アート思考はなぜ胡散臭いのか ― 誤解が生まれる構造を学術的に読み解く ―

目次

アート思考は「怪しい」のか

近年、「アート思考」という言葉を目にする機会が増えました。創造性を高める、新しい価値を生む、正解のない時代に必要な思考法――そのように称賛される一方で、「結局何をするのか分からない」「胡散臭い」「流行り言葉ではないか」といった疑念も根強く存在しています。検索エンジンで「アート思考」と入力すると、「怪しい」「胡散臭い」といった言葉が並ぶのは、その象徴と言えるでしょう。

この違和感は、決して特殊なものではありません。むしろ、アート思考という言葉が広がる過程で、多くの人が自然に抱いた感覚だと考えられます。重要なのは、その感覚を「理解不足」や「感度の低さ」として切り捨てないことです。アート思考が怪しく見えるのには、個人の問題ではなく、社会的・理論的な背景があります。

本記事の目的は、アート思考を無条件に擁護することでも、流行批判を行うことでもありません。「なぜアート思考は胡散臭く見えてしまうのか」という問いを出発点に、その理由を一つひとつ構造的に整理することにあります。結論を先取りするなら、違和感の正体は、言葉の使われ方や説明のされ方に潜むズレにあります。そのズレを丁寧にほどくことで、アート思考が抱え込んできた誤解の輪郭が見えてくるはずです。

なぜアート思考は「万能薬」のように語られてしまったのか

「VUCA時代」「AI時代」と結びつく過剰な一般化

アート思考が「万能薬」のように語られる背景には、VUCA時代やAI時代といった大きな時代認識との結びつきがあります。不確実性が高まり、過去の成功モデルが通用しなくなったという説明の中で、「これからは論理だけでは足りない」「新しい価値創造にはアート思考が必要だ」といった言説が繰り返されてきました。この文脈自体は理解しやすく、多くの人に共有されやすい構造を持っています。

しかし問題は、こうした説明の中で、思考法があたかも時代全体に対する単一の解決策であるかのように語られてしまう点にあります。本来、思考法は扱う課題や状況に応じて使い分けられるべきものであり、どの場面でも同じ思考様式が有効であるとは限りません。にもかかわらず、「VUCA時代だから」「AI時代だから」という大きな言葉と結びつくことで、アート思考は万能であるかのような位置づけを与えられてきました。

デザイン思考を含む創造的思考の研究では、各思考様式には役割分担があり、特定の文脈でこそ力を発揮することが整理されています。問題設定、意味づけ、解決策の検討といったプロセスごとに、有効な思考のあり方は異なります(Dorst, 2011)。この前提が省略されたまま「これからはアート思考」と語られると、説明の射程が不明確になり、過剰な一般化として受け取られてしまうのです。

「何に効くのか」が説明されないことへの不信

もう一つの要因は、アート思考が「何に効くのか」が十分に説明されないまま期待だけが先行してきた点にあります。創造性が高まる、新しい価値が生まれる、柔軟な発想ができるといった効果は語られるものの、それがどのような課題に対して、どの段階で有効なのかが示されないケースは少なくありません。

その結果、受け手の側には「結局、それで何が解決するのか分からない」という違和感が残ります。この感覚は、アート思考に対する理解不足から生じているのではなく、説明の不足に対する極めて合理的な反応だと言えます。対象や適用範囲が示されなければ、どんな思考法であっても信頼を得ることは難しいでしょう。

思考様式は、万能であるから価値を持つのではなく、どのような問題状況で、どのような役割を果たすのかが明確であるときにこそ意味を持ちます。この整理が欠けたままアート思考が提示されることで、「過大評価されているのではないか」「流行語として消費されているのではないか」という不信が生まれてきたのです(Dorst, 2011)。

ワークショップ化によって「軽く」見えてしまう理由

付箋・対話・体験型プログラムへの過度な単純化

アート思考が「軽いもの」「浅いもの」と受け取られやすい大きな理由の一つに、ワークショップ形式との強い結びつきがあります。実務や研修の現場では、アート思考はしばしば、付箋を使った発想法や自由な対話を中心とした体験型プログラムとして紹介されてきました。その結果、「アート思考=ワークショップ」というイメージが広く定着しています。

