はじめに
博物館では、収蔵品を長期にわたって守り、次世代に伝えていくことが重要な使命とされています。展示室に並ぶ美術品や歴史資料だけでなく、収蔵庫に保管された膨大な資料群もまた、文化遺産としての価値を持ちます。ところが、そうした資料は時として目に見えないリスクにさらされることがあります。その一つが、虫害やカビなどによる「生物的劣化」です。
収蔵資料に害を及ぼす生物としては、カツオブシムシ類やシバンムシ類、衣類の蛾、紙魚(シミ)などがよく知られています。こうした害虫は展示ケースのすき間や収蔵庫の暗所に潜み、布、紙、木材、皮革などを少しずつ食い荒らしていきます。また、温度や湿度の管理が不十分であれば、カビや細菌が繁殖し、資料の劣化が加速することもあります。このような生物的リスクは、見過ごされやすい一方で、修復が困難で高額な費用を要する損害を引き起こすことがあります。
このような背景から、欧米の博物館を中心に確立されてきたのが「IPM(Integrated Pest Management)」という考え方です。日本語では「総合的有害生物管理」や「総合防虫管理」と訳されますが、単なる害虫駆除の方法ではなく、「予防」→「監視」→「対処」→「記録と評価」という一連のプロセスを通じて、害虫やカビなどからコレクションを守る包括的な管理戦略を意味します。
もともとは1950年代に農業分野で生まれたこのIPMの考え方は、1980年代以降、博物館や美術館、図書館、歴史的建造物といった文化財関連施設にも応用されるようになりました(Querner, 2015)。現在では、英国の大英博物館や自然史博物館、ウィーン美術史博物館などをはじめ、世界中の主要館がIPMを導入しており、資料保存の基本方針として定着しつつあります(Ryder & Mendez, 2018; Querner et al., 2011)。
IPMの特徴は、化学薬剤による駆除に頼るのではなく、「害虫やカビが発生しにくい環境をつくること」「早期に発見すること」「被害を最小限に抑えること」を重視する点にあります。そのため、空調や清掃といった日常管理はもちろん、新規収蔵品の隔離や職員の教育、トラップによるモニタリングなど、多岐にわたる活動がIPMに含まれます(Strang, Jacobs & Kigawa, 2019)。
本記事では、こうしたIPMの基本的な考え方から、実際の運用方法、経営的な意義、さらには今後の展望に至るまで、博物館の収蔵資料を守るための総合戦略としてのIPMを多角的に紹介します。初めてこの概念に触れる読者にも理解しやすいよう、具体例と文献を交えて丁寧に解説していきます。
IPMの基本原則とその展開
IPM(Integrated Pest Management:総合的有害生物管理)は、収蔵資料に被害を与える害虫やカビなどの「生物的リスク」に対して、できるだけ薬剤に頼らず、予防と管理を重視して取り組む方法です。IPMは、日本語では「総合防虫管理」とも呼ばれていますが、単に虫を駆除することが目的ではありません。むしろ、「被害が起こらないように環境を整えること」「早い段階で発見し、資料への被害を最小限に抑えること」を目的としています。
IPMは、以下の4つの基本的なステップによって成り立っています。
1. 予防(Prevention)
最も重要なのが「予防」です。そもそも害虫やカビが発生しにくい環境を整えることで、被害のリスクを大幅に下げることができます。具体的には、次のような工夫があります。
- 収蔵庫の清掃を定期的に行う(埃や有機物が害虫の餌になる)
- 建物のすき間をふさぎ、外部からの虫の侵入を防ぐ
- 食べ物や生花など、虫を誘引するものの持ち込みを制限する
- 新しく受け入れた資料は、しばらく別の場所で保管して問題がないか確認する(隔離)
これらはすべて、「問題が起こる前に備える」というIPMの基本的な考え方に基づいています。
2. 監視(Monitoring)
どれだけ環境を整えても、害虫やカビが完全にゼロになることはありません。そのため、定期的な監視(モニタリング)が重要です。具体的には、
- 粘着トラップやフェロモントラップを館内の複数箇所に設置する
- トラップにかかった虫を種類別に分類し、記録する
- トラップの設置場所や時期ごとの変化を記録・分析する
これにより、「いつ」「どこで」「どのような害虫が出たのか」が把握できるようになります(Querner et al., 2011)。こうした情報の蓄積が、次のステップ「対処」の判断材料となります。
