はじめに
近年、ミュージアムは単なる展示施設としてではなく、社会包摂の場としての役割を求められています。社会の多様化が進む中で、文化的なインクルージョン(包摂)を推進することは、ミュージアムの使命の一環となりつつあります。特に、移民や障がい者、高齢者、経済的に困難な状況にある人々など、これまで文化施設へのアクセスが制限されていた層にも開かれた場所となることが求められています。
ミュージアムが果たす社会的な役割は、単なる歴史的遺産や芸術作品の保管・展示にとどまりません。来館者が文化や歴史を学ぶ場であると同時に、多様な人々が対話し、共感し、新たな視点を得る機会を提供する場としても機能します。たとえば、マイノリティの文化や歴史を取り上げる特別展示や、地域社会との協働によるプログラム、障がい者向けのアクセシビリティの向上など、具体的な取り組みが各地のミュージアムで進められています。
また、デジタル技術の発展により、ミュージアムの社会包摂のあり方も変化しています。バーチャルツアーやオンライン展示、SNSを活用した双方向のコミュニケーションが可能になり、地理的・経済的な制約を超えて、多様な層の人々にアクセスを広げることができるようになりました。このような取り組みにより、ミュージアムは単なる知識の提供者ではなく、社会的なつながりを生み出すプラットフォームへと進化しつつあります。
本記事では、ミュージアムがどのように社会包摂を実現し、多様な人々に開かれた文化施設として機能しているのかを具体的な事例とともに考察します。
ミュージアムと社会包摂の関係
ミュージアムは歴史的にエリート層向けの施設として発展してきました。19世紀のヨーロッパにおいて、ミュージアムは貴族や富裕層による文化資産のコレクションを展示する場として成立し、教育と権威の象徴として機能していました。しかし、20世紀に入ると、民主化の流れとともにミュージアムの役割も変化し、公的資金による運営が進み、より多くの人々に開かれた施設となっていきました。
特に、第二次世界大戦後の社会変革や市民権運動の高まりによって、文化施設の包摂的な役割が強調されるようになりました。多様な人々が自らのアイデンティティを表現し、歴史の中で抑圧されてきた視点を共有することが重要視されるようになり、ミュージアムは単なる過去の遺物を展示する場から、社会的・文化的な対話の場へと進化しました。
Kevin Coffee (2008) の研究によると、ミュージアムは文化的排除(exclusion)と包摂(inclusion)の両面を持ち、展示の方法や運営の方針によって、特定の社会集団を排除することにも、包摂することにもつながるとされています (Coffee, 2008)1。例えば、従来の展示スタイルでは西洋中心の視点が強調され、先住民や移民の文化は十分に取り上げられてこなかったことが問題視されています。しかし、近年は多文化主義や社会正義の観点から、より幅広いストーリーを伝えることが求められています。
また、Newman & McLean (2004) は、イギリスにおけるミュージアム政策が社会的包摂の手段としての役割を果たすことを期待されているものの、実際には多くの課題があると指摘しています。特に、社会包摂の成果を測定する明確な基準が不足しており、ミュージアムが果たすべき役割が曖昧になっていることが問題視されています (Newman & McLean, 2004)2。社会包摂を推進するための具体的な指標が存在しないため、各ミュージアムは独自の方法で包摂的なプログラムを試みるものの、その効果を客観的に評価するのが難しいのが現状です。
さらに、現代社会において移民の増加や社会的分断の問題が深刻化する中で、ミュージアムは異なる文化的背景を持つ人々の橋渡し役としても機能する必要があります。包摂的なミュージアムの取り組みは、単に来館者の多様性を増やすだけでなく、社会全体の相互理解を促進し、異なる立場の人々が共に学び、共感し合う場を提供することが期待されています。
このように、ミュージアムが社会包摂の役割を果たすことが求められる背景には、歴史的な変遷、政治的・社会的な動向、そして文化施設としての新たな使命の発展が関係しています。本記事では、こうした要素を踏まえながら、ミュージアムが社会包摂を実現するための具体的な戦略と課題について掘り下げていきます。
ミュージアムの包摂戦略
ミュージアムが社会包摂を進めるためには、単なる展示の拡充だけではなく、より包括的で多様なアプローチが必要とされています。その中でも、以下の3つの主要な戦略が特に重要視されています。
多文化的なナラティブの提供と歴史の再評価
社会包摂を進めるうえで、ミュージアムは歴史や文化の多様な側面をより包括的に取り上げることが求められます。Rose Paquet Kinsley (2016) は、ミュージアムが社会正義の観点から包摂を進めるべきであると指摘し、展示内容を多文化的視点で構成し、少数派コミュニティの歴史や文化を積極的に紹介することが重要であると述べています (Kinsley, 2016)3。
さらに、Sandell (1998) の研究では、ミュージアムが社会包摂の推進者(agents of social inclusion)としての役割を果たすためには、伝統的な展示方法を見直し、よりインタラクティブで包括的なプログラムを導入することが求められると述べています (Sandell, 1998)4。例えば、来館者が自身の文化的背景を反映した展示を体験できるような、コミュニティ主体の展示プログラムを導入することで、歴史的に抑圧されてきた声を表現し、文化の多様性を促進することが可能になります。
