なぜ日本だけが「アート思考」を再ラベリングしたのか― 海外で語られない理由と社会構造の分析 ―

目次

なぜ「アート思考」は日本だけで強調されるのか

近年、日本では「アート思考」という言葉を目にする機会が急速に増えています。ビジネス研修や教育、さらには博物館・美術館の文脈でも、アート思考は創造性や判断力を高める重要な概念として語られるようになりました。一方で、海外に目を向けると、同じ言葉が同じ熱量で使われているとは言い難い状況があります。この違いに対して、「海外ではアート思考が遅れているのではないか」「日本が独自に流行らせている概念なのではないか」といった疑問や誤解が生まれがちです。

しかし、この見方は必ずしも適切ではありません。実際には、海外では芸術に由来する思考や判断のあり方が、別の言葉や枠組みの中で長く議論され、教育や専門職の現場に組み込まれてきました。そのため、「アート思考」という一つの名称として前面に出てこなかった可能性があります。言葉が目立たないことと、考え方が存在しないことは、必ずしも同義ではありません。

では、なぜ日本ではこの概念が、あえて「アート思考」として再ラベリングされ、強調されるようになったのでしょうか。そこには、日本の教育や組織、社会構造が抱えてきた特徴や、これまで十分に言語化されてこなかった能力の扱われ方が関係していると考えられます。また、この再ラベリングは単なる流行ではなく、日本社会が直面する判断の難しさや不確実性と深く結びついている可能性もあります。

本記事では、「なぜ日本だけがアート思考を再ラベリングしたのか」という問いを軸に、海外との違いを整理しながら、その背景にある構造的な理由を明らかにしていきます。そして、この現象が私たちの学びや仕事、さらには博物館・美術館の役割をどのように捉え直す手がかりになるのかを考えていきます。

そもそも「アート思考」とは何を指しているのか

日本で使われている「アート思考」の中身

日本で語られる「アート思考」は、多くの場合、創造的なアイデアを生み出すための思考法として紹介されます。しかし、その内実を丁寧に見ていくと、単なる発想テクニックやアイデア創出の方法論とは異なる性格を持っていることが分かります。むしろ重視されているのは、答えを素早く出すことではなく、判断に至るまでの姿勢や態度そのものです。

具体的には、第一に「正解を出さない」ことが強調されます。あらかじめ用意された正解に到達することよりも、簡単に答えを確定させない態度が重要視されます。第二に、「問題設定を疑う」ことです。与えられた問いをそのまま受け入れるのではなく、本当に問うべきことは何かを立ち止まって考える姿勢が求められます。

さらに、「判断を急がない」ことも重要な要素です。効率やスピードが重視される状況においても、あえて結論を先延ばしにし、複数の可能性を検討し続ける態度が評価されます。そして最後に、「曖昧さを保持する」ことが挙げられます。状況や意味が完全に定まらない状態を不完全なものとして排除するのではなく、判断の前提として受け止め続けることが、アート思考の中核に据えられています。

このように整理すると、日本で使われているアート思考は、特定の手法やフレームワークというよりも、不確実な状況でどのように判断と向き合うかという「態度」を指していると捉える方が適切です。

海外では別の言葉で整理されてきた

一方、海外ではこれらと同様の思考や判断のあり方が、「アート思考」という一つの名称でまとめられてきたわけではありません。代わりに、創造性研究や教育論の中で、問題発見、判断の遅延、不確実性への耐性といった要素が、それぞれ個別に理論化されてきました。そのため、日本で見られるような包括的なラベルが前面に出る必要がなかったと考えられます。

とりわけ重要なのが、創造性を「問題解決能力」とは異なる次元で捉える視点です。創造的な営みの本質は、与えられた課題をうまく解くことではなく、そもそも何が問題なのかを見出す能力にあると整理されてきました。この考え方は、芸術家の制作過程を分析した研究の中で明確に示されており、創造性とは解答の巧拙ではなく、問いの立て方に関わる能力であるとされています(Getzels & Csikszentmihalyi, 1976)。

