はじめに ― 博物館で「環境」を管理するとは?
博物館では、文化財や資料を未来に伝えていくため、日々さまざまな工夫が行われています。その中でも「予防的保存」と呼ばれる考え方は、展示品や収蔵品が壊れてから修復するのではなく、できるだけ損傷や劣化が起こらないように事前に環境を整えることを重視しています(Lucchi, 2017)。たとえば、温度や湿度、光の強さ、空気中のほこりやガス、カビや虫の発生など、さまざまな環境要因が展示品の状態に影響を及ぼします。こうした要因をコントロールすることで、貴重な資料をより長く、良い状態で守ることができます。
環境管理という言葉には、具体的に温度や湿度を適切に保つこと、照明の当て方を工夫すること、空気の流れをつくること、そして害虫やカビの対策をすることなどが含まれます。たとえば家庭で本や写真を保存するとき、日当たりや湿気に気をつけるのと同じように、博物館でも保存環境を細かく管理することで資料の劣化を防いでいます。保存環境の工夫は、展示品のためだけでなく、来館者にとって快適な空間をつくることにもつながります。
環境管理は、単に壊れやすい資料を守るためだけのものではありません。博物館の資料は、文化や歴史を伝える大切な財産です。適切な環境を保つことで、次世代にも価値ある資料を引き継ぎ、地域社会や来館者との信頼関係を築く役割も果たしています。また、近年ではSDGs(持続可能な開発目標)や省エネルギーの観点からも、環境管理のあり方が注目されています。
この記事では、博物館の環境管理について、基礎から実践までわかりやすく解説します。予防的保存の基本、環境要因の具体例、現場で行われている管理方法、最新のリスク評価や省エネルギーの考え方まで、初めて学ぶ方にも理解できる内容となっています。さらに、省エネルギー設計や持続可能な経営について関心のある方は、 持続可能な博物館環境管理 もあわせてご覧ください。

博物館の「保存環境」の基本 ― 何を守り、何を測るのか?
博物館で資料や展示品を長く良い状態で残すためには、「保存環境」を適切に整えることが欠かせません。保存環境とは、温度・湿度・光・空気の清浄さなど、展示室や収蔵庫の中のさまざまな物理的な条件のことを指します。例えば、温度が高すぎたり湿度が低すぎたりすると、紙や木、繊維などの素材はひび割れたり、変色したりすることがあります。また、光が強すぎると写真や絵画の色があせ、空気が汚れていると金属や石も劣化が進みやすくなります(Lucchi, 2016)。
展示室と収蔵庫では求められる保存環境も異なります。展示室では来館者の快適さや照明とのバランスを考える必要がありますが、収蔵庫ではより厳密に温度や湿度をコントロールし、ほこりや害虫が入らないように工夫します。これらの環境条件が守られていないと、展示品は急速に劣化してしまいます。たとえば家庭でも、本やアルバムを湿気の多い場所に置くとカビが生えたり、直射日光が当たると色があせることがありますが、博物館も基本的には同じ原理で保存環境を管理しています。
博物館では、温湿度計や照度計、データロガーなどの計測機器を使い、日々の環境を記録し続けています。これらのデータは、異常が起きたときの早期発見や、長期的な変化を把握するために役立ちます。また、日常的な点検や清掃、来館者の動きに応じた調整も大切です。現場では職員だけでなく、ボランティアスタッフも協力しながら、資料の周囲の状態をよく観察し、小さな異変にもすぐ気づける体制を作っています。
保存環境の管理は、国際的なガイドラインでもその重要性が強調されています。ICOMやICCROMといった専門機関も、温度・湿度・照度・大気汚染などをバランスよく保つことの必要性を提唱しており、世界中の博物館で共通する課題となっています(Lucchi, 2018)。こうした基準や考え方は、日本の博物館でも積極的に取り入れられています。
保存環境の整備や管理の実際については、 IPMと博物館経営 の記事でも、害虫やカビのリスク管理方法を詳しく解説していますので、あわせて参考にしてください。

博物館の環境管理の歴史と現在 ― どのように進化してきたのか
昔の博物館環境管理 ― 経験則中心の時代
