なぜ今の博物館理解では足りないのか
機能別に説明されすぎる博物館
博物館は長らく、「収集」「保存」「研究」「展示」「教育」といった機能によって説明されてきました。制度上も教育課程上も、この整理は分かりやすく、博物館を理解するための基本的な枠組みとして定着しています。実際、各機能についての専門的な議論や実践は非常に豊富で、展示論、博物館教育論、コレクション管理論など、多くの知見が蓄積されてきました。
しかし、その一方で、博物館全体を一つの存在として捉える視点は、意外なほど乏しいままです。展示は展示、教育は教育、経営は経営と、それぞれが個別に語られることで、博物館が「どのように成り立ち、どのように動いているのか」という全体像が見えにくくなっているのです。結果として、問題が生じたときも、「展示が弱い」「教育が足りない」「広報が不十分だ」といった部分的な指摘に終始しがちになります。
このような理解の仕方は、一見すると合理的ですが、博物館が抱える複雑な課題を説明するには、どこか物足りなさが残ります。
「誰かが悪い」という説明に回収されてしまう構造
博物館の運営がうまくいかないとき、その理由はしばしば特定の主体に帰されます。学芸員が保守的だから新しいことができない、来館者が博物館を理解していないから評価されない、行政の理解や支援が不足しているから予算がつかない。こうした説明は、現場感覚として共感しやすい一方で、問題の所在を「誰かの意識」や「環境条件」に還元してしまう傾向があります。
しかし、この説明には限界があります。多くの博物館では、専門性を持ち、意欲的に取り組む職員が存在します。それでも状況が変わらない、あるいは一時的に改善しても長続きしないという事例は少なくありません。個々の努力や善意だけでは説明できない何かが、そこには存在しているように見えます。
なぜ説明として「物足りない」のか
このような違和感は、博物館に関わった経験のある人ほど強く感じているはずです。現場では確かに努力が重ねられている。それにもかかわらず、組織全体としては停滞感が残り、成功しているように見える取り組みでさえ、どこか持続性に欠ける。改善策を積み重ねても、同じような課題が繰り返し現れる。
ここで立ち止まって考える必要があります。問題は本当に、「何をしているか」だけで説明できるのでしょうか。展示内容、教育プログラム、広報戦略といった個々の要素だけを見ていても、なぜうまくいかないのかが腑に落ちないのだとすれば、視点そのものを変える必要があるのではないでしょうか。
もしかすると、問うべきなのは「何をしているか」ではなく、「それらがどのように結びついているのか」という点なのかもしれません。博物館を構成する要素同士の関係性や、そのつながり方に目を向けることで、これまで見えなかった課題の輪郭が浮かび上がってくる可能性があります。
システムとしての博物館
博物館を「関係の総体」として捉える
ここで提示したいのは、博物館を個々の機能や部門の集合としてではなく、人・モノ・知識・社会が相互に関係し合う「総体」として捉える見方です。収集、保存、展示、教育といった活動は、それぞれが独立して存在しているわけではなく、互いに影響を及ぼしながら成立しています。たとえば、収集方針は展示のあり方に影響し、展示は来館者の反応を通じて教育活動や次の研究テーマに影響を与えます。こうした関係性の連なりこそが、博物館を博物館たらしめていると考えることができます。
この視点を補強するものとして、Latham & Simmons は、博物館を「意味ある物理的資源」を構築・維持し、それを通して知識や概念を社会に伝達するシステムとして捉えています(Latham & Simmons, 2014)。ここで重要なのは、博物館の中核が単なるモノの集積ではなく、それらが意味づけられ、社会との関係の中で流通していく点に置かれていることです。この捉え方は、博物館を静的な施設ではなく、関係性が編み込まれた動的な存在として理解する手がかりを与えてくれます。
博物館は完成しない存在である
博物館を関係の総体として捉えるとき、もう一つ重要な特徴が浮かび上がります。それは、博物館が決して「完成」しない存在であるという点です。展示は常に暫定的なものであり、社会状況や研究の進展、来館者の受け止め方によって更新され続けます。経営方針や教育方針も同様に、一度決めたら終わりではなく、修正や再検討を前提として成り立っています。
Jung はこの状態を説明するために、博物館を ecosystem(生態系)として捉える比喩を用いています(Jung, 2011)。生態系では、個々の要素が相互に依存し、循環やフィードバックを通じて全体が維持・変化していきます。博物館も同様に、展示、来館者、職員、地域社会が循環的に関係し合うことで成り立っており、来館者は外部から影響を受ける存在ではなく、この循環を構成する一要素として位置づけられます。この視点に立つと、博物館に唯一の正解や最終形が存在しないことが、むしろ自然な状態として理解されるようになります。
