博物館は“学びの再創造”の場になれるか? ― アート・ベースド・ラーニングが拓く経営と教育の新地平

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アートと経営教育の接点 ― 博物館で問われる「創造性」とは

博物館における芸術作品は、従来「鑑賞」や「保存」の対象として捉えられてきました。しかし近年では、芸術が来館者の学びや気づきを促す教育的・創造的な手段として位置づけ直されつつあります。展示空間が来館者の感性や思考を刺激し、内省や対話を誘発する場として活用される動きが広がっているのです。このような傾向は、教育現場にとどまらず、ビジネスや経営の分野にも波及しています。

とくに注目されるのは、アートを「学びのツール」として活用するアプローチです。芸術作品との出会いを通じて、自己理解を深めたり、異なる価値観に触れたりする体験は、リーダーシップやチームビルディングに不可欠な能力を育む機会になります。たとえば美術館の作品を題材にしたワークショップ形式の研修では、参加者が作品を起点に物語を紡ぎ、他者と共有することで、共感や創造的な対話が生まれます。これは、知識の一方向的な伝達とは異なり、学習者自らが「意味」を構築するプロセスであり、探究的な学びの促進に大きく寄与します。

このような実践の背景には、「創造性」の捉え方の変化があります。創造性とは、単に斬新なアイデアを生み出すことではなく、曖昧な状況を受け入れ、意味の多義性と向き合いながら、新たな視点を見出す力でもあります。この観点から注目されているのが「アート思考(Art Thinking)」という概念です。アート思考では、あらかじめ設定されたゴールに向かって問題を解決するのではなく、問いそのものを深めながら、プロセスの中で意味を探求していきます。このような姿勢は、経営戦略や組織開発においても重要視されるようになってきました(Nissley, 2010)。

実際に、アート・ベースド・ラーニング(ABL)という手法は、ビジネススクールや企業の研修において導入が進んでいます。たとえば、ハーバード・ビジネス・スクールやロンドン・ビジネス・スクールでは、アートを活用したリーダーシップ教育プログラムが開発されています。これらのプログラムでは、参加者が作品との対話を通して、自らの価値観や判断基準を相対化し、新たな視点を獲得することが目的とされています(Kupp et al., 2012)。また、ミュージアムと連携したフィールドワーク形式の授業では、空間や展示環境そのものを教材として用いる実践も行われています。こうした試みは、博物館がもつ「問いを引き出す場」としてのポテンシャルを活かすものと言えるでしょう。

このように、芸術と経営教育の接点において、博物館は新たな役割を担いつつあります。単なる知識の保管庫でも教育施設でもなく、創造性を刺激し、多様な価値観の交差点となる「実践的な思索の場」としての機能が注目されているのです。とくに、来館者が「作品を通して自分と出会う」ような体験が生まれるとき、博物館は学びの再創造の場としての可能性を大きく広げることができます。

アート・ベースド・ラーニング(ABL)の理論的背景

アート・ベースド・ラーニング(ABL)は、芸術作品との対話や創作を通じて、学習者が自ら問いを立て、意味を見出していく学びのアプローチです。その本質は、知識の獲得よりも、感性・思考・内省のプロセスを重視する点にあります。従来の学校教育が「正解のある問い」を解く能力を評価してきたのに対し、ABLは「正解のない問い」に対して、多様な視点から考える力を養うことを目指しています。こうした特徴から、ABLは非認知能力――すなわち創造性、共感力、柔軟性、自己制御といった能力の育成に特に効果があるとされています(Marshall, 2014)。

これらの非認知的スキルは、近年の教育政策や人材育成の分野でも注目されています。知識偏重ではなく「生きる力」を育む教育が求められる中で、ABLはその実践的な手段として位置づけられるようになってきました。学習者が芸術作品に直面し、自分なりの問いを立て、他者と対話しながら理解を深めていく過程は、学びを自らのものとして再構成する力を引き出すのです。博物館という場は、まさにこうしたプロセスを促進するための豊かなコンテクストを備えています。

とりわけ、美術鑑賞と対話を組み合わせた教育実践は、ABLの中核的な手法とされています。たとえばVTS(Visual Thinking Strategies)と呼ばれる手法では、ファシリテーターが「何が見えますか?」「そう思う理由は?」といった問いを投げかけ、参加者同士の対話を通じて解釈を深めていきます。このような方法により、観察力や根拠に基づいた思考、他者の意見を聞く姿勢などが自然と育まれます(Marshall, 2014)。このような対話型の教育は、学校現場だけでなく、博物館教育の現場でも活用されています。

本ブログの別記事「博物館で育てる思考力」では、ABLの実践が来館者の思考をどのように促進するかを具体的な事例に基づいて紹介しました。グッゲンハイム美術館やMoMAなどでのプログラムは、展示空間を思考の実験場として再設計し、来館者に“問いを持ち帰らせる”仕掛けを内包しています。こうした教育的設計は、単なる情報提供にとどまらず、来館者に深い意味づけの機会を提供する点で、ABLの本質と合致します。