こうした形式は、導入としては有効です。参加のハードルが低く、短時間でも実施できるため、多くの人に体験の機会を提供できます。しかし同時に、「楽しさ」や「自由さ」が前面に出ることで、思考の深度が見えにくくなるという問題を抱えています。話しやすい雰囲気や発言の多さが強調されるほど、そこで行われている思考がどの程度厳密なのかは、外から判断しにくくなります。

成人学習の理論では、体験そのものが学習を保証するわけではないことが指摘されています。むしろ、心地よい体験は深い内省や認知の変容を伴わないまま終わる可能性もあります(Mezirow, 1991)。アート思考がワークショップの形式だけで理解されると、そこで本来求められている思考の緊張感や判断の重さが覆い隠され、「なんとなく話して終わるもの」という印象が残りやすくなるのです。

本来のアート思考が含む「判断の負荷」が省略されている

本来、芸術的な思考や実践は、不確実性や葛藤と常に隣り合わせにあります。何が正解か分からない状況で選択を迫られ、意味が定まらないまま判断を引き受ける。その過程には、迷いや違和感、判断を一時的に停止する局面が含まれます。こうした負荷こそが、アート思考の中核にあります。

しかし、軽量化されたワークショップ型の実践では、この核心部分が省略されがちです。短時間で成果を出すことが求められる場面では、判断を引き延ばすことや葛藤を抱え続けることは、むしろ避けられます。その結果、参加者は「考えたつもり」にはなれても、判断の重さを引き受ける経験には至らないまま終わります。

芸術体験の研究では、鑑賞や制作において意味が生成される過程には、混乱や葛藤といった否定的感情が重要な役割を果たすことが示されています(Pelowski et al., 2017)。これらが欠落した実践は、必然的に表層的なものになります。したがって、アート思考が「浅く見える」のは誤解ではなく、軽量化された実践を見た際の自然な観察結果だと言えるでしょう。

成果が数値で示されにくいことへの不安

評価できない思考は「価値がない」のか

アート思考が怪しく見える理由として、成果が数値で示されにくいことへの不安は非常に大きな位置を占めています。特にビジネスや教育の文脈では、成果は測定可能であることが暗黙の前提とされてきました。KPIやROI、到達目標の達成度など、数値によって可視化できるものこそが「説明可能な価値」と見なされやすい環境では、評価できない思考は疑われやすくなります。

この測定主義的な前提のもとでは、「数値で示せない=効果が分からない」「効果が分からない=価値がない」という短絡が生じやすくなります。アート思考に対して向けられる「結局、何がどれくらい良くなったのか分からない」という疑念は、こうした評価文化の中ではごく自然な反応だと言えるでしょう。

しかし、教育哲学や評価論の分野では、測定できることと価値があることは必ずしも一致しないことが繰り返し指摘されてきました。教育において重要な学びの多くは、数値化しにくい形で現れます。判断力や意味理解、価値の捉え直しといった能力は、短期的な指標では捉えにくく、測定を優先することでむしろ見失われてしまう危険すらあります(Biesta, 2010)。アート思考が数値で評価しにくいからといって、それ自体が無価値であるとは言えないのです。

アート思考が扱うのは「結果」ではなく「判断過程」である

アート思考が成果として扱っているものは、売上の増加や効率化といった即時的な結果ではありません。むしろ焦点が当てられているのは、決断に至るまでの過程でどのような意味生成が行われたのか、どのような判断が引き受けられたのかという点にあります。これは、結果だけを見て評価する枠組みとは本質的に相性が良くありません。

芸術経験を論じた古典的研究では、価値は行為の最終成果ではなく、経験の過程そのものに宿るとされています。人は経験を通して意味を再編成し、世界の捉え方を変えていきます(Dewey, 1934)。アート思考も同様に、短期的なアウトプットではなく、判断の質がどのように変化したかという点に本質があります。

このため、アート思考の効果は時間をおいて現れることが多く、即時的な数値評価とは時間軸がずれています。このズレが、「効果が見えない」「成果が不明確だ」という不信感を生み出します。しかしそれは、アート思考が弱いからではなく、評価の枠組みが合っていないことによって生じている問題です。結果だけでなく判断過程に目を向けたとき、アート思考が担っている役割の輪郭が、初めて見えてくると言えるでしょう。