この整理に照らすと、日本で語られるアート思考が重視する「正解を出さない」「問いを疑う」「曖昧さを保持する」といった態度は、海外で長く蓄積されてきた創造性研究の射程と大きく重なっていることが分かります。違いがあるとすれば、それは能力の内容ではなく、それをどのような言葉で社会に提示してきたかという点にあります。

海外で「アート思考」という言葉が広まらなかった理由

能力としてすでに教育・専門職に組み込まれていた

海外で「アート思考」という言葉が広く使われなかった第一の理由は、芸術に由来する判断のあり方が、すでに教育や専門職の前提能力として組み込まれていた点にあります。とりわけ欧米の教育思想においては、学習とはあらかじめ決められた正解に到達する過程ではなく、経験の中で意味を構成し直していく営みとして理解されてきました。そのため、判断に正解が存在しない状況は例外的なものではなく、むしろ学習や成長の出発点として位置づけられてきたのです。

この考え方のもとでは、教育の目的は「正しい答えを素早く出せるようになること」ではありません。むしろ、状況に応じて問いを立て直し、複数の可能性を検討しながら判断を引き受ける力を育てることに置かれます。芸術や表現活動は、そのための特別な訓練ではなく、判断の不確実性と向き合うための代表的な経験の一つとして扱われてきました。

このように、正解なき判断を前提とする教育観が共有されていた環境では、「アート思考」という新しいラベルを付けて能力を説明し直す必要性が生じにくくなります。判断の曖昧さや未決定性は、すでに教育や専門職の中に内在化されており、あえて特別な名称で切り出す対象ではなかったからです。こうした教育観は、経験を通じた意味形成を重視する思想の中で早くから理論化されてきました(Dewey, 1938)。

思考法ではなく「判断能力・態度」として扱われてきた

第二の理由として挙げられるのは、海外では芸術に由来する思考が、「〇〇思考」という方法論としてではなく、個々の判断能力や態度として扱われてきた点です。創造性に関する研究の多くは、手順やフレームワークを提示することよりも、人がどのように問いを見出し、状況を解釈し、判断を形成していくのかという能力の側面に焦点を当ててきました。

その際、重要視されてきたのは、問題解決の巧みさではありません。むしろ、どのような問題を問題として捉えるのか、どこに違和感を見出すのかといった、問題設定の段階における判断の質が、創造性の核心として整理されてきました。この視点に立つと、創造性とは特定の手法を適用する能力ではなく、状況に対する感受性や判断態度の総体として理解されます。

こうした理解のもとでは、創造的な能力を一つのフレームワークにまとめ上げる必然性は高くありません。能力は細分化され、それぞれが教育や実践の中で個別に育成されていきます。問題解決と創造性を明確に区別し、後者を問題発見の能力として位置づける整理も、この文脈で行われてきました(Runco, 1994)。結果として、海外では「アート思考」という包括的な名称が前面に出ることなく、判断能力として分解された形で内在化されていったと考えられます。

日本ではなぜ再ラベリングが必要だったのか

日本にも能力はあったが「思考として説明されなかった」

日本で「アート思考」が改めて名付け直される必要が生じた背景には、能力そのものの欠如ではなく、その能力がどのように理解され、評価されてきたかという問題があります。日本社会には、正解があらかじめ定まらない状況で判断を下す力や、状況全体の文脈を読み取る力が、長い時間をかけて培われてきました。こうした力は、芸術の分野に限らず、職人文化や編集、設計、さらには組織運営の現場など、さまざまな領域で発揮されてきたものです。

しかし、それらは多くの場合、「勘」や「美意識」、「経験に基づく暗黙知」として理解されてきました。高度な判断が行われているにもかかわらず、それは体系的に説明されることのない個人的資質や熟練の結果として扱われ、再現性のある能力としては位置づけられてこなかったのです。その結果、判断の質そのものよりも、成果や結果だけが評価される構造が生まれました。

この点を考える上で重要なのは、判断のあり方が個人の内面だけで決まるのではなく、制度や文化によって形成されるという視点です。どのような判断が価値あるものとして認識されるかは、社会的な枠組みによって規定されます。博物館や文化制度の分析を通じて示されてきたように、判断様式そのものが制度的に形づくられてきたという理解は、日本社会における芸術的判断の位置づけを考える上でも示唆的です(Bennett, 1995)。