3. 対処(Intervention)
害虫やカビが発見された場合には、資料や館内の状況に応じて適切な対処を行います。IPMでは、化学薬剤に頼るのではなく、次のような非化学的な処理が推奨されます(Strang, Jacobs & Kigawa, 2019)。
- 冷凍処理(マイナス20℃以下で数日間凍結する)
- 低酸素処理(酸素濃度を下げて害虫を窒息させる)
- 熱処理(一定の温度で加熱して駆除)
- 被害資料の隔離、周囲の清掃・消毒
これらの方法は、資料に与える化学的影響が少なく、安全性が高いとされています。ただし、資料の材質によっては適用できないこともあるため、事前の判断が必要です。
4. 記録と評価(Documentation & Evaluation)
IPMの大きな特徴の一つが、すべての対応を記録に残し、定期的に見直すという点です。
- どのトラップで何が捕獲されたか
- どのような処理を行い、どのような結果だったか
- 対策後の変化はどうだったか
こうした情報を記録として蓄積することで、館内での情報共有が可能になります。職員の異動があっても、これまでの対応の履歴が残っていれば、継続的な対策がとれます。また、被害の傾向や効果的な対策を分析し、より良い管理方法を構築することにもつながります。
IPMは“全館的な取組み”
IPMは、学芸員や保存科学担当者だけの仕事ではありません。清掃を担う職員、展示を設営するスタッフ、建物の設備管理を担当する技術者、そして時には外部の専門家まで、館内のさまざまな立場の人々が協力して取り組むべき活動です(Linnie, 1996)。IPMを効果的に運用するには、職員の理解と連携、組織としての方針の共有が欠かせません。
IPMは、被害を「後から対応する」のではなく、「そもそも発生させない」ことを目指した予防的な戦略です。博物館という組織全体で支えることによって、コレクションの安全性が高まり、長期的なコスト削減にもつながります。
次の節では、こうしたIPMの原則がどのように実践されているのか、国内外の具体的な事例をもとに紹介していきます。
IPMの実践における運用事例
IPMの基本原則は、世界中のさまざまな博物館で実践され、その効果が報告されています。特に欧米では、IPMを資料保存の根幹ととらえ、組織的・長期的に運用している館も多くあります。ここでは、英国の自然史博物館とオーストリアのウィーン美術史博物館という2つの代表的な事例を取り上げ、IPMが実際にどのように運用されているのか、その具体的な方法と成果を見ていきます。
英国・自然史博物館:リスクゾーンに基づく効率的なIPM体制
ロンドンにある自然史博物館(Natural History Museum)は、長年にわたりIPMを全館的に実施している先進的な事例の一つです。
この館では、IPMの実効性を高めるために、館内を「リスクの高低に応じたゾーン」に分類しています(Ryder & Mendez, 2018)。
ゾーンは、赤(高リスク)、黄(中リスク)、緑(低リスク)の3段階に色分けされ、それぞれに応じて異なる管理基準が設けられています。たとえば:
- 赤ゾーン(高リスク):標本の密度が高く、有機物質が多く含まれる収蔵室。ここでは、トラップの数も多く、清掃も週単位で行い、入室制限も厳格です。
- 黄ゾーン(中リスク):一部の展示スペースや作業室。ここでは定期的なモニタリングと週次清掃が基本です。
- 緑ゾーン(低リスク):展示ロビーや受付、事務所など。必要に応じて監視が行われ、異常があれば迅速に対処されます。
このリスクゾーン方式の利点は、限られた人員や資源を「必要な場所」に重点的に投入できる点にあります。特に大型館では、すべてのエリアを同じ頻度・方法で管理することは現実的ではないため、ゾーンごとの優先度設定はIPMの持続可能性を高める効果的な手法です。
さらに、同館では清掃スタッフや技術職員、学芸員、IPM担当が連携して月次の情報共有ミーティングを実施しており、IPMが一部門だけの業務ではなく、「全館一体での取組み」として位置づけられています。
オーストリア・ウィーン美術史博物館:10年超にわたるIPMの蓄積と可視化
ウィーン美術史博物館(Kunsthistorisches Museum Wien)は、2001年からIPMを本格的に導入し、長期にわたるモニタリングとデータ蓄積によって、着実な成果をあげてきました(Querner et al., 2011)。