博物館での環境管理は、長い年月をかけて大きく進化してきました。もともと博物館が誕生した19世紀から20世紀の前半にかけては、展示品や収蔵品の保存方法に関する明確な科学的基準はほとんどありませんでした。多くの博物館では、温度や湿度のコントロールといった環境管理はあまり意識されておらず、窓を開けて風通しを良くしたり、定期的に掃除をしたりといった、日常的な管理が中心でした。展示室や収蔵庫の環境は、施設ごとや担当者ごとの経験則や感覚に大きく左右されていました。特に日本の伝統的な木造建築を利用した博物館では、外気や湿気の影響を受けやすく、資料の劣化やカビの発生がしばしば大きな課題となっていました。
科学的管理への転換 ― 1960年代以降の発展
状況が大きく変わったのは、1960年代以降です。エアコンや加湿器などの空調設備が普及し始めたことで、展示品や資料の保存に最適な温度や湿度、照度などを科学的に管理する重要性が強く認識されるようになりました。この時代から、博物館の現場では「標準条件」を定め、それに基づいた保存環境づくりが広がっていきます。有名な「20/50ルール」は、室温20度・相対湿度50%をひとつの目安として、紙資料や美術品の保存に適した環境条件として広く受け入れられるようになりました(Lucchi, 2018)。また、国際的なガイドラインやEN規格など、世界共通の保存基準もこの時期から次々と整備されました。
トータルな保存環境管理の発展 ― 1970年代から1980年代
1970年代から1980年代にかけては、欧米を中心に博物館の専門職員や保存科学者たちによって、温度・湿度だけでなく、光の強さや空気中の汚染物質、害虫・カビの発生なども含めた「トータルな保存環境管理」が重視されるようになります。このころには、展示室と収蔵庫を分けて管理したり、収蔵庫にはより厳密な空調や遮光設備を導入したりといった新しい運用も増えていきました。日本でも国立博物館などが先行して最新の保存設備や管理手法を導入し、その知見が全国の博物館に広がっていきました。
省エネルギーと持続可能性への関心 ― 2000年代以降の変化
2000年代以降、地球温暖化やエネルギーコストの高騰が社会問題となるなかで、博物館でも省エネルギーや持続可能性が大きなテーマとなります。従来のように「一定の温度や湿度を維持するために常に空調を稼働する」やり方だけでなく、断熱性の高い建材やパッシブデザイン(自然の力を活用した設計)、自然換気など、エネルギーを節約しながらも保存環境を維持できる新しいアプローチが模索されました(Lucchi, 2016)。このような流れは、国際的な保存科学の研究動向や、EN規格、ICOMのガイドラインにも反映されるようになっています。
現代の博物館環境管理 ― デジタル技術と新しい課題
現代の博物館では、IoT機器やデータロガー、クラウドサービスを活用した長期モニタリングが一般的になりました。展示室や収蔵庫ごとに設置されたセンサーが、24時間体制で温度や湿度、照度、空気質などのデータを記録・分析し、異常やトラブルが起きた場合にはすぐに警告を出せる仕組みが整っています。こうしたデータは、年間を通じた環境の変化や、来館者数の増減、建物の老朽化などによる影響を科学的に評価するためにも使われます。例えば、梅雨や夏場の高温多湿、冬場の乾燥など、季節ごとの課題に合わせて運用方法を調整できるようになりました。
一方で、近年の博物館は保存環境の最適化だけでなく、来館者の快適性や省エネルギー、運営コストとのバランスも考える必要があります。展示室が快適すぎるとエネルギー消費が増え、逆に省エネを優先しすぎると展示品にリスクが生じるため、両立の工夫が求められます。また、気候変動や地震・豪雨などの自然災害リスクにも対応できる柔軟な管理体制が必要です。
これからの環境管理に求められる視点
このように、博物館の環境管理は科学技術や社会の変化に合わせて進化してきましたが、「資料を未来へ伝える」という根本的な目的は今も変わりません。今後も最新の研究成果や国際的な基準を積極的に取り入れながら、博物館ごとの特色や地域性を活かした保存環境づくりがますます重要になるでしょう(Bonora & Fabbri, 2020)。
博物館建築と展示空間の工夫 ― どんな建物が展示品を守るのか?