定義が曖昧なまま広まりすぎたという問題

創造性・芸術的思考はそもそも単純に定義できない

アート思考が「よく分からない」「怪しい」と受け取られやすい理由の一つに、そもそも創造性や芸術的思考そのものが、単純な定義に収まらない性質を持っていることがあります。一般には、創造性は「新しい解決策を生み出す力」と理解されがちですが、研究の蓄積を見ると、それだけでは不十分であることが分かっています。

創造性研究では、重要なのは解決策そのものよりも、「どのような問題を問題として見出すか」という段階にあるとされています。つまり、創造性には問題解決だけでなく、問題発見という側面が含まれています(Runco, 1994)。この段階では、評価基準やゴールが明確でないことも多く、思考の過程は必然的に曖昧さを伴います。

このような思考様式は、測定や比較を前提とした操作的定義に回収しにくい特性を持っています。どこからが問題発見で、どこまでが創造的思考なのかを明確な線で区切ることは難しく、状況や文脈によって姿を変えます。その結果、「定義できない」「説明しにくい」という印象が先行しやすくなります。

そして社会的には、「はっきり定義できないものは信頼できない」「輪郭が曖昧な概念は怪しい」という反応が生じがちです。アート思考に向けられる違和感の一部は、内容そのものというよりも、この定義不可能性に対する不安から生まれていると考えられます。

結果イメージだけが流通した「概念の希薄化」

もう一つの問題は、アート思考が広まる過程で、結果のイメージだけが切り取られて流通してきた点にあります。「自由な発想」「創造性が高まる」「新しいアイデアが生まれる」といった分かりやすい効果は、説明しやすく、共有もしやすいものです。しかし、その背後にある理論的な前提や思考のプロセスは、十分に語られてきたとは言えません。

芸術制作や創造的活動の研究では、実際の思考は試行錯誤や行き詰まり、方向転換を繰り返す探索的な過程として捉えられています。制作の途中では、何が正しいのか分からない状態が長く続き、意味や価値は後から立ち上がってくるものです(Getzels & Csikszentmihalyi, 1976)。

しかし、こうした探索的思考の特徴が省略されたまま、「アート思考=自由で創造的」という結果イメージだけが独立すると、概念は急速に薄まっていきます。背景にある負荷や不確実性が見えなくなり、「それっぽい言葉」として消費されやすくなるのです。

この状態は、「アート思考の定義が曖昧だから怪しい」のではなく、「複雑な概念が過度に簡略化された結果、輪郭が失われてしまった」と捉える方が適切でしょう。定義できないのではなく、定義に至る前提が共有されないまま広まってしまったことこそが、胡散臭さを生む大きな要因だと言えます。

アートそのものに対する誤解が前提にある

芸術は感覚的・非論理的だという誤解

アート思考が「怪しい」「信用しにくい」と感じられる背景には、アートそのものに対する社会的な誤解が存在しています。日本社会では、芸術はしばしば「感覚的なもの」「才能やセンスの世界」「論理とは対極にあるもの」として理解されてきました。この見方では、芸術は思考や判断の対象ではなく、感じるかどうかの問題として位置づけられがちです。

こうした芸術観のもとでは、アートは理性や判断から切り離された領域とみなされます。その結果、「アート」と「思考」という言葉が結びついた瞬間に違和感が生じます。感覚的で非論理的だと考えられているものに、思考法や判断の枠組みを与えようとする試み自体が、不自然に映ってしまうのです。

しかし、美学や知覚研究の分野では、芸術経験は単なる感情の発露ではなく、知覚・判断・意味づけを含む高度な認知活動として捉えられています。芸術作品をどのように見るか、何に注意を向け、どの解釈を採用するかといった選択は、感覚任せではなく、常に判断を伴っています(Nanay, 2014)。それにもかかわらず、芸術が「考えなくてよいもの」「説明できないもの」と理解されている限り、アート思考という概念は違和感を伴って受け止められ続けるでしょう。

芸術鑑賞は「何でもあり」ではない

芸術鑑賞に対してよく向けられる誤解の一つに、「感じたことはすべて正しい」「解釈は何でもありだ」という見方があります。この理解では、鑑賞は主観的な感想の表明にとどまり、判断や制約を伴わない行為として捉えられます。しかし、実際の芸術鑑賞は、それほど自由で無秩序なものではありません。