システムとして見ると何が変わるのか
博物館をこのようにシステムとして捉えると、従来の理解とは異なる風景が見えてきます。第一に、博物館の中に固定的な「中心」を置く発想が後退します。館長や学芸員、コレクションが絶対的な中心として全体を支配するのではなく、さまざまな要素が相互に影響し合う関係の中で全体が成り立っていると考えるようになります。
第二に、知識や意味の流れが一方向ではなくなります。専門家から来館者へと一方的に伝えられるのではなく、来館者の反応や解釈が再び博物館の内部に戻り、次の展示や活動に影響を与える循環が重視されます。その結果、博物館の運営や経営においても、計画や統制よりも、学習や調整のプロセスが重要な意味を持つようになります。
ここで重要なのは、まだ厳密な定義を与えることではありません。博物館をシステムとして見るとは、博物館を「管理すべき対象」ではなく、「関係と学習が続く存在」として捉え直すことにあります。この見方の転換こそが、次に示す理論的整理や定義へとつながる出発点になります。
システムとは何か
一般的な「システム」理解との違い
ここで用いる「システム」という言葉は、日常的に使われる意味とは大きく異なります。一般にシステムというと、制度や仕組み、業務フロー、あるいはITシステムのような、あらかじめ設計され、管理・制御されるものを想起しがちです。その場合、システムは効率化や安定運用のための手段であり、適切に設計し、正しく運用すれば、想定どおりに機能することが前提とされています。
しかし、本稿で扱うシステムは、そのような意味での「管理対象」ではありません。むしろ、完全には制御できず、外部環境や内部の相互作用によって常に変化し続けるものとして理解されます。博物館をシステムとして捉える場合、それは規程や組織図を整えれば完成するものではなく、人・モノ・知識・社会の関係が動き続ける状態そのものを指しています。この点を押さえないままシステムという言葉を使うと、議論が制度論や運営論に矮小化されてしまいます。
参考文献におけるシステムの定義
このような理解は、近年の博物館研究において共有されつつあるものです。Latham & Simmons は、博物館を「意味ある物理的資源」を構築・維持し、それを通じて知識や概念が社会に流通するシステムとして捉えました(Latham & Simmons, 2014)。ここでのシステムは、モノそのものではなく、意味づけと知識の流通過程を含む構造として理解されています。
一方、Jung は、博物館を ecosystem(生態系)として捉え、人・モノ・知識・来館者が循環的に相互依存する存在であることを強調しています(Jung, 2011)。生態系という比喩は、博物館が固定的な構造ではなく、フィードバックを通じて全体が調整され、変化していく存在であることを示しています。
さらに Jung & Love は、システム思考の立場から、システムを「相互に関連する要素が、時間の中でパターン化された振る舞いを示す全体」と定義し、博物館を学習し続ける開かれた社会システムとして位置づけました(Jung & Love, 2017)。ここでは、要素そのものよりも、時間的な変化や行動のパターンが重視されています。
| 文献 | システムの捉え方 |
|---|---|
| Latham & Simmons(2014) | 意味ある物理的資源を通じて、知識と概念が社会に流通する構造 |
| Jung(2011) | 循環と相互依存によって成り立つ生態系 |
| Jung & Love(2017) | 時間の中で学習し、振る舞いを変化させ続ける全体 |
本稿で用いる「システム」の整理された定義
以上の議論を踏まえ、本稿ではシステムを次のように整理して用います。システムとは、相互に関係づけられた要素が、循環とフィードバックを通じて、時間の中で振る舞いを変化させ続ける全体です。この定義では、制度や仕組みといった静的な枠組みではなく、関係性の動きと変化のプロセスそのものが中心に置かれています。
この理解に立つことで、博物館は「設計し管理する対象」ではなく、「関係が編み直され続ける存在」として捉え直されます。ここで示した定義は、次に述べるシステムとして博物館を理解することの意義を考えるための基盤となるものです。
システムとして理解するメリット
失敗を「人の問題」にしなくて済む