この館の特徴は、130か所以上に設置された粘着トラップから得られるデータを毎月記録・分析し、全館的に可視化している点にあります。害虫の種類や捕獲数はすべてデジタルデータとして蓄積され、発生の傾向(季節性や場所の偏りなど)をグラフ化。IPM担当者だけでなく、他部門の職員にも共有されています。
たとえば、ある年の夏には倉庫の一角でカツオブシムシの発生が急増し、分析の結果、そのゾーンの温湿度と外部搬入品に由来することが特定されました。このデータに基づき、空調調整と検品体制の見直しを行ったところ、翌年には同種の被害がほぼゼロに抑えられたと報告されています。
また、同館では冷凍処理(−30℃で72時間)や低酸素処理を標準化しており、薬剤使用は年間を通してほとんどありません。さらに展示替えや貸出のスケジュールとも連動して処置が組み込まれており、IPMが保存部門と展示部門をつなぐ“中核的な運用フレーム”として機能している点も注目されます。
これらの事例に共通しているのは、IPMが単なる「対処法」ではなく、日常業務に組み込まれた組織的マネジメントの一部であるという点です。現場の細かな観察とデータの蓄積、そして部門間の連携によってこそ、IPMは初めて機能します。
次の節では、こうした実践を踏まえ、IPMが博物館経営にどのような価値をもたらすのか、経営的意義という観点からその波及効果を考察していきます。
IPMがもたらす博物館経営への意義
博物館にとってIPM(総合的有害生物管理)は、虫やカビから収蔵資料を守るための技術であると同時に、経営全体に深く関わる「戦略的な取り組み」でもあります。
「経営」という言葉を聞くと、予算や収支、来館者数といった目に見える数字をイメージするかもしれません。しかし、博物館の経営はそれだけではありません。コレクションの価値を守り、限られた資源で成果を最大化し、社会的な信頼を維持し、組織として持続可能であること──こうした要素すべてが「経営」に含まれるのです。
IPMは、そのどれにも密接に関わっています。以下では、IPMが博物館経営にどのような意味を持つのか、四つの観点から丁寧に解説します。
1. コレクションを守る=経営の根幹を守ること
博物館の中核的な資源は、他でもない「コレクション(収蔵品)」です。どれほど魅力的な展示やイベントを企画しても、その基盤にある資料が失われてしまっては意味がありません。しかも、博物館の資料の多くは、修復や再取得が難しい一点ものです。
たとえば、虫に食われた織物資料、カビに侵された古文書、それらはたとえ見た目を修復できたとしても、本来の学術的・歴史的価値が損なわれてしまいます。IPMは、そうした回復不能な損害を未然に防ぐ「守りの経営」なのです。
そして、資料の保存状態は、館の「信用」にもつながります。たとえば、他館との貸借交渉では、保存環境や管理体制が重要な判断基準になります。IPMがしっかり運用されている博物館は、「安心して資料を預けられる場所」として評価され、資料の貸出や共同展示のチャンスも広がります。
2. 予防によるコストコントロール
IPMの特徴は、「起きてから対応する」のではなく、「起こらないように備える」ことを重視している点にあります。これは経営において非常に重要な考え方です。
たとえば、害虫による被害が拡大してしまった場合、
- 資料の修復費用
- 館内の殺虫・消毒処理
- 展示や収蔵の一時停止
- 職員の安全確保や対応時間
といった、直接的・間接的なコストが一気に発生します。しかも、その多くは予算外の「突発的支出」となり、計画全体に影響を及ぼします。
これに対してIPMでは、
- 毎月のトラップ点検
- 週ごとの清掃
- 新規資料の隔離チェック
といった地道な作業を継続することで、大きな損害を未然に防ぎ、結果的にコストを最小限に抑えることができます。
「予防にかける手間はコストではなく投資である」──これは、IPMが教えてくれる経営の基本原則です。
3. 組織の連携と学びを促す仕組み
IPMは一人ではできません。学芸員、収蔵担当、技術スタッフ、清掃スタッフなど、さまざまな職種の人が連携しなければ成り立たない活動です。
たとえば、「展示室にカツオブシムシが出た」と報告されたとき、それをもとに
- 清掃担当者が清掃頻度を見直す
- 収蔵担当者が周辺の資料を確認する
- 技術スタッフが換気経路を点検する
といった形で、職員同士が情報を共有し、協働で解決する体制が生まれます。
