Poncet et al., 2025)。これは、まず新しい見え方に気づき(Sensing)、それを形として定着させ(Seizing)、最終的に組織の文化や行動を変化させる(Transforming)という一連のプロセスを示しています。この枠組みを用いることで、アーティストが果たす役割を単なる“発想の提供者”としてではなく、組織に変革をもたらす存在として理解することが可能になります。

ダリのチュッパチャプスロゴ制作は、この三段階を考えるうえで非常に示唆に富む事例です。ダリはキャンディを別の角度から捉え直し、商品の視認性という課題を新しい発想で読み替えました。この発見がロゴデザインへと形になり、最終的にはブランド戦略や企業文化にまで影響を与えています。アーティストの行為をこのような枠組みの中で捉えることで、創造性がどのように組織の内部へ浸透し、長期的な価値を生むのかが見えてきます。

Sensing ― アーティストが“新しい見え方”をもたらす

Sensingとは何か

企業がイノベーションを生み出す際には、まず「何が問題なのか」を適切に把握し、既存の前提を問い直すことが欠かせません。この初期段階に相当するのが、経営学で「Sensing」と呼ばれるプロセスです。Sensing とは、新しい機会や潜在的な価値を“感知する”行為であり、組織の慣習や固定化した枠組みに揺さぶりをかける働きを指します(Berthinier-Poncet et al., 2025)。この段階で重要なのは、正確な答えをすぐに導き出すことではなく、問題そのものを再構成し、多様な可能性を広げる視点を持つことです。アーティストは、この段階に特有の能力を備えており、従来の発想では見落とされがちな要素を発見し、組織が抱える課題を異なる角度から解釈する役割を果たします。

アーティストは、日常的に曖昧さや未整理の情報と向き合いながら創作を行うため、物事を固定的に捉えずに捉え直す力を持っています。これは、分析型思考が優勢な組織の中では得がたい視点です。組織内部にいると、長年続いている慣習や業界の常識が“当たり前”として受け止められやすく、疑問を抱く機会が少なくなります。しかしアーティストは、この「当たり前」を必ずしも共有していません。むしろ、既存の前提を意図的に外し、ものの見え方をずらすことで、新しい問いを生み出そうとします。この「異化(defamiliarization)」の働きが、Sensing の中核をなしています。

ダリの行為にみる Sensing の特徴

サルバドール・ダリのチュッパチャプスロゴ制作においても、Sensing の特徴が顕著に表れています。ベルナトがロゴ刷新を依頼した際、ダリは単に文字の形や色を整えるのではなく、キャンディそのものを新しい視点から見つめ直しました。当時、市場に流通していたキャンディのロゴは側面に配置されることが一般的であり、企業側も当然その前提に従ってロゴを考えていました。しかし、ダリはこの前提にとらわれず、キャンディを「上から見たときに最も視認性が高くなるようにするべきだ」という発想を提示しました。これは、商品が実際にどのように見られているかという消費者の視点を強く意識したものであり、既存の枠組みを超えて問題を再定義した瞬間でした。

企業が見落としていた“視点の盲点”

ダリがロゴを上面に配置した発想は、企業が気づいていなかった“視点の盲点”を突いていました。特に棚に陳列された際、消費者の視線は商品上部に向かうことが多く、側面ロゴだとブランド名が正しく認識されにくいという問題がありました。この盲点に気づくには、単に市場分析を行うだけでは不十分であり、商品との関わり方を体験的に捉える必要があります。アーティストは物事を観察する際、意味が固定化される以前の状態に戻して理解しようとします。この姿勢が、企業が習慣的に見逃していた要素を浮かび上がらせるのです。ダリが行ったのは、新しいロゴの創造というよりも、企業が抱えていた“本当の問題”を明らかにする作業だったといえます。

Sensing がブランド戦略に与えた影響

このように、Sensing とは単なる気づきではなく、組織の状態を根底から揺さぶり、価値の源泉となる視点を獲得するプロセスです。ブランド戦略においても、消費者が商品に接触する場面を丁寧に読み解き、新しい意味を与えることは極めて重要です。ダリの場合、ロゴの上面配置という発見は、ブランド価値を大きく高める契機となりました。花形フォルムや赤と黄色の配色と組み合わさることで、ロゴ自体が強力な視覚的記号へと変化し、国際市場でも瞬時に識別できる特徴を持つようになりました。この視覚的効果は、戦略的デザイン思考とアート思考の中間領域に位置するものであり、アーティストが企業にもたらす価値が実務的な成果に直結した例といえます。