アクセシビリティの向上とデジタル技術の活用
ミュージアムは、物理的・経済的・心理的な障壁を取り除くことで、より多くの人々がアクセスしやすい環境を作ることが重要です。例えば、入場料の無料化や減額、バリアフリー設備の導入、視覚・聴覚障害者向けの展示の充実などが挙げられます (Olivares & Piatak, 2021)5。
また、Rebecca McMillen & Frances Alter (2017) は、ソーシャルメディアの活用がミュージアムのアクセシビリティを向上させる可能性について議論しています。特に、障害者向けの情報提供やオンラインでのインタラクションが、より多くの人々をミュージアムに引きつけることができると指摘しています (McMillen & Alter, 2017)6。バーチャル展示やデジタルコンテンツを通じて、地理的制約のある人々や外出が難しい人々にも文化体験を提供できることが期待されています。
コミュニティとの協働と持続可能なパートナーシップの形成
Richard Sandell (2003) の研究によれば、ミュージアムは地域社会との協働を強化することで、より多様な層の人々を惹きつけることができるとされています (Sandell, 2003)7。地域住民が展示内容の決定やイベント運営に参加できる機会を提供することで、ミュージアムは社会的な役割を拡張し、来館者の多様性を高めることが可能になります。
また、Tlili (2008) は、社会包摂の概念がミュージアム政策にどのように影響を与えているかを分析し、多くのミュージアムがこの課題に対して積極的に取り組んでいるものの、組織文化や資源の制約によってその実現が困難であると指摘しています (Tlili, 2008)8。このため、持続可能な社会包摂戦略を確立するためには、政府や民間セクターとのパートナーシップの強化も重要であると考えられています。
これらの戦略を通じて、ミュージアムは単なる展示施設にとどまらず、社会的な対話の場としての機能を果たし、多様な人々がアクセスできる文化施設としての役割を拡充することができます。
ミュージアムの課題と展望
ミュージアムが社会包摂を進めるためには、様々な革新が必要とされる一方で、いくつかの根本的な課題に直面しています。これらの課題を克服することが、持続可能な社会包摂型ミュージアムを実現するための鍵となります。
財政的な制約
多くのミュージアムが限られた予算の中で運営されており、包摂プログラムのための資金確保が課題となっています。特に、公的資金に依存しているミュージアムでは、社会包摂に特化したプログラムのための予算が十分に確保されていないケースが多く見られます。企業や民間セクターとの連携による資金調達の可能性や、クラウドファンディングを活用した市民参加型の資金調達モデルが求められています。また、既存の資源を効果的に活用し、低コストで実施できる包摂プログラムの開発も重要です。
制度的な変革の必要性
ミュージアムの組織運営の枠組み自体が、社会包摂を推進するためには柔軟性を欠いている場合があります。伝統的な運営方法では、包摂的なミュージアムを実現するのが難しいため、組織の改革が求められています (Tlili, 2008)9。具体的には、ミュージアムの運営方針に多様性と包摂を重視した視点を組み込み、経営陣やスタッフの多様性を確保することが挙げられます。また、地域社会と協力しながらプログラムを設計することで、より地域に根ざした包摂的な取り組みが可能になります。さらに、包摂の取り組みを評価するための基準や指標の開発も必要不可欠です。これにより、ミュージアムが社会的影響を定量的・定性的に評価し、改善策を見出すことができるようになります。
訪問者層の偏り
依然としてミュージアムの訪問者は、高所得・高学歴層に偏る傾向があり、より幅広い層にアプローチするための新たな戦略が必要です (McMillen & Alter, 2017)10。特に、経済的に困難な状況にある人々や、歴史的に文化施設へのアクセスが制限されていたマイノリティ層へのアプローチが課題となっています。この問題を解決するためには、ミュージアムの無料入場日を設けたり、地域の学校や社会福祉団体と連携して教育プログラムを提供することが効果的です。
また、デジタル技術の活用によって、ミュージアムを訪れることが難しい人々にも文化体験を提供することが可能です。オンライン展示やバーチャルツアー、字幕や手話通訳を導入したデジタルコンテンツの充実により、身体的な制約のある人々も文化に触れる機会を持つことができます。さらに、地域住民がミュージアムの運営に積極的に参加できるようなプログラムを開発することで、より多様な人々がアクセスしやすい環境を整えることができます。
まとめ
ミュージアムは、社会包摂を推進することで、新たな価値を生み出す可能性を持っています。包摂的な展示やプログラムを通じて、多様な社会集団を受け入れることにより、異なる背景を持つ人々が共に学び、交流し、互いの文化や歴史に対する理解を深める場を提供することができます。これにより、文化の多様性を保ちつつ、社会の連帯を強化し、共生の精神を育むことが可能となります。
