なぜ今、博物館に「デジタル戦略」が必要なのか
近年、博物館におけるデジタル化は特別な取り組みではなくなっています。公式ウェブサイトやSNSによる情報発信、オンラインでの収蔵品公開、デジタル教材やバーチャル展示など、デジタル技術は日常的な業務や来館者対応の中に組み込まれるようになりました。多くの博物館にとって、デジタルは「あるかないか」ではなく、「どのように使われているか」が問われる段階に入っています。
一方で、現場からは「作ったが使われない」「更新が止まってしまった」「担当者が異動すると終わってしまった」といった声も少なくありません。新しい技術やツールを導入したにもかかわらず、数年で形骸化してしまうデジタル施策は、むしろ増えているようにも見えます。こうした状況は、単に技術が未成熟だから、予算が不足しているから、といった理由だけでは十分に説明できません。
実際には、同程度の技術水準や予算条件であっても、うまく機能する博物館とそうでない博物館が存在します。その違いを生んでいるのは、技術そのものではなく、デジタルをどのような目的で、どのように位置づけ、組織の中に組み込んでいるかという「戦略」の有無です。デジタル施策が続かない背景には、方向性の不在や、組織・業務との接続不足といった構造的な問題が潜んでいます。
本記事では、博物館におけるデジタル化を単なる技術導入の問題としてではなく、戦略の問題として捉え直します。近年の研究を手がかりに、なぜ今「博物館のデジタル戦略」が必要とされているのかを整理し、その考え方の射程を明らかにしていきます。デジタルが博物館活動の中核に浸透しているという前提に立ちつつ、続く施策と続かない施策を分ける要因を考えていくことが、本記事の目的です(Taormina & Bonini Baraldi, 2022)。
博物館におけるデジタル戦略とは何か
博物館におけるデジタル戦略とは、アプリやVR、SNSといった個別のデジタル施策を束ねた計画ではありません。むしろそれは、博物館が自らの使命や公共性を前提に、デジタル技術をどのように位置づけ、どの方向に組織や活動を導いていくのかを示す「方向づけ」の枠組みです。デジタル戦略は、何を導入するかを決めるためのチェックリストではなく、何を優先し、何を行わないのかを判断するための基準として機能します。
この意味で、博物館のデジタル戦略は展示論や教育論の延長ではなく、日常的な運営判断や組織のあり方に深く関わるものです。デジタルが来館者体験や情報発信の補助的手段であった段階を越え、業務や意思決定の前提条件となりつつある現在、その扱いを場当たり的な施策の集合として放置することはできません。デジタル戦略とは、博物館がデジタルとどのような関係を結ぶのかを明示するための枠組みだと言えます。
デジタル戦略はIT計画ではない
博物館で語られるデジタル戦略は、しばしばIT計画と混同されがちです。新しいアプリを開発する、VR展示を導入する、SNSの運用を強化するといった取り組みは、確かにデジタル施策ではありますが、それ自体が戦略であるわけではありません。これらはあくまで手段であり、目的や方向性が共有されていなければ、個別の取り組みとして散発的に終わってしまいます。
デジタル戦略の本質は、個々の技術選択の背後にある判断の軸を明確にすることにあります。どのような来館者との関係を築きたいのか、どの機能を強化し、どの領域には踏み込まないのかといった判断は、博物館の使命や役割と切り離して考えることはできません。そのため、デジタル戦略は博物館全体の戦略と不可分であり、IT部門や外部業者だけに委ねられるものではないとされています(Hossaini & Blankenberg, 2017)。
なぜ博物館に「戦略」が必要なのか
博物館においてデジタル戦略が求められる背景には、単年度事業や補助金事業として実施されてきたデジタル施策の限界があります。予算が確保できた年度には新しい取り組みが始まるものの、事業終了とともに更新や運用が止まり、結果として継続的な価値を生み出せないケースは少なくありません。このような状況は、技術選択の失敗というよりも、長期的な視点に立った計画や組織内での位置づけが欠けていることに起因しています。