日本では、こうした判断能力が存在していたにもかかわらず、それを「思考」として言語化し、教育や評価の軸に乗せる作業が十分に行われてきませんでした。その結果、能力は可視化されず、社会的に共有される評価基準の外側に置かれてきたといえます。

戦後日本の教育・組織が生んだ正解主義

この状況をさらに強めたのが、戦後日本の教育制度や組織運営において形成されてきた正解主義の構造です。急速な復興と経済成長を目指す中で、日本社会では効率性や再現性、説明可能性が強く求められるようになりました。誰が行っても同じ結果が得られる仕組みや、手順を共有できる方法論が、高く評価されてきたのです。

教育の現場でも、評価しやすさが重視され、正解が明確な問いに答える能力が中心に据えられてきました。こうした環境では、判断の過程や問いの立て方よりも、最終的な答えの正しさが優先されがちになります。その結果、判断を保留したり、問いそのものを疑ったりする態度は、非効率で曖昧なものとして扱われやすくなりました。

この構造の中で、芸術的な判断は周縁化されていきます。正解が一つに定まらないこと、解釈が複数成立することは、評価の対象として扱いにくく、教育や組織の中核から外れていったのです。そのため、芸術に由来する判断能力は、社会にとって重要でありながらも、体系的に扱われることのない領域に押し込められてきました。

「役に立つ力」へ翻訳する必要が生じた

こうした背景のもとで、日本社会では次第に別の問題が顕在化していきます。前例が通用しにくくなり、正解を事前に見通すことが難しい状況が増える中で、マニュアルや手順だけでは対応できない判断が求められる場面が増えていったのです。ビジネスや教育、公共分野においても、「どのように考え、どのように決めるか」が改めて問われるようになりました。

しかし、これまで評価軸の外に置かれてきた判断能力を、そのままの形で提示しても、社会的に理解されにくいという問題がありました。そこで必要とされたのが、既存の能力を「役に立つ力」として説明し直す作業です。この文脈で登場したのが、「アート思考」という再ラベリングでした。

重要なのは、この再ラベリングが新しい能力の発明を意味しているわけではないという点です。そうではなく、これまで勘や感性、暗黙知として扱われてきた判断能力を、思考の一形態として言語化し、社会的な評価の土俵に載せ直す翻訳行為だと捉える方が適切です。日本でアート思考が強調されるようになったのは、能力が不足していたからではなく、その能力を説明し、共有する言葉が必要とされる段階に入ったからだといえるでしょう。

デザイン思考の普及が「対抗概念」を必要とした

デザイン思考が日本で急速に広まった理由

日本でアート思考という言葉が広まる直前、ビジネスや教育の分野ではデザイン思考が急速に浸透していきました。その背景には、デザイン思考が持つ分かりやすさと、日本の組織文化との高い親和性があります。課題を定義し、アイデアを発散させ、試作と検証を繰り返すというプロセスは、手順として明確であり、研修やワークショップの形に落とし込みやすいものでした。

また、デザイン思考は「問題解決」に直結する思考法として紹介されることが多く、成果が可視化しやすい点も支持を集めた理由の一つです。短時間でアウトプットを出すことができ、組織としても導入効果を説明しやすい。そのため、創造性を高める方法として、まずデザイン思考が受け入れられていきました。

理論的にも、デザイン思考は不確実な状況において解決策を探索するための枠組みとして整理されています。問題と解決策を往復しながら探っていく思考様式は、従来の線形的な問題解決とは異なる特徴を持ち、実務における有効性が強調されてきました。このような特徴が、日本における実践的ニーズと合致したことで、デザイン思考は急速に普及していったと考えられます(Dorst, 2011)。

その限界として浮上した「問いを疑う力」

一方で、デザイン思考が広く用いられるようになるにつれて、その限界も徐々に意識されるようになりました。最大の課題は、問題設定そのものが前提化されやすい点にあります。デザイン思考は柔軟な枠組みを持つ一方で、実践の場では「与えられた課題をいかに解くか」に焦点が当たりやすく、そもそも何を問題として設定すべきかを問い直す段階が省略されることも少なくありません。