鑑賞者は、作品の形式や文脈、提示された要素との関係を踏まえながら、どの解釈が成り立つのかを無意識のうちに取捨選択しています。すべての解釈が等しく妥当であるわけではなく、そこには一定の制約と判断が働いています。意味は即座に与えられるものではなく、曖昧さを引き受けながら徐々に形成されていきます(Jakesch & Leder, 2009)。

アート思考の胡散臭さの最深層には、この「芸術は何でもありで、考えなくてもよいものだ」という前提があります。芸術鑑賞が本来含んでいる判断の重さや不確実性が見えないままでは、そこから思考様式を引き出そうとする試みは理解されにくいでしょう。アート思考が違和感を持って受け止められるのは、概念が奇抜だからではなく、私たち自身の芸術理解が極端に単純化されてきた結果だと言えます。

まとめ|アート思考が胡散臭く見える理由を構造的に整理する

ここまで見てきたように、アート思考が「胡散臭い」「怪しい」と感じられるのは、個人の感覚や理解不足によるものではありません。その違和感は、アート思考が社会に広まる過程で生じた、いくつもの構造的な要因が重なり合った結果として生まれています。

まず、VUCA時代やAI時代といった大きな文脈の中で、アート思考があたかも万能の解決策であるかのように語られてきました。次に、ワークショップ化によって実践が軽量化され、本来含まれるべき判断の重さや葛藤が見えにくくなりました。さらに、成果が数値で示されにくいという特性が、測定主義的な評価文化と衝突し、「効果が分からないものは信用できない」という不安を生み出してきました。そして、創造性や芸術的思考の複雑さが十分に共有されないまま、結果イメージだけが流通したことで、概念そのものが簡略化されすぎた状態に置かれてきたのです。

こうした条件が重なると、アート思考はどうしても「よく分からないが持ち上げられているもの」「中身が曖昧な流行語」のように見えてしまいます。しかしそれは、アート思考が空虚だからではなく、伝えられ方や受け取られ方にズレが生じてきた結果だと捉える方が妥当でしょう。

本来のアート思考は、派手な発想法や即効性のあるノウハウではありません。正解が定まらない状況の中で、判断を急がず、意味が立ち上がるまで立ち止まり続けるための思考様式です。その意味で、アート思考は「役に立つ答え」を与えるものではなく、「安易に答えを出さない態度」を支えるものだと言えます。

もしアート思考に対して違和感や疑念を覚えたとしたら、それは拒絶すべき反応ではありません。その違和感こそが、「なぜそう感じるのか」を問い直す契機になります。アート思考が胡散臭く見える理由を考え始めた瞬間、私たちはすでに、その思考の入口に立っているのです。

参考文献

  • Biesta, G. (2010). Good education in an age of measurement. Paradigm Publishers.
  • Dewey, J. (1934). Art as experience. Perigee Books.
  • Dorst, K. (2011). The core of “design thinking” and its application. Design Studies, 32(6), 521–532.
  • Getzels, J. W., & Csikszentmihalyi, M. (1976). The creative vision. Wiley.
  • Jakesch, M., & Leder, H. (2009). Finding meaning in art: Preferred levels of ambiguity. Quarterly Journal of Experimental Psychology, 62(11), 2105–2112.
  • Mezirow, J. (1991). Transformative dimensions of adult learning. Jossey-Bass.
  • Nanay, B. (2014). Aesthetics as philosophy of perception. Oxford University Press.
  • Pelowski, M., et al. (2017). A model of art perception, evaluation and emotion. Physics of Life Reviews, 21, 80–125.
  • Runco, M. A. (1994). Problem finding, problem solving, and creativity. Ablex.
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この記事を書いた人

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日々の業務経験をもとに、ミュージアムの楽しさや魅力を発信しています。このサイトは、博物館関係者や研究者だけでなく、ミュージアムに興味を持つ一般の方々にも有益な情報源となることを目指しています。

私は、博物館・美術館の魅力をより多くの人に伝えるために「Museum Studies JAPAN」を立ち上げました。博物館は単なる展示施設ではなく、文化や歴史を未来へつなぐ重要な役割を担っています。運営者として、ミュージアムがどのように進化し、より多くの人々に価値を提供できるのかを追求し続けています。

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