また、デジタル技術の更新速度と、博物館組織への定着速度との間には大きなズレがあります。新しいツールやプラットフォームは次々と登場しますが、それを業務フローや役割分担に組み込むには時間がかかります。戦略が不在のまま技術だけを更新し続けると、現場は常に「追いつけない状態」に置かれ、デジタル施策そのものが負担として認識されてしまいます。
こうした失敗の多くは、技術的な問題ではなく、計画や組織設計の問題であることが指摘されています(Hossaini & Blankenberg, 2017)。さらに、デジタル技術が博物館組織にどのように浸透し、日常的な運営に影響を与えるのかについては、これまで十分に理論化されてこなかったという指摘もあります(Taormina & Bonini Baraldi, 2022)。だからこそ今、博物館におけるデジタルを個別施策ではなく、戦略として捉え直す必要があるのです。
デジタル戦略が求められる背景
博物館においてデジタル戦略が強く求められるようになった背景には、デジタル技術の普及そのものだけでなく、博物館活動の構造的な変化があります。かつてデジタルは、展示や広報を補助するための付加的な手段として位置づけられてきました。しかし現在では、その位置づけは大きく変わりつつあります。デジタルは、博物館活動の一部を支える道具ではなく、活動全体を成立させる前提条件として扱われるようになっています。
この変化に対して、個別のデジタル施策を積み重ねるだけでは十分に対応できません。なぜなら、デジタルが博物館活動の前提となるほど、その影響は展示や教育といった個々の分野を越えて、組織運営や意思決定のあり方にまで及ぶからです。このような状況の中で、博物館はデジタルをどのように位置づけ、どのように組織に組み込んでいくのかという戦略的判断を避けて通れなくなっています。
デジタルは博物館活動の周縁ではなくなった
現在の博物館において、デジタルはもはや展示や広報の周縁的な存在ではありません。収蔵品情報のデータベース化やオンライン公開は研究活動と直結し、デジタル教材やウェブコンテンツは教育普及活動の重要な手段となっています。また、SNSやウェブサイトを通じた情報発信は、来館前後を含む来館者体験の一部として機能しています。このように、デジタルは展示・教育・研究・広報といった博物館の主要機能を横断する存在になっています。
その結果、デジタルは「あると便利な補助的手段」ではなく、「なければ活動が成立しにくい前提条件」として認識されるようになりました。とくに新型コロナウイルス感染症の拡大は、この変化を一気に可視化しました。休館や来館制限の中で、オンライン展示やデジタルコンテンツが博物館と社会をつなぐ主要な接点となり、デジタル技術が使命遂行に不可欠な要素であることが明確になったのです(Taormina & Bonini Baraldi, 2022)。
問題は「導入」ではなく「定着」である
一方で、博物館におけるデジタル施策の導入事例自体は確実に増えています。ウェブサイトの刷新、デジタル展示、オンライン配信など、取り組みの数だけを見れば、デジタル化は着実に進んでいるようにも見えます。しかし、その多くが組織に定着せず、継続的な運用や改善につながっていないことも事実です。導入された施策が一過性の事業として終わり、数年後には更新されなくなるケースは少なくありません。
こうした状況の背景には、デジタル施策と組織・人材・戦略との間に十分な接続がないという問題があります。デジタルが特定の担当者や外部業者に依存したままでは、組織全体の業務フローや意思決定に組み込まれず、結果として定着しません。デジタル変革は、技術を導入すること自体ではなく、組織の役割分担や働き方を含めた変化を伴うものであり、その本質は組織変革の問題であると指摘されています(Kamariotou et al., 2021)。
デジタルは、博物館組織の課題を隠すものではなく、むしろそれを露呈させる存在でもあります。戦略がないまま導入を繰り返すことは、こうした課題を先送りにするだけであり、だからこそ今、博物館にはデジタルを前提とした戦略的な整理が求められているのです。
デジタル戦略を構成する三つの要素
博物館におけるデジタル戦略は、抽象的な理念や将来像だけで成り立つものではありません。実際に機能する戦略とするためには、どの領域にどのような影響が及ぶのかを整理し、具体的な判断軸として組み立てる必要があります。先行研究を踏まえると、博物館のデジタル戦略は主に「ビジネスモデル」「組織・人材」「戦略としての一貫性」という三つの要素から構成されていると整理できます。これらは独立した要素ではなく、相互に影響し合いながら、博物館のデジタル化の方向性を形づくっています。