さらに、Sensing は次の段階である Seizing の起点となります。どれほど優れた発見であっても、それを形にしなければ組織に影響を与えることはできません。しかし、形にするためにはまず「何を価値として捉えるか」を明確にしなければなりません。ダリが行った上面ロゴの提案は、この価値の再定義を可能にするものでした。企業側が見逃していた視点を提示することで、ブランド戦略の方向性を一気に変化させる力を持つからです。つまり、Sensing は単発のひらめきではなく、後続の Seizing や Transforming の段階を支える基盤を形成する行為として理解する必要があります。

ダリの事例を通して理解できるように、アーティストの Sensing 能力は、既存の前提に依存しない柔軟な見方によって成り立っています。これは芸術作品の創作に限らず、企業の新商品開発、サービス設計、ひいては文化組織における展示構想などあらゆる領域で応用可能です。Sensing によって得られた視点は、組織の思考を拡張し、今まで気づかなかった価値を見出す手がかりとなります。この段階が適切に機能すれば、組織は後続の Seizing や Transforming の段階へスムーズに進むことができ、長期的なイノベーションを育む基盤を固めることができます。

Seizing ― 気づきを「形」にするアート思考の力

Seizingとは何か

Sensing の段階で得られた気づきは、それ自体ではまだ組織の成果につながりません。イノベーションを実現するためには、その気づきを“形として定着させる”プロセスが必要になります。この段階を経営学では「Seizing」と呼び、発見を価値提案へと転換し、戦略・デザイン・意思決定に落とし込む行為として位置づけています(Berthinier-Poncet et al., 2025)。Seizing は、アイデアを単に表現に置き換えるだけではなく、組織内部で共有可能な形に整え、具体的に採用できる状態にすることを意味します。この段階では、曖昧さの中にあった発見を明確な判断として収束させる「選択」と「集中」が求められます。アーティストは、創作の過程で曖昧性を保持しながらも最終的には表現を一つの形に結実させる訓練を積んでおり、Seizing という段階において高い能力を発揮します。

ダリのロゴ制作にみる Seizing のプロセス

サルバドール・ダリのチュッパチャプスロゴ制作は、この Seizing の働きを理解するうえで非常に示唆に富んでいます。ダリは、キャンディを上面から見たときの視認性を高めるという Sensing の気づきを、具体的なロゴデザインとして即座に可視化しました。まず、花形のフレームを採用したことは、単なる装飾ではなく、丸いキャンディの形状と視覚的な整合性を持たせ、ロゴ全体に統一感をもたらす意図に基づいていました。この輪郭は包装の歪みに左右されにくく、どの角度から見てもロゴの識別性が損なわれにくい特徴があります。

次に、赤と黄色の配色は、遠距離からの視認性に優れ、店頭での注意喚起効果が高いだけでなく、スペインの大衆文化のイメージとも結びつくものでした。色彩が単なる美的選択ではなく、国際展開を見据えた戦略的判断として位置づけられている点は、Seizing の本質をよく表しています。さらに文字配置においても、ダリは可読性と象徴性の両立を図りました。「Chupa Chups」という文字を花形フレームの中心へ寄せ、視覚的なまとまりと一貫性を保つことで、ブランドの核となるアイデンティティを形づくっています。この構成は、ロゴをどの方向から見ても主要な情報が欠けないように設計されており、消費者が商品を手に取ったときの体験を重視した判断だったと考えられます。

創造的判断がもたらす「一貫したデザイン」

これらの決断の総体が、ロゴを単なる商標ではなく「視覚的記号(visual signifier)」として機能させる要因となりました。つまりダリは、Sensing の段階で得た“視点の転換”を、Seizing の段階で整合的な視覚言語として結晶化させたといえます。花形フレームや赤と黄色の配色、中央集中型のレイアウトなどの要素は、偶然に組み合わされたものではなく、互いに補い合うように構成されています。これにより、ロゴ全体が一つの世界観を持ち、どのような文脈でもぶれない強度を備えることになりました。このような一貫したデザインは、アーティストが行う創造的判断の積み重ねによって生み出されています。