博物館の運営がうまくいかないとき、その原因はしばしば特定の個人や集団に求められます。学芸員の姿勢が保守的である、現場に主体性が足りない、マネジメントが弱いといった説明は、現実の一部を捉えているように見える一方で、問題の構造を十分に説明しているとは言えません。実際には、意欲的で専門性の高い職員が存在していても、状況が改善しない博物館は少なくありません。
Jung は、博物館を生態系として捉える視点から、この種の問題を個人の資質ではなく、関係性の構造として理解する必要性を指摘しています(Jung, 2011)。展示、組織、来館者、社会環境のあいだにどのような循環や断絶が生じているのかに目を向けることで、失敗は「誰かの責任」ではなく、「どの関係がうまく機能していないのか」という問いへと置き換えられます。この転換は、責任追及を目的とした議論から、改善に向けた建設的な検討へと議論の質を変える点で、大きな意味を持ちます。
表面的な成功に騙されなくなる
来館者数の増加や話題性の高い展示、安定した収支といった指標は、博物館の成功を測る際によく用いられます。しかし、これらの成果が持続的な健全性を保証するとは限りません。短期的な成功の裏で、内部の学習が止まり、関係性が固定化している場合、博物館は見かけ上は安定していても、長期的には脆弱な状態に置かれます。
Jung & Love は、学習し続けるシステムとしての博物館という観点から、成果そのものよりも、変化に応答し続ける能力の有無を重視すべきだと論じています(Jung & Love, 2017)。システムとして博物館を捉えることで、短期的な成果と長期的な健全性を区別し、成功体験がかえって変化を妨げるリスクを可視化することが可能になります。
公共性・経営・教育を一つの理論で説明できる
博物館においては、公共性、経営、教育といった概念が、それぞれ別個の文脈で語られることが少なくありません。公共性は理念や制度の問題、経営は財務やマネジメントの問題、教育はプログラム設計の問題として切り分けられがちです。しかし、システムとして博物館を捉えると、これらは相互に切り離せない関係にあることが明確になります。
Latham & Simmons は、博物館を意味ある物理的資源を通じて知識が社会に流通するシステムとして位置づけました(Latham & Simmons, 2014)。この理解に立つと、公共性は単なる中立性ではなく、多様な意味や解釈が循環する状態として捉え直されます。また、Jung & Love が示すように、経営は統制や管理の技術ではなく、学習と調整が持続する関係性を維持する行為として理解されます(Jung & Love, 2017)。教育もまた、知識を一方向に伝達する活動ではなく、システム内で意味が生成され続けるプロセスの一部として位置づけられます。
なぜ博物館は「未完成」であるべきかを説明できる
システムとして博物館を理解することの最も重要な帰結の一つは、博物館が未完成であることを、欠陥ではなく健全性の条件として説明できる点にあります。展示が更新され続け、方針が修正され、解釈が揺れ動くことは、不安定さの証ではなく、システムが生きている証拠です。
Latham & Simmons、Jung、Jung & Love の議論を総合すると、博物館は固定的な完成形を目指す存在ではなく、関係と学習を通じて変化し続ける存在として捉えられます。未完成性とは、誤りを修正し、新たな問いを取り込み続ける余地が残されている状態を意味します。この理解に立つことで、博物館が常に揺れ動き続けることそのものを、理論的に正当化することが可能になります。
まとめ
本稿では、博物館を機能や制度の集合としてではなく、「システム」として捉え直すことで、これまで十分に説明しきれなかった違和感や停滞を、別の角度から理解できることを示してきました。重要なのは、新しい用語を導入することそのものではなく、博物館で起きている現象を、より筋の通ったかたちで説明できる見方を手に入れることにあります。
システムとして博物館を見ると、問題は個人の資質や努力不足に還元されるものではなく、人・モノ・知識・社会の関係性のあり方として浮かび上がります。また、短期的な成果や成功事例に一喜一憂するのではなく、学習や修正が続いているかどうかという長期的な健全性に目を向けることが可能になります。公共性、経営、教育といった領域も分断されるのではなく、一つの理論のもとで連続的に理解されます。
こうした視点に立つと、博物館が常に未完成であり続けることは弱点ではなく、むしろ変化し続ける社会に応答するための前提条件であることが見えてきます。システムとして博物館を理解することは、現場の試行錯誤や揺らぎを否定するのではなく、それを理論的に位置づけ、次の判断や対話につなげるための土台となるものだと言えるでしょう。