ビジネスモデルとの関係
デジタル戦略は、博物館のビジネスモデル、すなわち価値創出の仕組みと切り離して考えることはできません。オンラインでの収蔵品公開やデジタル展示、配信コンテンツなどは、来館者との接点を拡張するだけでなく、新たな価値の創出や収益の多様化につながる可能性を持っています。一方で、博物館は公共性を基盤とする組織であり、デジタルによる収益化を無制限に追求できるわけではありません。デジタルコレクションの公開や二次利用においても、アクセスの拡大と公共性の維持とのバランスが常に問われます。
重要なのは、博物館におけるデジタル化が、既存のビジネスモデルを根本から置き換えるような急進的変化として進むことは少ないという点です。多くの場合、デジタルは従来の価値創出の仕組みを補完・再編成する形で導入され、段階的に組み込まれていきます。デジタル化は既存モデルの部分的な再構成として進む傾向が強く、博物館の特性に応じた慎重な調整が行われていると指摘されています(Taormina & Bonini Baraldi, 2022)。
組織・人材への影響
デジタル戦略は、組織や人材のあり方にも直接的な影響を及ぼします。多くの博物館では、デジタル担当やIT専門職といった新たな役割が生まれていますが、その存在が必ずしも戦略的に位置づけられているとは限りません。特定の担当者にデジタル業務を集中させる運用は短期的には効率的に見えるものの、その担当者の異動や退職によって施策全体が停滞するリスクを抱えています。
デジタル戦略が機能するためには、専門職を孤立させるのではなく、学芸員や教育担当、広報担当など既存の職種とどのように役割を分担し、連携させるかが重要になります。そのためには、個々の専門性に加えて、組織全体としてデジタルを理解し、使いこなすための基礎的なリテラシーが求められます。デジタル戦略は、技術選択の問題であると同時に、人材配置や組織設計の問題であると位置づけられています(Hossaini & Blankenberg, 2017)。
デジタル戦略としての一貫性
三つ目の要素は、戦略としての一貫性です。デジタル戦略は、博物館全体の戦略から切り離された独立計画として存在するものではありません。展示計画や教育方針、収蔵・研究の方向性とどのように接続するのかを明確にしなければ、デジタル施策は部分最適に陥ります。また、単年度で完結する計画ではなく、継続的な見直しと調整を前提とした設計であることも重要です。
デジタルを取り巻く環境は常に変化しており、一度策定した計画を固定化することは現実的ではありません。そのため、デジタル戦略は具体的な施策一覧というよりも、判断の方向性を示す枠組みとして理解されるべきだとされています。評価と改善を繰り返しながら、状況に応じて戦略を更新していく姿勢こそが、博物館におけるデジタル戦略の中核をなす要素だと整理できます(Taormina & Bonini Baraldi, 2022)。
博物館のデジタル戦略に共通する特徴
これまで見てきたように、博物館のデジタル戦略は、特定の技術や施策の集合ではなく、組織全体のあり方に関わる枠組みとして構想されます。そのため、館種や規模、置かれている環境が異なっていても、デジタル戦略が機能している博物館にはいくつかの共通した特徴が見られます。以下では、先行研究で繰り返し指摘されている三つの特徴を整理します。
技術主導ではなく使命主導である
博物館のデジタル戦略に共通する第一の特徴は、技術主導ではなく使命主導である点です。新しい技術が利用可能になったから導入するのではなく、その技術が博物館の使命や役割の達成にどのように寄与するのかが、常に判断の起点になります。デジタルは目的ではなく手段であり、「何ができるか」よりも「何を実現したいのか」が先に置かれます。
この姿勢は、デジタル戦略を博物館全体の戦略と切り離さないためにも重要です。展示、教育、研究、社会との関係づくりといった基本的な機能との接続が意識されていなければ、デジタル施策は短期的な流行に左右されやすくなります。デジタル戦略は博物館の全体戦略と不可分であり、使命を起点とした判断が不可欠であると整理されています(Hossaini & Blankenberg, 2017)。