Seizing は意思決定プロセスである

Seizing において重要なのは、アーティストが持つ「決める力」です。創造性というと、自由な発想や多様なアイデアが強調されがちですが、創作の現場では、最終的に一つの形へ収束させる判断が不可欠です。ダリがわずか一時間ほどでスケッチをまとめ上げたという逸話は、即興性だけに注目されがちですが、本質的には「価値を感じ取った瞬間に、それを迷わず具体化できる能力」を示しています。この決断力こそが、組織の意思決定を加速させ、イノベーション実現への道筋をつくります。企業にとって、複数案を並列的に比較し続けることはしばしば意思決定の停滞を招きますが、アーティストのように価値の核を捉えて一案に収束する姿勢は非常に有効です。

ブランド戦略としての Seizing

Seizing の重要性は、ロゴが完成した後のブランド戦略にも表れています。ダリのロゴによって、チュッパチャプスは明確で一貫した視覚アイデンティティを獲得しました。花形フレーム、赤×黄色の配色、中央集中型の文字配置が統合されることで、ブランド全体が一つの世界観を持ち、広告、パッケージ、店頭陳列において統一的な体験を提供できるようになりました。この一致性は国際市場への展開において特に有効で、言語や文化が異なる環境でも瞬時に識別される強さを生み出しました。つまり、Seizing はロゴという形を決める段階であると同時に、ブランド戦略の骨格を定める行為でもあったのです。

ダリの例が示しているのは、Seizing が単なる具体化の作業ではなく、組織の価値を長期的に方向づける意思決定のプロセスであるという点です。Sensing での気づきは曖昧で広がりを持っていますが、そのままでは戦略として機能しません。Seizing によって、気づきが「この方向で進むべきだ」という判断に変換され、組織が共有できる形に整えられます。ダリのロゴが半世紀以上ほとんど変えられていないことは、Seizing が極めて強固な価値を生み出した証といえます。優れた Seizing は、ブランドの本質を長期的に支える力を持つのです。

こうして見ると、ダリのロゴ制作は単なるデザイン行為ではなく、Sensing と Seizing の連続的なプロセスとして理解できます。気づきを抽象的なまま終わらせず、組織が実行可能な形に凝縮させた点に、アーティストの実践知が発揮されています。この段階が機能することで、次の Transforming(組織文化への定着)へと自然につながっていきます。Seizing は、創造性が実務のレベルへと橋渡しされる重要な節目であり、イノベーションの成否を左右する要素といえます。

Transforming ― 創造性が組織文化へと定着するプロセス

Transformingとは何か

イノベーションが一度の成功で終わらず、組織全体の持続的な価値へと発展するためには、発見(Sensing)と具体化(Seizing)だけでは不十分です。その後に必要となるのが、創造的な成果を組織内部へ浸透させ、行動や文化として定着させる段階であり、経営学ではこれを「Transforming」と呼びます(Berthinier-Poncet et al., 2025)。Transforming の特徴は、プロセスの焦点が個々の創造的判断から組織の制度や行動様式へと移る点にあります。つまり、イノベーションが「特定の人が持つ特別な才能」ではなく、「組織が繰り返し発揮できる能力」へと変換される段階です。この段階が適切に機能することで、創造性は一過性のものではなく、長期的な価値の源泉となります。

チュッパチャプスにおける Transforming の実際

チュッパチャプスにおけるダリのロゴデザインは、この Transforming を理解するうえでも非常に示唆的です。ダリのデザインは採用された後、単に商品パッケージに貼られただけではありませんでした。むしろ、そのロゴが企業のブランド戦略の核として活用されることで、組織全体へと変化が広がっていきました。まず、ロゴの使用基準が整備され、一貫した視覚アイデンティティ(VI)が組織内部に根づくようになりました。ロゴの色調、位置、サイズ比などが明確に定義され、どの製品ラインにも統一的に適用されるようになったのです。こうした標準化は、Transforming の重要な側面であり、創造的成果が個別の場面ではなく組織全体の仕組みとして活かされるための基盤となります。