その結果、解決策の質や新規性は高まっても、問い自体が既存の枠内にとどまってしまうという状況が生じます。問題を疑うことよりも、問題を処理することが優先される構造が固定化されると、思考は次第に型にはまり、想定外の視点が入り込む余地が小さくなっていきます。

こうした限界を補完する概念として浮上してきたのが、アート思考でした。アート思考が重視するのは、問題を解く前に、そもそもその問題設定は妥当なのかを問い直す態度です。正解を急がず、問いを保留し、違和感を抱え続ける力は、デザイン思考だけでは捉えきれない思考の領域を担います。日本においてアート思考が「対抗概念」として意識されるようになったのは、デザイン思考の有効性が確認されたからこそ、その射程外にある思考の必要性が明確になった結果だといえるでしょう。

「アート思考」は新しい概念ではない

再ラベリングとは何が起きた行為なのか

日本で語られているアート思考は、しばしば新しい思考法や最新のビジネス理論のように受け取られがちです。しかし、これまで見てきたように、その中身を構成している要素自体は、決して新しいものではありません。正解が事前に分からない状況で判断を引き受けること、問いを立て直しながら考え続けること、経験の中で意味を更新していくことは、専門職や創造的実践の領域で長く重視されてきました。

こうした判断のあり方は、不確実な状況においてこそ発揮される能力として整理されてきました。状況を即座に単純化せず、行為と省察を往復しながら判断を形成していく姿勢は、専門性の成熟と深く結びついています。重要なのは、ここで問われているのが特定の手順や方法ではなく、判断に向き合う姿勢そのものだという点です。

このような不確実性下の判断を、専門家の中核的能力として位置づけた議論は、すでに理論化されてきました。実践の中で考え、考えながら行為するという省察的な判断のあり方は、専門性を支える基本条件として整理されています(Schön, 1983)。日本で起きた再ラベリングとは、この既存の能力を新たに発明した行為ではなく、すでに存在していた判断様式を、別の文脈で可視化し直した出来事だと捉えることができます。

日本的アート思考の特徴

では、日本で語られるアート思考には、どのような特徴があるのでしょうか。最大の特徴は、それが「思考法」としてパッケージ化されている点にあります。本来、判断の態度や姿勢は暗黙的で、言語化しにくい性質を持っています。しかし、日本ではそれをあえて思考法として整理し、説明可能な形にまとめ上げる必要が生じました。

その背景には、研修や教育の場に載せるためには、概念が一定程度整理され、共有可能な言葉で示される必要があるという事情があります。個々人の感性や勘に委ねられてきた判断能力を、そのままでは教育や組織に組み込むことが難しかったためです。その結果、アート思考は「問いを疑う」「正解を急がない」といった特徴を備えた思考法として語られるようになりました。

この言語化によって、日本ではこれまで周縁に置かれてきた判断能力が、研修や教育の対象として扱われるようになります。日本的アート思考とは、芸術的な思考を特別視するものではなく、判断の態度を社会的に共有し、育成可能な能力として位置づけ直すための表現だといえるでしょう。

博物館・美術館はなぜアート思考と相性が良いのか

正解を教えない学習環境としての博物館

博物館や美術館がアート思考と強い親和性を持つ最大の理由は、それらが本質的に「正解を教えない学習環境」として設計されている点にあります。多くの展示では、来館者に対して単一の解釈や結論が提示されるわけではありません。展示物をどのように理解し、どの点に価値や意味を見出すかは、来館者自身の判断に委ねられています。

このような環境では、知識の多寡よりも、どのように対象と向き合い、意味を構成していくかという態度が問われます。展示を見るという行為は、情報を受け取るだけの受動的な行動ではなく、断片的な情報や視覚的経験をもとに、自ら解釈を組み立てていく過程そのものです。その意味で、博物館は来館者に判断を強制するのではなく、判断を引き受ける場を提供しているといえます。