また、ABLはしばしば「アート思考(Art Thinking)」と結びついて語られます。アート思考とは、論理的な解決よりも、問題そのものを問い直し、未知の可能性に開かれた発想を重視する思考態度です。これは、特定の目的に向かって最適解を導く「デザイン思考」とは対照的に、ゴールを定めず自由に思索を展開することを肯定する姿勢に根ざしています(Nissley, 2010)。両者は一見似ているように見えて、思考の起点とゴール設定において明確な違いがあります。

この点において、博物館という空間はアート思考と極めて親和性が高いといえます。展示は必ずしも“答え”を示すものではなく、むしろ“問い”を提示するメディアです。来館者が作品や展示から自分自身の解釈を引き出し、他者と共有する過程こそが、ABLの価値を最大限に発揮する場面です。このような環境が整えば、博物館は「知識を受け取る場」から「問いを生成し、再構成する場」へと進化します。それは経営においても、組織やスタッフ、来館者にとって“意味”をつくるプロセスの再設計にほかなりません。

このように、ABLの理論的枠組みは、教育現場のみならず博物館経営にも応用可能な示唆を与えてくれます。博物館という場が持つ潜在的な教育力を再評価し、展示やプログラムを通じて創造的な思考や対話を促進することは、単に教育的意義を高めるだけでなく、組織としての社会的価値の再構築にもつながります。

博物館でのABL実践 ― 対話と思考を深める2つのアプローチ

アート・ベースド・ラーニング(ABL)の価値は、理論にとどまらず、博物館という具体的な場でどのように展開されるかによって、その教育的意義がより鮮明になります。本節では、ABLを博物館で実践する際に効果的とされる2つのワークショップアプローチを紹介します。これらはいずれも、展示作品を起点とした対話と多様な視点の交換を促し、来館者にとって展示を「見る」体験から「考える」「つながる」体験へと変換する仕組みとして機能します。

Art-Dialogue:多声的な解釈を育む対話の場

Art-Dialogueは、展示作品を媒介として参加者同士の対話を促進するワークショップ形式です。参加者は一つの作品をじっくり観察し、そこから感じた印象、湧いてきた疑問、自身の経験との関連などを言語化し、他の参加者と共有します。特徴的なのは、このプロセスに「正解」が存在しないことです。各参加者が持ち寄る異なる解釈や感情はすべて等しく尊重され、むしろその“違い”が学びの核心として扱われます。

このような活動は、美術教育における“思考の文化”を育てる手法と深く関係しており、対話を通じて思考が深化するプロセスが明らかにされています(Ritchhart, 2007)。特に注目すべきは、参加者が他者の視点や新たな問いに触れることで、自らの認知枠組みを問い直す契機が生まれる点です。学校団体に対する教育普及プログラムとしても導入しやすく、特別な美術知識を必要としない点が、多様な来館者層への適応を可能にしています。

また、Art-Dialogueは、博物館の「展示をどう見るか」という視点を再構築します。作品そのものに内在する情報以上に、その作品がどのように“意味づけられるか”が重要視され、来館者が能動的に知をつくり出すプロセスが強調されるのです。これにより、展示空間は知識の伝達装置ではなく、来館者自身が意味を発見し対話する“学びの場”へと転換されます。

Cross-Perspective:他者の視点から見る鑑賞の転回

Cross-Perspectiveは、参加者が自身とは異なる視点や立場を仮想的に引き受けながら展示作品を鑑賞するアプローチです。具体的には「この作品をアーティストの目線で見てみよう」「初めて訪れた外国人の立場で展示を説明してみよう」などの問いが提示され、参加者は想像力を働かせてその視点に“なりきる”体験を行います。この実践を通じて、作品に対する既成の理解を越え、多様な価値観や文化的背景に触れるきっかけが創出されます。

この方法は、特に感性教育やエンパシー(共感力)の育成に有効であるとされ、近年はアートセラピーやダイバーシティ教育の場でも広く応用されています(Marshall, 2014)。鑑賞者が他者の立場に立つことは、単に新しい視点を得るだけでなく、自身の解釈を相対化する力を育むことにもつながります。こうした視点の切り替えは、固定的な理解や評価を揺さぶり、作品に対する開かれた関係性を構築する基盤となります。

博物館においてこのアプローチを導入することで、来館者が一方的な鑑賞者から脱し、多様な“声”とともに展示に参与する主体となります。とりわけ、多文化共生やインクルーシブな展示を志向する博物館においては、このような体験の提供が組織の社会的役割と合致し、展示の公共性を高める可能性を秘めています。

ABLは企業でどう活かされているか ― 組織文化と人材開発の実践事例

アート・ベースド・ラーニング(ABL)は、近年、企業における人材開発や組織文化の醸成を目的とした取り組みにおいても注目を集めています。創造性や共感力といった非認知能力を育む手法として、アートを媒介とする学習体験が、業種を問わず導入され始めているのです。本節では、企業におけるABLの導入事例をもとに、その効果と仕組みを整理し、博物館経営への応用可能性を探ります。