また、ロゴを中心としたブランド戦略は広告や販促活動にも影響を与えました。ポスター、テレビ広告、店舗ディスプレイなど、あらゆるチャネルでダリのロゴが一貫して使われることで、消費者に強い記憶を残すブランド体験が形成されました。この連続的な接触はブランドの信頼性を高め、チュッパチャプスが単なるキャンディ商品を超えて、文化的記号として認識されるようになる契機となりました。Transforming の段階では、デザインが企業のメッセージ発信の中心に位置づけられ、ブランド価値全体を支える役割を果たすようになります。

Transforming を支えた組織的条件

ダリのロゴが半世紀以上ほとんど変更されていないという事実は、Transforming の効果を象徴するものです。ロゴが時代を超えて使用されるということは、その視覚要素が一過性の流行ではなく、企業文化として深く受け入れられたことを意味します。多くの企業が頻繁にロゴ変更を行う一方、チュッパチャプスのロゴが長期にわたり維持されてきた理由は、ダリのデザインが単なる外部委託の成果ではなく、企業内部にとって不可欠な資産として位置づけられたからです。この点は、Transforming が創造的成果を「組織の資本」へと変換する段階であることをよく示しています。

Transforming を理解するうえで重要なのは、企業が創造的成果を受け入れるための「組織的条件」です。ダリのロゴが広範囲に活かされた背景には、経営側がデザインの価値を理解し、それを戦略として統合しようとする姿勢がありました。ロゴの一貫性を保つためのガイドラインや審査プロセスが整備され、ブランド表現が個々の担当者の判断に委ねられず、組織全体で共有されるようになったのです。これにより、ロゴの乱用や改変が防がれ、ブランドの世界観が守られる体制が整いました。このような制度化は、Transforming が単なる“文化の変化”ではなく、具体的な組織能力の更新を伴うプロセスであることを示します。

アーティスト思考が組織文化に組み込まれるということ

さらに、Transforming の成果はブランドやパッケージに留まりません。視覚表現を中心に据える文化が組織内部に蓄積されることで、企業は今後のプロジェクトでもデザインを重視する姿勢を継続的に発揮できます。これは、創造性が組織の長期的能力として固定化されることを意味します。ダリのロゴによって形成された「視覚文化を重視する組織」という体質は、新商品の開発やマーケティング戦略にも影響を与え、企業の意思決定の方向性を変えるきっかけとなりました。Transforming は、創造的成果が“習慣”や“価値観”として根づく段階であり、ここまで達することで、イノベーションは持続的な力を持つようになります。

Transforming の長期的影響

このように、Transforming は単なるデザインの活用にとどまらず、組織文化の形成そのものに関わるプロセスです。Sensing と Seizing を経て生み出された創造的価値が、組織行動にどのように浸透し、長期的な成果へと結びついていくのかを示す段階といえます。ダリのロゴ制作は、この三段階を見事に経て、企業の内部へ深く根づくイノベーションを生み出しました。Transforming を理解することは、創造性が組織の中でどのように活かされ、どのように次のイノベーションの基盤をつくるのかを考えるうえで欠かせない視点となります。

アーティスト思考の本質と文化組織への示唆

アーティストの思考が企業のイノベーションに貢献できる理由は、単に独創的なアイデアをもたらすという点にとどまりません。むしろ重要なのは、アーティストが問題の捉え方そのものを変化させ、価値を新しい形で提示し、さらにそれを長期的な視点から位置づけ直す能力にあります。これまで見てきた Sensing、Seizing、Transforming の三段階モデルは、アーティスト思考の特質を整理するうえで有効ですが、その背後には共通する基盤があります。本節では、アーティスト思考の本質を四つの観点から整理し、文化組織にとっての示唆を明らかにしていきます。

アーティストは問題を“再定義”する

アーティスト思考の第一の特徴は、既存の前提をそのまま受け入れず、問題そのものを“再定義”する姿勢にあります。一般的なビジネスの意思決定では、与えられた課題をどのように効率よく解くかという「最適化」の発想が中心になります。しかしアーティストは、そもそも「この課題設定でよいのか」「別の角度から見れば違う問題が浮かび上がるのではないか」という根源的な問いから出発します。これは、Sensing の段階で説明した「問いの再構成」の働きと深く関係しています(Berthinier-Poncet et al., 2025)。