博物館建築における環境管理の基本
博物館の建物は、単なる展示や収蔵のための箱ではなく、展示品や資料を適切な環境で長期間守るための「器」として重要な役割を果たしています。建物の設計段階で断熱性能や遮光、気密性、換気の仕組みがしっかりと考慮されているかどうかによって、その後の保存環境の安定性や運営のしやすさが大きく左右されます。たとえば、分厚い壁や二重窓を採用することで外気の影響を和らげ、夏の暑さや冬の寒さ、湿気や乾燥の急激な変化から展示品を守ることができます。また、遮光カーテンやブラインドを効果的に活用することで、強い日差しや紫外線による劣化も防げます。古い博物館ではこれらの配慮が十分でないケースも多く、改修の際には建物全体の性能向上が重視されるようになっています(Lucchi, 2016)。
パッシブデザインとアクティブ管理のバランス
現代の博物館では、自然の力を活用する「パッシブデザイン」と、空調機器や加湿・除湿装置などの「アクティブ管理」とを組み合わせることが一般的になっています。パッシブデザインとは、断熱材の使用、自然換気、調湿性のある建材や壁材、日射遮蔽の工夫など、建物そのものの設計によってエネルギーをあまり使わずに快適な環境を保つ設計思想です。たとえば、窓の位置や大きさ、庇(ひさし)の形状、壁や床の素材選びひとつで、室内の温度変化を和らげたり、湿度を適度に調節したりすることができます。
一方で、四季の変化が大きい日本のような地域や、異常気象が多発する現代においては、建物だけでは調整しきれない場面も多く、空調や加湿・除湿などのアクティブな管理が不可欠です。最新の博物館では、断熱や遮光などのパッシブ対策を最大限に活かしながら、必要なときだけ自動的に空調や除湿器を稼働させるハイブリッドなシステムが導入されています。これにより、省エネルギーと高品質な保存環境の両立が図られています(Lucchi, 2018)。
展示空間での具体的な工夫
博物館の展示空間では、展示品を守るための工夫が至るところに見られます。たとえば、展示ケースの中では、外の空気や温度・湿度の変化から資料を守るために密閉性を高めたり、調湿材(シリカゲルや和紙など)を用いて微小環境(マイクロクライメイト)を安定させたりする工夫がなされています。展示ケースの材質やパッキンの選び方ひとつでも、内部の環境は大きく変わります。また、収蔵庫でも資料ごとに適切な棚や箱、仕切りを使い、空気の流れや温湿度の分布に気を配ることが欠かせません。
照明については、LEDライトや紫外線カットフィルター、調光機能付きの照明設備を使い、展示品へのダメージを最小限に抑えることが重視されています。たとえば、紙や繊維、染料を使った美術品は、長時間強い光を当てると色があせたり劣化したりしやすいため、タイマーやセンサーによって必要なときだけ照明を点灯するシステムなどもあります。来館者が多い展示空間では、外気の侵入や温湿度の急変にも注意が必要です。エントランスや通路に風除室や二重扉を設ける、空気の流れをコントロールするなど、建築的な工夫が活かされています。
省エネルギー・持続可能性への配慮
近年、地球温暖化やエネルギーコストの高騰が社会的な課題となる中、博物館の建築や運営にも省エネルギーや持続可能性が強く求められるようになっています。最新の博物館では、断熱性や気密性の高い建材を使用し、冷暖房効率を高める工夫が進んでいます。さらに、太陽光発電や地中熱利用、雨水の再利用など、再生可能エネルギーや資源循環型の設備を取り入れる事例も増えています。SDGs(持続可能な開発目標)やグリーン建築認証(LEED、CASBEEなど)を取得する博物館も世界各地で増えており、単なる保存や省エネだけでなく、環境負荷の少ない運営が「現代的な博物館の新しい常識」となりつつあります。
こうした取り組みは、単に環境にやさしいというだけでなく、運営コストの削減や、災害・異常気象へのレジリエンス強化にもつながります。今後の博物館は、地域の気候や文化、建物の特性に合わせて、最適な環境管理と持続可能な設計を両立させていくことがますます重要になるといえます。