さらに、社会包摂を実現することで、ミュージアムの役割は単なる文化財の保存・展示にとどまらず、教育や福祉、コミュニティ形成の場としての機能も強化されます。特に、移民や障がい者、高齢者など、これまで文化施設へのアクセスが限られていた人々に対して、積極的に機会を提供することで、彼らの社会参加を促し、より包括的な社会の実現に貢献することができます。
また、ミュージアムが地域社会と連携し、ボランティアやワークショップ、対話型の展示などを通じて市民の積極的な関与を促すことで、文化施設がより開かれたものになり、地域社会全体の活性化にもつながります。テクノロジーの発展を活用したバーチャル展示やオンライン教育プログラムの導入によって、地理的な制約を超えて、多くの人々がミュージアムの活動にアクセスできるようになるでしょう。
今後も、ミュージアムが社会包摂の場として発展し続けることが期待されます。持続可能な社会包摂を実現するためには、政府や企業、市民団体との協力を強化し、多様な資源を活用することが重要です。文化は社会の基盤であり、ミュージアムがその役割を果たすことで、より公平で多様性に富んだ未来を築くことができるのです。
参考文献
- Coffee, Kevin. “Cultural Inclusion, Exclusion and the Formative Roles of Museums.” Museum Management and Curatorship, vol. 23, no. 3, 2008, pp. 261-279.https://doi.org/10.1080/09647770802234078 ↩︎
- Newman, Andrew, and Fiona McLean. “Presumption, Policy and Practice.” International Journal of Cultural Policy, vol. 10, no. 2, 2004, pp. 167-181.https://doi.org/10.1080/1028663042000255790 ↩︎
- Kinsley, Rose Paquet. “Inclusion in Museums: A Matter of Social Justice.” Museum Management and Curatorship, vol. 31, no. 5, 2016, pp. 474-490.https://doi.org/10.1080/09647775.2016.1211960 ↩︎
- Sandell, Richard. “Museums as Agents of Social Inclusion.” Museum Management and Curatorship, vol. 17, no. 4, 1998, pp. 401-418.https://doi.org/10.1080/09647779800401704 ↩︎
- Olivares, Alexandra, and Jaclyn Piatak. “Exhibiting Inclusion: An Examination of Race, Ethnicity, and Museum Participation.” Voluntas, vol. 33, 2022, pp. 121-133.https://doi.org/10.1007/s11266-021-00322-0 ↩︎
- McMillen, Rebecca, and Frances Alter. “Social Media, Social Inclusion, and Museum Disability Access.” Museums & Social Issues, 2017.https://doi.org/10.1080/15596893.2017.1361689 ↩︎
- Sandell, Richard. “Museums as Agents of Social Inclusion.” Museum Management and Curatorship, vol. 17, no. 4, 1998, pp. 401-418.https://doi.org/10.1080/09647779800401704 ↩︎
- Tlili, Anwar. “Behind the Policy Mantra of the Inclusive Museum.” Cultural Sociology, vol. 2, no. 1, 2008, pp. 123-147.https://doi.org/10.1177/1749975507086277 ↩︎
- Tlili, Anwar. “Behind the Policy Mantra of the Inclusive Museum.” Cultural Sociology, vol. 2, no. 1, 2008, pp. 123-147.https://doi.org/10.1177/1749975507086277 ↩︎
- McMillen, Rebecca, and Frances Alter. “Social Media, Social Inclusion, and Museum Disability Access.” Museums & Social Issues, 2017.https://doi.org/10.1080/15596893.2017.1361689 ↩︎