これは、単に虫対策をしているだけではありません。IPMを通じて、職員同士が学び合い、協力し、館としての「チームワーク」と「学びの文化」を育てているのです。
また、新しく入った職員やボランティアにとっても、IPMは「保存とは何か」を実地で学べる教育の場となります。定期的な点検や記録の読み方、被害の早期発見方法などを体験しながら学ぶことで、人材育成にもつながる貴重な仕組みになります。
4. 館の信頼性と発信力を高める
IPMは外部からは見えにくい活動ですが、うまく運用すれば、館の信頼性を高める発信材料にもなります。
たとえば、IPMを導入していることで、以下のような効果が期待できます。
- 国際的な貸借交渉で「保存体制が整っている館」として高評価を得る
- 助成金申請時に「予防的保存に取り組む体制」があると評価される(Strang, Jacobs & Kigawa, 2019)
- 行政・地域住民に向けて「館内でどのように文化財を守っているか」を説明できる
- SNSや年報で「保存の裏側」を発信し、館の透明性や専門性を伝える
このように、IPMの成果や日々の取組みを「外に向けて見える形で発信」することで、説明責任を果たし、信頼資本を積み上げることができます。
「展示がない時期でも、博物館はちゃんと活動しているんだ」と知ってもらえる。
それだけで、博物館は地域社会や支援者と、より強いつながりを築くことができるのです。
IPMは「保存の技術」であり「経営の知恵」
ここまで見てきたように、IPMは単なる技術的対応ではなく、博物館の持続可能な経営を支える戦略的な実践です。
- 目に見えないリスクに備える力
- 無駄なコストを抑える力
- 組織を育てる力
- 社会に信頼される力
IPMには、博物館がこれからの時代を生き抜いていくために必要な「経営の知恵」が詰まっています。
だからこそ、IPMは保存担当者だけでなく、館全体で取り組むべき経営課題なのです。
IPMの今後の課題と展望
IPMは多くの博物館で導入が進んできましたが、現場での実践にはいくつかの課題が伴います。特に、日本国内の中小規模館では、限られた人員や予算の中で運用を続けることが大きな負担となっています。
IPMの主な課題は、①運用の属人化、②組織全体への定着、③科学的知見との距離の3つに集約されます。これらに対しては、館内業務の見直しに加えて、他館との連携や外部の知見との橋渡しが重要となるでしょう。
一方で、IPMの分野では、館種を超えた事例共有や、デジタルツールによる省力化の試みも広がりつつあります。IoTを活用した自動モニタリングや、AIによる害虫同定支援など、新しい技術が導入されはじめています。
今後は、こうした技術革新に加えて、保存への意識を共有できる人的ネットワークを育てていくことが、IPMの持続可能な発展につながります。地道な取り組みであっても、それを支えるしくみとつながりがあれば、より多くの館で無理なく運用できるIPMが実現できるはずです。
参考文献
- Querner, P. (2015). Insect pests and integrated pest management in museums, libraries and historic buildings. Insects, 6(2), 595–607.
- Querner, P., Simon, S., Morelli, M., & Fürenkranz, S. (2011). Integrated pest management in museums and historical buildings. Insects, 2(2), 121–129.
- Ryder, J., & Mendez, C. V. (2018). Integrated pest management at the Natural History Museum, London: Policy and practice. In E. Fuinato (Ed.), Integrated pest management for cultural heritage (pp. 87–98). Springer.
- Strang, T., Jacobs, J., & Kigawa, R. (2019). Integrated pest management for museum collections (2nd ed.). Canadian Conservation Institute.