博物館教育研究では、こうした展示空間の特性が早くから指摘されてきました。博物館は知識を一方向的に伝達する場ではなく、来館者が意味を生成する場として機能するという理解です。学習とは情報の獲得ではなく、経験を通じた意味構成のプロセスであると整理されており、この視点は博物館を「判断の学習環境」として捉える理論的基盤を与えています(Hooper-Greenhill, 1999)。

日本であえて言語化する意味

では、なぜ日本において、博物館や美術館とアート思考の関係を、あえて言語化する必要があるのでしょうか。その理由は、博物館体験が持つ価値が、必ずしも社会の中で自明なものとして共有されてこなかった点にあります。展示を見ることは「勉強」や「鑑賞」として理解されがちであり、判断力や思考態度の訓練という側面は、十分に説明されてきませんでした。

しかし、博物館での来館体験を丁寧に捉え直すと、それは単なる情報取得ではなく、解釈のプロセスそのものだと分かります。来館者は展示物や空間、テキストとの相互作用の中で意味を組み立て、自身の価値観や理解を更新していきます。この体験は、サービスや体験価値の文脈においても、来館者が主体的に意味を創出するプロセスとして整理されています(Kotler et al., 2008)。

日本でアート思考という言葉を用いて博物館体験を説明することは、この解釈プロセスを可視化し、社会的に共有可能な価値として提示する試みだといえます。正解を教えない博物館という場が、判断を保留し、問いを抱え続ける力を育てる環境であることを言語化することで、博物館は学習や仕事、社会的判断と接続可能な存在として再定位されていくのです。

日本でアート思考が必要とされた本当の理由

本記事で見てきたように、日本で「アート思考」が強調されるようになった理由は、創造性や判断力が欠けていたからではありません。一言で再定義するなら、日本で起きたアート思考の再ラベリングとは、すでに存在していた判断能力を、社会に伝わる言葉へと翻訳し直す行為だったといえます。

日本社会にはもともと、正解が定まらない状況で文脈を読み取り、判断を引き受ける力が広く存在していました。しかし、それらは勘や経験、感性といった形で理解されることが多く、思考能力として体系的に説明されることはほとんどありませんでした。その結果、教育や組織、評価の場において共有される基準の外側に置かれ続けてきたのです。

一方で、社会環境が変化し、前例やマニュアルだけでは対応できない判断が増えるにつれて、これまで暗黙のうちに用いられてきた能力を、明示的に説明する必要が生じました。その際に選ばれた言葉が「アート思考」でした。ここで重要なのは、アート思考が新しい思考法として発明されたわけではないという点です。能力不足が原因だったのではなく、能力を共有し、評価するための言葉が不足していたという状況が、再ラベリングを要請したのです。

この理解に立つと、アート思考は芸術家だけの特別な能力ではなく、誰もが不確実な状況で用いている判断の態度を指していることが分かります。そして、その態度が最も自然な形で経験される場の一つが、博物館や美術館です。正解を提示せず、解釈を来館者に委ねる展示空間は、判断を保留し、問いを抱え続ける力を育てる学習環境として機能しています。

日本でアート思考という言葉を用いることは、博物館体験を単なる知識獲得や鑑賞の場としてではなく、判断力や思考態度を育てる教育的資源として捉え直すことにもつながります。アート思考の再ラベリングは、日本社会がこれまで十分に言語化してこなかった学びの価値を、博物館教育論の中に位置づけ直すための重要な手がかりでもあるのです。

参考文献

  • Bennett, T. (1995). The birth of the museum. Routledge.
  • Dewey, J. (1938). Education and experience. Macmillan.
  • Dorst, K. (2011). The core of design thinking and its application. Design Studies, 32(6), 521–532.
  • Getzels, J. W., & Csikszentmihalyi, M. (1976). The creative vision. Wiley.
  • Hooper-Greenhill, E. (1999). The educational role of the museum. Routledge.
  • Kotler, N., Kotler, P., & Kotler, W. I. (2008). Museum marketing and strategy. Jossey-Bass.
  • Runco, M. A. (1994). Problem finding, problem solving, and creativity. Ablex.
  • Schön, D. A. (1983). The reflective practitioner. Basic Books.
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この記事を書いた人

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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