組織変革を前提とする
第二の特徴は、デジタル戦略が組織変革を前提としている点です。デジタル施策は、単に新しいツールを追加するだけでは機能しません。業務フロー、役割分担、意思決定のあり方など、組織の内部構造に変化をもたらします。そのため、デジタル戦略は必然的に人材配置や組織設計の問題と結びつきます。
多くの研究では、デジタル変革の本質は技術導入ではなく、組織の変化にあると指摘されています。特定の担当者や部署に任せきりにする運用では、組織全体にデジタルが根づかず、定着しません。デジタル戦略が機能するためには、組織全体が変化を引き受ける前提に立つ必要があります。デジタル変革は組織変革の問題であるという整理は、この点を端的に示しています(Kamariotou et al., 2021)。
革命ではなく進化として進む
第三の特徴は、博物館のデジタル戦略が革命的な変化ではなく、進化的なプロセスとして進む点です。デジタル技術の進歩は急速ですが、博物館という公共性の高い組織において、急進的な改革がそのまま受け入れられることは多くありません。実際には、既存の制度や文化を前提にしながら、段階的に調整されていくケースが大半です。
このような漸進的な変化は、博物館の慎重な意思決定や社会的責任と整合的です。デジタル戦略は一度に完成するものではなく、評価と見直しを繰り返しながら更新されていきます。技術は急速に変化しても、組織の変化はゆっくり進むという前提に立つことが、現実的で持続可能なデジタル戦略につながるとされています(Taormina & Bonini Baraldi, 2022)。
まとめ|博物館のデジタル戦略が示すもの
本記事で見てきたように、博物館のデジタル戦略は、アプリやVR、SNSといった個別の技術や施策を導入するための議論ではありません。デジタル戦略とは、博物館が自らの使命や公共性を前提に、デジタルをどのように位置づけ、どの方向に組織や活動を導いていくのかを示す判断の枠組みです。技術そのものではなく、その使い方と位置づけ方が問われています。
デジタル戦略の特徴は、展示や教育といった特定の分野に閉じない点にあります。組織の構造や人材配置、事業の進め方、さらには評価や意思決定のあり方までを横断的に捉える必要があります。だからこそ、デジタル戦略は一部門の計画としてではなく、博物館全体に関わる判断軸として共有されなければなりません。
また、デジタル戦略の成否を分けるのは、目新しさや技術的な高度さではありません。重要なのは、導入した取り組みが日常業務の中に定着し、継続的に使われ、改善されていくかどうかです。派手な施策が一時的に注目を集めても、組織に根づかなければ長期的な価値は生まれません。成功の鍵は、定着と一貫性にあります。
その意味で、最も戦略的なのは、デジタルを特別なものとして扱わない姿勢だと言えます。デジタルを例外的な取り組みとして切り出すのではなく、展示や教育、研究と同じく、博物館活動の前提として自然に組み込んでいくこと。その積み重ねこそが、博物館にとって持続可能なデジタル戦略が示す方向性なのです。
参考文献
Hossaini, A., & Blankenberg, N. (Eds.). (2017). Manual of digital museum planning. Rowman & Littlefield.
Kamariotou, M., Kitsios, F., Madas, M., & Manthou, V. (2021). Digital transformation strategy in cultural organizations: A systematic literature review. Journal of Cultural Heritage Management and Sustainable Development, 11(3), 371–389.
Taormina, F., & Bonini Baraldi, S. (2022). Museums and digital technology: A literature review on organizational issues. European Planning Studies, 30(9), 1676–1694.