博物館環境管理のこれから ― より良い未来のために
現代の課題と変化する社会背景
近年、気候変動の進行や自然災害の頻発、エネルギーコストの上昇といった新たな社会的課題が、博物館の環境管理にも大きな影響を及ぼしています。さらに、来館者や地域社会のニーズが多様化し、従来の一律的な管理方法だけでは対応が難しくなっています。こうした背景の中で、博物館は持続可能性や社会とのつながりをより重視した運営が求められるようになっています。
今後重視される環境管理の視点
これからの博物館環境管理では、省エネルギーやカーボンニュートラルといった地球規模の課題に貢献する視点が不可欠です。SDGs(持続可能な開発目標)への対応も重要なテーマとなっており、エネルギー消費を抑えつつ、快適で安全な保存環境を維持する工夫が求められます。また、IoTやAIなどのデジタル技術を活用した環境モニタリングや遠隔管理の導入が進んでおり、これまで以上にきめ細かなデータ管理とトラブル対応が実現できる時代になっています。加えて、災害や異常気象へのレジリエンス(柔軟な対応力)も現代の大きな課題です。
博物館ごとの個性と持続可能な運営
全ての博物館に同じ環境管理が当てはまるわけではありません。立地や建物の構造、扱う資料やコレクションの性質によって、最適な管理方法は大きく異なります。それぞれの博物館が地域の気候や文化、利用者の特性に合わせて、個性を活かした環境管理を模索することが今後ますます重要です。コミュニティや専門家、行政など多様なステークホルダーと連携し、新しい価値を生み出す持続可能な運営を目指す姿勢が求められています。
学芸員や実務者に求められる知識・スキル
これからの博物館現場では、基礎的な環境管理の知識だけでなく、最新の技術や国際的な動向にもアンテナを高く持つことが必要です。また、日々の点検やデータ管理、異常時の初動対応など、現場で判断し行動する力も欠かせません。チームで協力し、情報を共有し合いながら、柔軟に対応できる人材が今後の博物館を支えていきます。
まとめ ― 環境管理の意義とこれから
博物館の環境管理は、単なる設備や数値の管理にとどまらず、貴重な資料を未来に伝え、地域社会とつながる博物館経営の根幹です。気候変動や持続可能性といった大きな社会課題と向き合いながら、それぞれの博物館が自らの特色や強みを活かして、よりよい未来に向けた工夫を積み重ねていくことが大切です。これからも、学びと連携、創意工夫を大切に、持続可能な博物館づくりを進めていきましょう。
参考文献一覧
- Fabbri, K., & Bonora, A. (2021). Two new indices for preventive conservation of the cultural heritage: Predicted risk of damage and heritage microclimate risk. Journal of Cultural Heritage, 47, 208–217.
- Lucchi, E. (2018). Review of preventive conservation in museum buildings. Journal of Cultural Heritage, 29, 180–193.
- Lucchi, E. (2016). Multidisciplinary risk-based analysis for supporting the decision making process on conservation, energy efficiency, and human comfort in museum buildings. Journal of Cultural Heritage, 22, 1079–1089.