ダリがキャンディを“側面から見るもの”ではなく、“上面から視認されるもの”として理解し直したのは、その典型例です。この再定義がなければ、上面ロゴという発想は生まれませんでした。文化組織にとっても、展示やプログラムの課題設定を見直すことは重要であり、来館者をどのような文脈で捉えるかによって、企画の方向性は大きく変わります。アーティスト思考は、こうした“根本的な問い直し”を組織にもたらす力があるのです。

アーティストは価値を“視覚化”する

アーティスト思考の第二の特徴は、“価値の視覚化”です。アーティストは、抽象的で曖昧な概念を視覚的な形へと転換する能力に優れています。これは Seizing の段階で明らかになったように、発見を他者と共有できる形に整える上で重要な役割を果たします。

ダリの花形フレーム、赤と黄色の配色、中央集中型レイアウトは、単なるデザイン的技巧ではなく、ブランドの価値を「誰もが理解できる記号」として視覚化した例でした。視覚化は、意思決定のスピードを上げ、組織内部の共通理解を促し、さらにブランド体験に統一性を与える働きを持ちます。

文化組織においても、展示コンセプトやメッセージを視覚的形式へと落とし込む作業は不可欠です。展示空間、グラフィック、鑑賞導線といった要素が統合されることで、来館者にとって意味のある体験が生まれます。視覚化の力は、ミュージアム経営における表現の質を高める基盤になるといえます。

アーティストは組織の“時間軸”を変える

アーティスト思考の第三の特徴は、短期的成果にとらわれず“長期的価値”を見据える点にあります。Transforming の段階では、創造的成果が組織文化として定着するプロセスが重要になりますが、この定着を促すのは、アーティストが持つ象徴性や時間に対する独自の感覚です。

ダリのロゴが半世紀以上ほとんど変更されなかった理由は、そのデザインが単なる流行ではなく、長期的に通用する象徴的価値を持っていたからです。アーティストの視点は、成果がどのように未来へ響くのかという“時間軸”の再構成を組織に促します。文化組織においても、使命やビジョンの長期的構築は不可欠であり、アーティスト思考の“未来を見る力”は重要な示唆を与えます。

アート思考はミュージアム経営のイノベーションにも応用可能

アーティスト思考は企業だけでなく、ミュージアムのような公共文化機関にとっても大きな意味を持ちます。ミュージアムは多様なステークホルダーを抱え、来館者の価値観も複雑で変化が早く、正解のない課題に向き合うという点で、企業以上にアート思考と親和性の高い組織ともいえます。

アート思考を取り入れることで、展示企画、教育普及、ブランディングなど多くの領域で新しい視点を得ることができます。ダリの事例は、視点の転換(Sensing)、価値の視覚化(Seizing)、文化への定着(Transforming)という三つのプロセスが連続的に作用することで、組織に変革が生まれることを示しています。この構造は、文化組織にもそのまま応用可能であり、来館者体験の向上や組織戦略の再構築において参考となる枠組みとなります。

アーティスト思考は、単なる創造性の美化ではなく、組織が「見方を変える」「価値を表現する」「未来を設計する」という三つの働きを支える実践的知識です。ダリの事例は、その力学を理解するための具体的かつ象徴的な教材であり、企業・文化組織を問わず、イノベーションを考えるうえで有効な視点を提供します。

参考文献

Berthinier-Poncet, A., Chivot, M., & Le Masson, P. (2025). Artists in organizations: A capability-based framework for understanding artistic interventions. International Journal of Innovation Management, 29(1), 1–25.

Chupa Chups. (n.d.). History of the Chupa Chups logo. Chupa Chups Official Website. https://chupachups.com/

Gala-Salvador Dalí Foundation. (n.d.). Salvador Dalí and the Chupa Chups logo. Gala-Salvador Dalí Foundation Official Website. https://www.salvador-dali.org/

Time Magazine. (1994). The man behind the logo. Time Archives.

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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