創造的対話を生む企業内アートプログラム

たとえば、ドイツ銀行では、企業アイデンティティの再構築を目的に、社内に保有するアートコレクションを活用したABL的プログラムを実施しています。職場空間に展示された現代美術作品を起点に、従業員同士が自由に意見を交換し合うセッションが定期的に設けられ、それが部門間の垣根を越えた対話や多様な価値観の理解へとつながっています(Kottasz et al., 2007)。

このような事例は、アートが単なる装飾やブランドの象徴にとどまらず、企業内コミュニケーションを支える「場」として機能する可能性を示しています。特に、組織の変革期や多様性の受容が課題となる局面においては、アートを通じた対話が新たな文化的基盤を生み出す起点となり得るのです。

経営人材の育成におけるABLの導入

また、アメリカの一部ビジネススクールでは、リーダーシップ教育にアート鑑賞や対話型鑑賞(VTS)を組み込んだプログラムが導入されています。受講者は美術作品を観察し、それについて自由に語り合うことを通じて、異なる視点を受け入れる力や、判断における柔軟性を養っていきます(Marshall, 2014)。

このようなABLの実践は、意思決定が複雑化する現代のビジネス環境において、「正解のない問いにどう向き合うか」を学ぶための重要な訓練となっています。さらに、知識の習得にとどまらず、対話を通じて他者と共に考えを深めていく経験は、職場におけるチームビルディングやリーダーシップ形成にも波及効果を持ちます。

このように、ABLは創造的な組織文化の醸成と人材育成の両面で効果を発揮する手法として、企業の内部から変革を促す手段となっています。博物館においても、これらの事例から学ぶことは多く、ABLの導入によって展示や教育の領域を超えた経営戦略の一環として新たな価値を創出する可能性が広がっているといえるでしょう。

結論 ― 博物館は「問いにとどまる場」となり得るか

展示空間を“教育のスタジオ”へ

アート・ベースド・ラーニング(ABL)の実践は、博物館の展示空間のあり方を根本から問い直す可能性を秘めています。従来の博物館展示は、情報の提示や歴史的事実の伝達を主眼として構成されてきました。しかしABLの視点に立てば、展示空間はむしろ「問いを共に考える場」、すなわち“教育のスタジオ”として再設計されるべきです。

この「スタジオ」という比喩は、来館者と学芸員、教育担当者がともに探究する創造的な環境を象徴しています。展示をただ受け身で鑑賞するのではなく、展示物に対する自らの問いや感情を言語化し、他者との対話を通じて意味を深めるプロセスそのものが、ABLの本質です。こうしたスタジオ型の展示設計は、来館者の主体性と批判的思考を促進し、ミュージアムの社会的機能を一層拡張するものといえるでしょう。

このような再定義は、教育・展示・経営という博物館内の機能的な区分を越境する実践を促します。展示空間が教育活動の場であると同時に、経営戦略の一部でもあるという認識が高まれば、博物館全体として一貫した価値創出の方向性を持つことが可能になります。

アートを通じた意味の構築と感性の再評価

さらに、ABLが博物館にもたらすもう一つの重要な視点は、「意味をつくる」という営みそのものへの再注目です。アート鑑賞を通じて来館者が自らの経験と照らし合わせながら意味を構築していくプロセスは、博物館を単なる「情報の保管庫」ではなく、「意味の生成空間」へと転換させます。このプロセスにおいて、知識や論理よりもむしろ感性や共感、想像力といった非認知的な資質が中心的な役割を果たします。

このような感性の重視は、従来の効率性や成果主義に基づく経営モデルとは一見相反するように見えるかもしれません。しかし、感性を経営に取り入れることは、単なる感情論ではなく、組織文化の厚みやステークホルダーとの持続的な関係構築に資する実践であると理解すべきです。企業においてABLが文化的アイデンティティの強化や従業員エンゲージメントの向上に寄与しているように、博物館でもその可能性は十分に認められます(Kottasz et al., 2007; Marshall, 2014)。

最終的に、ABLが提示する最大の価値は、博物館を「問いにとどまる場」として機能させる点にあります。問い続けることそのものを肯定し、来館者に「正解」を与えるのではなく、「自ら問いを持ち帰る」経験を促すこと。これは、博物館が現代社会において果たすべき役割を再定義する契機となるでしょう。

このように、アート・ベースド・ラーニングは、教育・展示・経営のいずれにも関わる総合的な戦略として、博物館に新たな地平を拓きます。創造的で対話的な「問いの場」としての博物館の姿を、私たちは今こそ問い直すべきなのです。

参考文献

  • Kottasz, R., Bennett, R., Savani, S., Mousley, W., & Ali-Choudhury, R. (2007). The role of the corporate art collection in corporate identity management: The case of Deutsche Bank. International Journal of Arts Management, 10(1), 19–31.
  • Marshall, J. (2014). Transdisciplinarity and art integration: Toward a new understanding of art-based learning across the curriculum. Studies in Art Education, 55(2), 104–127.
  • Nissley, N. (2010). Arts‐based learning at work: Economic downturns, innovation upturns, and the eminent practicality of arts in business. Journal of Business Strategy, 31(4), 8–20.
  • Ritchhart, R. (2007). Cultivating a culture of thinking in museums. Journal of Museum Education, 32(2), 137–154.
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この記事を書いた人

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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